走り去る明之の背中を見つめながら、椿は小さくため息をついた。


 何もしてあげられないばかりだ。和真にも、子どもたちにも。


 ここで自分がどんなに頑張って子どもたちに勉強を教えても、それだけで子どもたちの未来が守れるわけじゃない。椿一人でここにいる子どもたちの食べものを用立てることも、皆に良い縁組を用意してあげられるわけでもない。


 自分の非力さが、悔しい。幸せにしたい、恩を返したいといいながら、どうすれば役に立てるのかもちっとも分からないのだから。


「私に、もっと力があったら皆を幸せにできるのかしら……。でもその力って一体どんな……」


 椿はぼんやりと庭に立ちすくんだまま、唇を噛みしめるのだった。




 椿はここで三才になるまで育った。


 そしてここで暮らすうち、自分が養子として迎えられる可能性が限りなく低いことに気づいていた。主に力仕事などの働き手や跡継ぎとして男の子が求められることはあっても、女の子が求められることは滅多になかったから。


 だから、体に問題があり子をなせないと知った遠山家の両親が跡継ぎを得るためにこの孤児院を訪ねてきた時も、ああ、また男の子がもらわれていくのかと何の悲しみもなく思っていた。


 なのに、院長に自分が遠山家に行くようにと言われた時は心底驚いた。


 そしてその日期待と不安に胸を弾ませ、いつもよりちょっとましな着物を着て遠山家の屋敷へと向かった椿だったが、それが手違いであることを対面してすぐに理解した。


『あ、君ちょっといいかな? 私たちがお願いしたのは男の子はずだが、この子は……』


 孤児院に雇われて自分を連れてきた世話人の男と両親が困惑した様子でやりとりをしているのが聞こえ、椿はすぐに事情を悟った。

 自分がここにいるのは間違いであり、本当はやはり男の子を必要としていたのだと。


『申し訳ありません。手違いがあったようですので私はこのまま院へ帰ります。院長へは私からお約束の男の子を寄越すよう伝えますので、なにとぞご容赦くださいませ』


 たどたどしい言葉遣いながらそう言うと、頭を下げた。


 たとえ自分が迎えてはもらえなくとも、孤児院でともに暮らす仲間が一人でも縁組先で幸せになれるのならそれでいい。それには、孤児院に悪印象を与えてはまずいと子供心に理解していた。


 だがその姿が不憫だったのか、両親はそっと椿と目線を合わせてこう言った。


『名前は?』

『……椿です』

『そう。……椿、君は私たちの娘になってくれる気はあるかい? 君さえ良ければ、私たちと一緒にこの屋敷で暮らすのはどうかな』


 まだこんなに年端も行かぬ子どもを今更突き返すのが、不憫だったからかもしれない。孤児という誰からも愛されず打ち捨てられた存在を、憐れんでくれたのかもしれない。


 けれど、両親の目はどこまでもあたたかく椿の心を包み込んでくれて、嬉しかった。初めて誰かに必要とされた気がして。


 そして椿は、遠山家の養女になった。


 以来、両親は椿に惜しみない愛情を注いでくれ、立派なお屋敷で何不自由ない暮らしをさせてくれた。そしてそれは、その後医師に子は望めないと言われていたはずの母のお腹に弟が宿ってからも変わらなかった。

 それがどれほど幸せなことか。

 

 椿は感謝してもしつくせないほどの恩と、これ以上ないほどの情を感じていた。




 けれど、椿の心の中にはずっと残る苦い思いがある。


 自分がこうして幸せな場所を手に入れた代わりに、本来迎えられるはずだった男の子は居場所を取り上げられたのだ。今自分がいるこの場所は、本来自分に与えられるべきものではないのだ、と。


 だから思うのだ。これ以上、幸せになっていいはずがない、と。


 これ以上の幸せを望んではいけない。今自分にできるのは、幸せをくれた皆に少しでも多く恩を返し皆の幸せのために生きることだと。

 なのに何もできていない気がして、もどかしいのだ。両親にも、和真にも、孤児院の子どもたちへも、何も。

 

 椿は自分の不甲斐なさを情けなく感じながら、自分の中にある暗く澱んだ思いにそっと目をつむった。




 ◇◇◇◇



「おかえりなさい、椿。孤児院はどうだった? 子どもたちは変わりない?」


 出迎えてくれた母の穏やかなどこか気遣うような声に、椿は顔を上げた。

 けれど、うまく明るい表情を作ることができずに黙り込んだ。


「……さぁ、いらっしゃい。あなたも疲れたでしょうから、ひとまず一緒にお茶にしましょう? いつものとっておきのお茶を淹れてあげるわ」


 部屋へと招き入れられた椿は、母のまとう優しい香りにふわりと包まれ、ふと泣き出したい気持ちにかられた。


「これ、今度売りに出すお菓子なんですって。せっかくだからお茶と一緒にいただきましょう。今日は朝からあんな手紙が来て疲れたでしょうから、甘いもので元気を出さなくちゃね」


 そう言って母はやわらかく微笑んだ。


 母がそっとティーポットに茶葉を入れゆっくりと静かにお湯を注ぎ入れると、その手元からふわりと華やかで優しい香りが立ち昇る。


 その香りを、椿は胸一杯に吸い込んだ。


 椿が何かで落ち込んだり気が滅入っていたりすると、母はいつもこのお茶を手ずから淹れてくれる。丁寧に時間をかけて、ゆっくりと。

 この香りと淹れてくれる母の仕草を見ていると不思議に気持ちが落ち着いて、心が軽くなる気がするから不思議だ。


「はい、どうぞ。召し上がれ」


 きっと母には、なんでもお見通しなのだろう。和真のことも明之のことも、何一つ力になれずに沈み込んだこの気持ちも。


「……孤児院で何かあったの? 和真の縁談のことだけじゃないでしょう。落ち込んでいる理由は」


 何も言わずともいつもこうして分かりにくい自分の心をあたたかくすくい上げて心配してくれる母の愛情に、椿は思いの丈を吐き出した。


「……実はね、明之が縁組を断られたの。孤児はどんな親から生まれたか知れないから、能力が少しくらい低くても遠縁の子の方がいいって。元気よく振舞っていたけれど、明之の気持ちを思うとなんだかたまらなくて……」

「そう……。それは、悔しいでしょうね……」


 母は椿の肩をそっと抱き寄せ、懐かしそうにつぶやいた。


「縁って難しいわね。……そういえば、大和って言ったかしら? もともと迎える予定だったあの男の子。二人とも引き取りますって言ったのだけど、ちょうどあるご夫婦が畑を継いでくれる男の子を欲しがっているからとそちらに引き取られていったのよね……」


 母にとっても、あの時のことは気がかりらしい。

 今あの子がどうしているのか、椿も知らないのだ。行方知れずになってしまったから。



 自分にとっては、幸せな居場所を手に入れた運命の日。

 でも、あの子にとっては果たしてどうだったろう。


 迎えられるはずだった遠山の屋敷ではなく、遠く離れた農家に迎えられたあの子にとっては、どんな気持ちであの日のことを思い出すのだろう。


 椿はそっと目を伏せ、お茶を飲み干したのだった。



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