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「姿勢は、真っ直ぐにきれいに伸ばしましょう。歩く時も立っている時も気を抜かずに。……そうそう、皆さんとても上手だわ。指先もちゃんと伸びていてきれいよ」
一人一人に丁寧に優しく声をかけながら美琴が子どもたちに美しい立ち方を教える様子を、少し離れたところから椿は見ていた。
思わず、見ているこちらもしゃんと背が伸びる。
やはり生まれながらの良家の令嬢である美琴の仕草は、美しい。椿も三才で遠山の屋敷に迎えられてからその辺りも含めてきちんと教育は受けたのだが、どこか違う。隅々まで神経が丁寧に行き届いているというか。
まだ姿勢をしっかり保てない小さな子に手を貸しながら、椿はその美しさについ見惚れた。
美琴と初めて対面した子どもたちは、さすがに名家の令嬢直々に教わると聞いて驚き少し戸惑っていた様子だったけれど、それも最初のうちだけだった。すぐに美琴の心根の優しさに打ち解けたようだった。
ただひとりを除いては――。
皆が熱心に美琴の教えに耳を傾ける中、それは起きた。
「本当に皆さん、とても上手だわ。きちんとした立ち居振る舞いが身についているだけでも色々なお仕事にきっと役立つし、頑張ればきっと報われるわ。最初はうまくできなくても当然なの。何度も繰り返して練習すればきっと自然に……」
「……ねえ! 報われるって何? 頑張れば報われるなんて、そんな簡単に言わないでよ! 何も知らない癖にっ」
美琴の言葉にかぶせるように声を発したのは、吉乃だった。
その声に、明らかな怒りが滲んでいるのがわかった。
和やかだったはずの場に一瞬にして張り詰めた空気が漂い、小さな子たちの顔に怯えた色が浮かんだ。
「吉乃?」
椿はいつもの吉乃らしくない態度に思わず声をかけたが、吉乃はこちらを振り向こうともせずただじっと前方にいる美琴をにらみつけている。
「一体どうしたの、吉乃?」
ただならぬ雰囲気に、椿は慌てて吉乃の方へと駆け寄ろうとした。けれどその時。
「椿姉、どうしてこの人をここに連れてきたの?」
「……え? どうしてって……だからそれは、あなたたちに勉強を教えている話をしたらぜひ手伝いたいって美琴様が申し出てくれたから」
椿はひどく戸惑っていた。
吉乃は気の強い勝気な子ではあるけれど、決して意味もなく感情を荒立てるような子ではない。むしろ普段は、小さい子たちのお姉さんとして常に我慢強く愛情深く接しているのだから。
なのに、どうしてこんなに怒りをにじませて美琴にこんな乱暴な発言をしたのだろうか、と。
「どうせ金持ちの自己満足でしょう? かわいそうな恵まれない孤児を憐れんで、上から見下ろしているんでしょ? そんなことのために、私たちを利用しないでよ。椿姉がいれば、それで充分じゃない! どうしてあなたみたいな何の苦労もしたことがないようなお金持ちのお嬢様がくるのよ!」
吉乃の言葉は止まらなかった。
「あなた、あの雪園家のお嬢様なんでしょう? 生まれてから一度も空腹に苦しんだことも寒さに凍えたこともないんでしょう? 金持ちで苦労もしたことがないから、そんな簡単に言えるのよ。明之みたいに頭も良くて文句も言わずに頑張る人間でも、こんなに報われないのに! 簡単に頑張れば報われるなんて言わないで!」
その言葉に、美琴の表情がこわばり凍り付いた。
「吉乃っ。決して美琴様はそんな……」
「……いいよ。椿様」
言いかけた言葉を、美琴が制した。
椿がはっとして美琴の方を見ると、美琴は少し悲しげな表情を浮かべてはいたけれどそこに怒りの色は見えなかった。
「だって、この子の言う通りだもの。私はこれまでの人生で、一度も生きるのに困ったこともなければ苦しんだこともないのだから。そんな私が頑張れば、なんて言ってもあなたたちに届くわけなかったんだわ」
美琴は吉乃の方へ歩み寄ると、吉乃の肩がびくりと跳ねた。
そっとその前に立つと、膝をついて吉乃と視線を合わせる。
「吉乃さん、と言ったわね。ごめんなさいね。私が浅はかだったわ。決してあなたたちを傷つけたり、嫌な気持ちにさせるつもりはなかったの。ただ、私にできることが何かわずかでもあるのなら少しでも力になりたかっただけなの」
吉乃は美琴と目線を合わせようともせず、ただそっぽを向いて黙りこくる。
「本当にごめんなさい。吉乃さん」
美琴はどこまでも冷静で穏やかだった。
「美琴様……」
二人のやりとりを、椿はただ見つめているしかなかった。何と言えば良かったのだろう。吉乃がなぜこんなにも強く美琴の言葉に反応したのかは分からないが、明之にまた何かあったのだろうか。確かにさっき、明之のように頑張っていても報われない、と言っていた気がするけれど。
ざわつく他の子どもたちを必死になだめながら、椿はこの場をどう収めるべきかを必死に考えていた。
けれど次に発した吉乃の言葉に、今度は椿が凍り付く番だった。
「何よ……。そんないかにも優しそうな顔をして憐れむのはやめて。自分はあたたかい屋敷に住んで家族もいて、毎日お腹いっぱいにごはんが食べられて、そんな恵まれた場所から私たちを見下ろしていい気分になってるのよ。そんなのただの自己満足じゃない! それとも罪悪感? 自分だけが恵まれていて、私たちはかわいそうとか?」
その言葉に、椿の心がミシリ、と大きな音を立てた気がした。
吉乃は悔しそうに両の拳をぎゅっと握りしめ、絞り出すような声で呟いた。
「私は……。私……、あなたとなんて話したくないわ。……大嫌い。皆、皆大嫌い!」
吉乃は爆発したようにそう叫ぶと、勢いよく部屋を飛び出し外へと駆け出したのだった。
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