「エレーヌ嬢、なぜこんなところに? 椿と一体何の話を……?」


 和真の息は上がっていた。そして顔には、明らかに動揺と警戒心が浮かんでいる。


「和真、おかえりなさい。……あの、これは別に」


 ともすると今にもエレーヌにかみつきそうな勢いすらあって、椿は慌てて和真を制止した。


「あら、遅かったわね。パパが離してくれなかったんでしょう? あなたたち二人のこと、ずいぶん気に入ったみたいだもの。良かったわね、商談がうまくいって」


 和真を見るエレーヌの顔は、飄々としてどこか意地悪そうな色も浮かんでいるようで、椿は二人をはらはらしながら交互に見る。


「いや、そんなことより。あなたは先に下船してわざわざこんなところへ来て、椿に何を?」


 エレーヌにぐいと詰め寄る和真との間に、椿は慌てて割って入った。


「和真、エレーヌ様はただご挨拶にきてくださっただけよ。仲良くお話していただけなの」


 そういって和真をなだめてはみたものの、怪訝そうな色は消えない。


「椿の言う通りよ。別に椿をいじめたりなんかしてないわよ? だって私たち、お友だちですもの。ね? 椿」

「はい! そうなの。私とエレーヌ様はお友だちになったのよ。だから本当に仲良くおしゃべりしていただけなの」

「……友だち? 椿と、エレーヌ嬢が……?」


 和真の表情は険しい。そんなの信じられるかと顔に書いてある。


 まぁその気持ちはわからなくはない。さっき友だちになろうと持ちかけられたばかりで、椿自身も実感などわかないのだから。けれど友だちになったのは事実なのだから、信じてもらうよりない。


 こくりと深くうなずいてみせれば、いまだ疑いの色を濃く浮かべながらも和真はエレーヌへの態度を和らげた。

 なんとか険悪なムードが消えたことに安堵し、椿は和真を見やった。


 少し疲れた顔はしているが、大仕事をやり切った安堵感と充足感に満ちているように見える。


「これから忙しくなるわよ、和真。それこそ椿とゆっくりする時間なんてないくらいにね。だからその間私が椿と一緒に楽しく過ごしておくから、安心して仕事に打ち込んだらいいわ」


 せっかく和やかになりそうだった雰囲気が、エレーヌの一言で再び凍り付く。


「……あなたという人は、本当に一筋縄ではいかないな。もし椿に不快な思いをさせるようなことがあれば、黙ってはいませんからね。それをお忘れなく」


 和真の目がきらっと剣呑に光る。


「あら、怖い顔。心配いらないわ。私、純粋に椿が好きになったんだもの。歓待こそすれ、嫌な思いなんてさせないわよ。せっかくできたお友だちですもの。大事にするに決まってるわ。失礼ね」

「わ、私も大事にしますわ。もちろん。だから和真も安心してね?」


 なんとか二人の間にまた漂い出した緊張感を和らげようと、椿も口を挟む。


「嬉しいわ! 椿。本当にこれから仲良くしましょうね! ふふっ」


 エレーヌはなんだか本当に嬉しそうで、満面の笑みを浮かべたその表情はどこか幼い少女のようでかわいらしく映る。それを物珍しそうに驚いた顔でみる和真も、ようやくエレーヌに他意はないことを信じたようだ。


「そういうことだから、あなたはパパとお仕事で、私と椿はお友だちということで末永くよろしく頼むわね! じゃあ、椿。今度船に遊びにいらっしゃいね。うんと珍しい外国のお菓子やお茶を用意して待ってるわ! 和真はせいぜいお仕事頑張りなさいな」


 そうしてころころと明るい声で笑いながら、エレーヌは手をひらひらと振りながらさっぱりとした顔で帰っていったのだった。


 どこかまだ疑わしさをその顔に浮かべた和真と、苦笑する椿とを残して――。





 いきなり静まり返った庭に二人取り残され、なんだか落ち着かない。まともに顔を合わせるのも話をするのも、ずいぶんと久しぶりな気がする。


 聞きたいことも話したいこともたくさんあるような気がするけれど、一体どこから話せばいいのかわからないくらい色々なことが起きた気がする。

 何から話そうか、何を伝えようか。頭の中であれこれと考えながら、口を開く。


「おめでとう、和真。商談はうまくいったのでしょう。ついにあなたの夢が叶ったわね。ずっとセルゲンの作品に憧れていたんだもの。あなたも当矢様も、本当にお疲れ様。そしておめでとう」


 心の底からの笑みを浮かべて、和真を見つめた。


 血はつながってはいないけれど奇跡のような縁で結ばれた大切な弟で、そして心から愛する人。

 その和真の長年の夢が叶って、その瞬間を分かち合えることが、喜びを伝えられることが嬉しい。


 この先自分が和真のそばにいられる時間は、きっとそう長くはないのかもしれない。だって和真が愛する人と結婚してこの屋敷で暮らすようになれば、自分はここを出て行くのだから。

 けれど、和真が幸せならそれでいい。そっと離れたところからいつでも手を貸せるように見守ることができれば、それでいい。


 和真もようやく表情を和らげて、緊張がほどけたように優しげな笑みを浮かべた。


「椿のくれたメリルのサシェが効いたみたいだよ。ありがとう」

「ふふっ。あれはただの願掛けよ。でも、もし効果があったのなら嬉しい。和真の夢の役に立てて」


 そして微笑み合う。


 久しぶりにゆっくりと目を見て話した気がする。それはとても長い時間離れていたようにも思えて、でも今はすぐ隣にいる。それがとても面映ゆく、幸せで。

 胸がきゅっとしめつけられるような切なさを感じて、椿はふとうつむく。


「たくさん話したいことも聞きたいこともあるの。でも何から話していいのか、わからなくて。和真に伝えたいことがたくさんある気がするのに」


 そう小さく呟けば、和真の視線が椿をとらえた。その視線があまりに真っ直ぐで熱を感じて、胸がどきりと音を立てる。


「うん。……同じ気持ちだよ、僕も。伝えたいことも聞きたいこともたくさんあるんだ」


 ふいに二人の間に沈黙が落ちる。

 けれど視線は絡み合ったままで、それに少し嬉しさとともに恥ずかしさがこみ上げるけれど視線を外すこともできずにそのまま見つめ合った。


 静けさに満ちた庭に、葉擦れの音が聴こえる。

 その音に、椿は何かの終わりと、そして新しいはじまりを感じていた。


 和真は椿をじっと見つめながら、口を開く。


「椿。……この商談が終わったら、椿にずっと伝えたいと思っていたことがあるんだ。それを聞いてくれる?」


 その真摯な表情に、椿は息をのんだのだった。



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