「わ……私は姉です。愛しているなんて……」

 

 驚いて否定した椿に、エレーヌは美しく整えられた眉をぴくりと上げた。


「なぜ? 血がつながらないのなら別におかしなことではないでしょう? まさかあなた、自分の気持ちに気づいていないの? そんなに独占欲丸出しって顔してるのに」

「独占欲……?」

「ええ。和真が欲しいのでしょう? 顔に私に取られたくないって書いてあるわ。違う?」


 エレーヌの言葉の意味が分からず、椿は困惑した。


 和真を独り占めしたいなどと思ったことは、ない。だって和真は赤子の時からずっと一緒にいて、それが当たり前で。いつか離れるとしたら、和真が伴侶を得て自分がこの屋敷を出て行く時。けれどそれは、和真の幸せを望むなら当然のことで――。


 だからこそ、これまで縁談話が持ち上がる度にああして懸命にうまくいくようにと心を砕いてきたのだ。もし誰にも渡したくないなどと思っていたら、縁談など勧めはしなかっただろう。


 まさかそんな思いが自分の中にあるとは、椿は思いもしない。けれど何か、エレーヌの言葉に心の奥底に隠してきた感情が、じわりと外に滲み出してくるような不安を感じていた。


「違うわ……。私はただ和真が幸せになってくれたら、それだけで。だって私はそのためにこの遠山家に迎えられた存在なのだから……。そんな、独占したいなんて」


 口ではそう言いながら、心がそれを否定していた。

 否定……? 何を?


 椿は胸の中がひどくざわついて、これ以上自分の気持ちを見つめてはいけないと何かが警鐘を鳴らすのを感じていた。


 それは、自分の奥深くにずっとある罪悪感――。幸せになってはいけない。自分はこれ以上幸せを求めてはいけないという、呪縛のような思い。


 エレーヌの視線が、椿の揺れる瞳を強く突き刺した。


「なるほどね。鈍感な人って、ある意味で残酷ね。だから和真はいつまでもああして……。少しはあなたのこと私にはっきり意見の言えるおもしろい人かと思ったけど、私の勘違いだったみたいだわ」


 エレーヌは呆れたようにため息を吐き出して、そっぽを向いた。その顔は明らかに不機嫌そうで。


「とにかく私は和真が欲しいの。だからあきらめる気はないし、あなたにも渡さない。もっとも和真は私にちっともなびいてくれないんだけど。……その理由は、あなたに会ってすぐわかったわ。なのにこんな戦い甲斐のない相手だったなんて、本当につまらない」

「一体何を……?」


 エレーヌが何の話をしているのかは分かりかねたが、どうやらひどく敵視され呆れられたことだけは分かった。

 もし自分の立ち回りが下手で商談に問題が起きてしまったらと思うと、気が気ではない。かといって、なんと返せばいいのかも分からず途方に暮れるしかなかった。


「椿、なぜあなたはそんなに臆病なの? 何かに怯えているの? 和真が望まないなら私との結婚は認めないって言ったあなたは、もっと気概がありそうに見えたわ。なのに自分のこととなったら急にそんなに怯えて……。わけが分からないわ」


 そんなに怯えているようにエレーヌにはうつるのだろうか。

 でも、怯えているって一体何に? 自分の気持ちが分からないから?


 椿には分からない。

 でも、もうこんな話はしたくないと思った。


 椿は自分の身体がひどく震えているのに気がつき、自分の腕で強く抱きしめた。そうでもしないと、倒れてしまいそうだったから。


 その姿を、エレーヌはいぶかしげな目で見つめていた。


「あなたったらまるで、無欲な振りして自分を戒めているみたい。欲しいものを欲しいということは別に罪じゃないわ。欲があるから、人は生きていけるんだもの。和真の愛が欲しくないの? この先和真が他の人を愛するのを、あなたはそばで平気な顔で見ていられるの?」


 エレーヌの言葉に、思わず首を振り耳を塞いだ。 

 何も聞きたくない。何も知りたくない。何もわかりたくなかった。


 心を閉ざしたかのように無表情で黙り込んだ椿に、エレーヌはどこかあきらめたようにため息を吐き出した。


「……まぁいいわ。けれどね、椿。自分の気持ちからは決して逃げられないわ。逃げても逃げてもいつか追いつかれるものよ。人間なんて欲の塊だわ。だからこそ、美しいものが欲しいの。唯一無二の愛が欲しいのよ」


 エレーヌは少し言葉を切り、椿をじっと見すえ同性でもどきりとするような魅力的な笑みを浮かべた。


「それともうひとつ、いいことを教えてあげる。商談はね、我が家所有の船の上で三日三晩かけて行われるの。特上のお酒とおいしい食事と、そして私も一緒に。和真と一緒に過ごすのが今からとても楽しみだわ」


 別に幾日も一緒にいるからといって、これは仕事なのだ。何かあるわけもない。けれど、和真がもしエレーヌを気に入っていたら……?

 もしそれが和真の望みならば、姉として祝福するのが当たり前だ。


 そうは言い聞かせてみるものの、わき上がる暗く澱む、そして熱を持った嫌な感情を打ち消すことがどうしてもできないのだった。


 エレーヌは、凛とした表情で嫣然と微笑み、きっぱりと宣言した。

 

「そうやってあなたが指をくわえて見ているだけなら、私は本気で和真をもらうわ。私はあきらめない。絶対に和真を手に入れて見せるから、覚えておいて」


 エレーヌの挑戦的な目が光る。その強い眼差しに、椿は動くことも何かを言い返すこともできずその場に立ち尽くすしかできなかった。


「じゃあね、椿。商談後、あなたに色々な意味で良い報告ができることを祈っているわ。……また、会いましょうね。お姉様?」 


 うっとりするほど自信たっぷりな笑みをその顔に浮かべ、エレーヌは屋敷の中へと戻っていった。


 椿はそれを言葉もなく見つめ、思わずぶるりと震える身体を抱きしめたのだった。






「では、船でお会いできるのを楽しみにしていますよ。和真、そして当矢。極上の酒をたっぷり用意しておきますからね」


 和やかにゴダルドとの晩餐は終わり、父も和真も、そしてはじめは緊張した面持ちだった当矢も今はどこか安堵したような表情を見せていた。

 どうやらゴダルドは二人を気に入ったらしく、終始ご機嫌だった。


「椿。また会いましょうね? あなたの答え、楽しみにしているわ」


 その言葉とは裏腹に、エレーヌの目がきらりと光った。

 その目の中にちらりと見えた挑戦的な色に、椿はどう反応すべきか当惑したまま曖昧な表情で応えた。


「……和真、船で待っているわ。たくさんおいしいものを用意しておくわね。期待していて。三日三晩、決して飽きさせないから」


 ふふ、と軽やかに笑うエレーヌの笑い声に、椿は目を伏せる。


 まるでそれは椿の心に鉛のように重く響くのだった。




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