10


「う……うわあぁーんっ! 吉乃お姉ちゃんが怒ったぁ!」

「なんでぇ? 怖いよぉ」


 小さな子どもたちがいつになく感情を荒げた吉乃の姿にショックを受け、泣き出した。慌ててそばに駆け寄り、抱きしめながら必死になだめる。

 飛び出していった吉乃を追いかけたい気持ちと、この子たちを放ってもおけない気持ち。そしてもうひとつ。吉乃の話を聞くのが怖い、という気持ちとで、椿は混乱していた。


「美琴様。吉乃は……きっと何か抱えているものがあって、あんなことを。普段は、あんなことを言うような子では決してないんです。ですからどうか……」


 美琴は、吉乃の去った方をじっと心配そうな顔で見つめていたが今自分が追いかけてはかえって刺激するに違いないと判断したらしかった。

 今日の吉乃は明らかにいつもと違っていた。


 明之の名前を出していたから、もしかしたら何か明之とのことで気にかかっていることでもあるのかもしれない。ちゃんと後で話を聞いて、吉乃と美琴との間にある誤解を解きたかった。けれど今は――。


「私のことはお気遣いなく。考えなしだったのは確かですもの。今日は、私このままお暇しますわ。私がいてはきっと子どもたちも落ち着かないでしょうし。……ごめんなさい。椿様。何のお力にもなれないどころかこんな騒ぎになってしまって……」


 美琴のなんとか表情を取り繕おうとするその様子に、胸が痛んだ。

 朝は当矢から預かった手紙に、あんなに嬉しそうに声を弾ませていたのに。初めての子どもたちとの対面に、緊張しつつもとても頑張っていたのに。


「それと私、しばらく子どもたちの元へは行かないほうがいいかもしれないわ。でももしご迷惑じゃなかったら教材作りなんかはお手伝いさせてほしいの。直接会いに行かなくてもできることは他にもたくさんあるはずだから」

「美琴様……。今日は本当にごめんなさい。吉乃と話をしてみますわ……。本当になんてお詫びしたらいいのか……」


 椿は美琴にも申し訳なく、かといって吉乃が悪いわけではない。

 吉乃はまだ十二才なのだ。あの小さな体で、心でどれだけの暗く寂しい思いを抱えて毎日生きているのか、それは椿にもよく分かっている。


 きっと自分の知らないところで、何か――あの子の心を痛めるような何かがあったに違いない。


 吉乃の言った言葉が、脳裏によみがえる。


『自分はあたたかい屋敷に住んで家族もいて、毎日お腹いっぱいにごはんが食べられて、そんな恵まれた場所から私たちを見下ろしていい気分になってるのよ。そんなのただの自己満足じゃない! それとも罪悪感? 自分だけが恵まれていて、私たちはかわいそうとか?』


 あの言葉は、椿の心にぐっさりと突き刺さった。


 あれは私だ。あたたかい贅沢な屋敷で、この上なく優しい家族に愛されて、何の苦しみもひもじさを感じることもなく。遠山の皆に守られて、時折こうして孤児院にやってきては勉強を教えればきっと子どもたちの未来につながる、などと耳障りの良いことを言って。


 でも果たしてそれは、本当にあの子たちのためにしていることなんだろうか。

 自分自身の満足のため? それとも、胸の奥底に沈み込んだずっと私を支配し続けているこの罪悪感をごまかすため?


 椿は、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような気がしていた。

 自分のしてきたことは、ただの自己満足だったのかもしれない。

 恩返しも、誰かの役に立ちたいという思いも、してきたことすべて――。


 けれどその日、ついに吉乃は誰の前にも姿を見せなかった。頑なに一人押し入れに閉じこもったまま、誰とも口をきこうとはせず心を閉ざし続けた。

 吉乃がなぜあんな言葉を放ったのか分からないまま、椿は孤児院を後にするしかなかった。





 その日の夜、椿は夢を見た。

 孤児院にいた頃の幼い日の夢を。


 誰も自分を必要とせず、他の子どもたちが次々とどこかへ嬉しそうに迎えられていく中自分一人だけが取り残されている。孤独と寂しさと、誰からも求められない悲しさでうずくまる。

 けれどふと目を開けると、そこはよく見慣れた遠山家のあたたかい居間で。


『お父様……お母様……。和真……!』


 暖炉にはあたたかい火が燃え、きれいな着物をまとい、テーブルにはずらりと手の込んだおいしいあたたかな食事が並んでいる。

 幸せな、幸せなあたたかい居場所。


 そしてふと気づくのだ。

 そこにいたのは自分ではなく、本来遠山の家に迎えられるはずの男の子だと。自分の姿なんて、そのあたたかい光景のどこにもいなかった。



 ここにいるべきは、私ではない。ここにいるはずだったのは、あの子だ。あの日、遠山の両親に迎えられるはずだった男の子の居場所なのだ。

 それを奪い取ってしまった。あの子から永遠に取り上げてしまった。


 私は償わないといけない。この罪滅ぼしをしなければ、きっと許されない。


 私は選ばれないはずの子だったのだから――。


 椿は自分の中に、浅ましい思いがあるのをその日知った。

 自分のしてきたことは、ただの欺瞞だと。誰かを助けるものでも、恩を返すなどという心地の良いものでもなく。ただ自分の中にある後ろ暗い気持ちを打ち消して見ないようにしていただけ。


 そんな後ろ暗い気持ちが、消えるはずなかったのに。




 だから早くここを出て行かなくちゃ。

 いただいた恩を一日も早く返して、この居場所をあの子に返してあげなくちゃ。私がここにいる資格は、初めからなかったのだから――。


 眠っている椿の目から、涙がつうっと滑り落ち、枕に染みを作った。


 


 ゴダルドとその娘エレーヌとの会食の日時が正式に決まったという知らせが届いたのは、その翌朝のことだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る