大和は、椿が遠山家に迎えられてまもなく、とある夫婦のたっての頼みで農家の後継ぎとして引き取られていった。

 けれどその数年後、その夫婦は家も畑を残したままどこかへといなくなってしまった。大和も一緒に。


「今頃どうしているかしらね、あの子……。どこかで元気に幸せに暮らしているといいのだけれど」


 大和の身を案じる母の声に、椿はぎゅっと膝の上の両手を握りしめた。


 自分があの時遠山家に間違ってやってこなければ、ここはその子の場所だった。

 このあたたかなぬくもりも、穏やかな空間も、幸せもすべて、その子が手に入れるはずのものだったのだ。


 それをそばからかすめ取るように奪ったのは、自分だ。


 自分の罪深さに、胸がしめつけられるようにきしむ。

 こんな自分が、他者から幸せを取り上げた人間が、幸せになってはいけないのだ。いつまでも幸せを甘受していてはいけないのだ。


 椿はずっとそう思っていた。

 だから――。


「私……子どもたちのためにもっと頑張らないと。あの子たちがこんな辛い思いを少しでもしなくて済むように。皆が幸せに強く生きていけるように、私にできることは全部やらないと。それが私の役目なんだから……。皆の幸せのために、もっともっと頑張らなくちゃ」


 それしか自分にできる償いはない。

 でなければ、大和にも明之にも、孤児院にいるすべての子どもたちに、申し訳ない。


 自分だけこんなあたたかで幸せな場所にいて、この上なく優しい両親に愛し守られ、かわいい弟までいて。

 そしてそれは自分が享受していいものではない。ここは、私が本来いるはずの場所ではないのだから――。


「椿……」


 悲壮な表情を浮かべてうつむいた椿の頭を、母がそっとなでた。


「……そんなに一人で頑張らなくてもいいのよ? 子どもたちのことだけじゃないわ。私たちや和真のことだってそう。恩を返したいってあなたの口癖だけど、私たちはあなたが幸せに生きていてくれたらそれだけでいいの。じゃないと、いつか倒れてしまうわよ?」


 母の手が、椿の体をふわりと抱きしめた。


 涙が出そうなほど優しく穏やかな母の香りに包み込まれ、椿は目を閉じる。


 このままここにいられたら、この優しさに包まれていられたら。

 そんな望みが胸の奥からわき上がるけれど、そんなに欲張ってはいけないのだ。もう充分すぎるほど幸せをもらっていながら、もっと欲しがるなんて罰が当たってしまう。


 椿は頭を振った。


「……無理なんてしていないわ。それだけの幸せをもらっているのだもの。お父様とお母様にも、和真にもお屋敷の皆にも。それに子どもたちからだってたくさん。……それに、和真のこともそう。和真が幸せでいてくれることが私の幸せだから、何かできることが嬉しいんだもの」


 それは椿の本心だった。


 自分にこれほど大きな愛と優しさをくれた皆に、少しでも恩返しがしたい。幸せを返したい。そのためならなんでもしたいし、どれだけでも頑張れる気がする。

 きっとそれは、それだけ力になる幸せをすでにもらっているからだ。


「あなたは本当にもう……」


 少し呆れたような困ったような、けれど深い愛情をにじませた顔で母は微笑んだ。

 椿もそれに柔らかく微笑み返す。


 母娘で向かい合うこの穏やかな時間が、椿にとって本当に嬉しく宝物のようだった。




 そんな宝物をもらっているからこそ、椿はずっと前から心に決めていることがある。


 いつか少しでももらった恩を返して、この屋敷を出て行こうと。

 そしてどこかで働きながら孤児院に住み込んで、子どもたちが将来世の中に出て行った時に困らない程度の読み書き計算や職業教育が受けられるよう、働き続けようと。


 和真が良い相手と無事結婚すれば、伴侶が和真をあたたかい愛情で包み込んで幸せにしてくれるはずだ。

 縁談は今のところ破談続きだけれど、あんな夢見は必ず変えて見せる。和真の運命の相手は、きっとどこかにいるはずなのだから。

 

 そうしてあの子の幸せを見届けたら、この屋敷を出て行こう。そう椿は決意していたのだった。





「おや、母娘二人きりで内緒話かい? 私もまぜてくれないかね」


 そこにひょっこりと父が扉から顔をのぞかせた。


「ふふっ。もうお仕事はいいんですの? でしたらあなたもどうぞ。あなたの分もお茶を淹れますわ」

「仕事より、愛しい妻と娘との時間の方が大切だよ。仕事は和真に任せておけば、何の問題もないからね」


 嬉しそうに笑顔を浮かべた父にまるで幼子にするように頭を優しくなでられ、椿はうっとりと目を閉じる。

 まるで砂糖菓子になったような、幸せで、嬉しくて、今にも溶けてしまいそうな心地よい時間。


「私、幸せです。心から」


 口から、素直な言葉が零れ落ちた。


 本当ならば決して一生手に入らなかったはずのぬくもりと、あたたかな場所。

 それを今も享受できているこの幸福を、どう言葉に表せばこの感謝を両親と和真、そしてこの屋敷の皆に伝えることができるのだろう。どんな言葉を尽くしても、どんな行動に示しても足りない。 


「あなたはもっともっと、幸せになっていいのよ。大切な娘だもの」

「そうだよ、椿。お前の人生はまだまだこれからだ。幸せはこれから先もたくさんある。……お前も、和真もね」


 父と母の言葉に滲む愛情に包まれて、椿は微笑んだ。


「私はもう充分に幸せです。本当に、心から。……これ以上ないほどに」




 そう、思っていたはずだったのに――。


 椿の知らないところで、運命は廻りはじめていた。






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