6
「椿、そろそろ終わりにしてはどう? お茶の時間にしましょう」
瞬間、子どもたちから大きな歓声が上がった。
子どもたちにとっては、勉強の後のお菓子の時間が何より楽しみなのだ。
「はい、院長先生。……じゃあ皆! ちゃんとお片付けして、手を洗ってきてね。小さな子はお兄ちゃんお姉ちゃんに手伝ってもらうのよ?」
一斉に走り出した子どもたちのにぎやかな様子に椿は目を細め、そして隣に立つ院長に視線を移す。
雪の降る寒い朝に捨てられていた自分を拾い上げ、椿という名をつけてくれたのがこの院長だった。そして三才になるまで、椿はこの孤児院で育った。
椿にとってもこの孤児院にいる子どもたちにとっても、大切な母のような存在だ。
あの頃よりも目尻に皴が増え、けれど昔と変わらずいつも穏やかで優しげな恩人の顔を見る度、椿は心があたたかくなる。
まるで真っ暗な部屋の中でやわらかくゆらめくろうそくの火のように、穏やかで心落ち着かせてくれるその眼差しに、いつも守られてきたから。
この院長先生のような存在に、なりたいと椿は願っていた。
かわいい子どもたちの未来が少しでも明るいものになるように、その子どもたちをあたたかく見守り助けられるようなそんな存在にいつかなれたらいいと。
「大丈夫?少し疲れたかしら」
気遣うような院長の声に、椿は首を振った。
「……いいえ、全然。ここへくると元気が出ます。子どもたちの笑顔って本当に宝物みたいだわ。キラキラしていて元気いっぱいで」
「そうね。大変なこともあるけれど、子どもたちは宝だわ。どの子もね。それはもちろん椿、あなたも。大きくなったあなたが今もこうしてきてくれて、どんなに嬉しいか……」
院長の少し骨ばった優しい手が、優しく椿の背をなでた。
「ええ……本当に、あなたが今日きてくれて良かったわ。……実は昨日色々あって。明之がちょっと落ち込んでいて……。あとであなたから、話を聞いてみてくれないかしら?」
「明之が……。では、もしかしてまた縁組が……?」
養子を迎えたいと望む者は多い。
子ができない夫婦や、家業の働き手を欲してなど理由はさまざまだが、子どもたちは希望を胸に養子縁組先へともらわれていく。
どうせ働ける年頃になればこの孤児院を出て行かなくてはならないのだし、その日食べるものにも事欠くこの孤児院にずっと居続けることなどできないのだから。
であるならば、どこかに養子としてもらわれた方が働き口も見つけやすいし、貧しくてもなんとか生きていける可能性が高いのだ。
けれどそれが直前になってやぱりいらないと拒否され、縁組自体が流れることもままあった。一度捨てられた経験を持つここの子どもたちにとっては、再び捨てられるようなものだ。
それがどんなに心痛むことなのかを、椿も良く知っていた。
明之の心中を思い、椿は重苦しい気持ちでこくりとうなずいたのだった。
明之は、カステラに群がる子どもたちの輪から一人外れて庭先で佇んでいた。
その背中にそっと聞こえないようにため息をつき、近づいていく。
「はい。あなたの分」
椿の手からカステラの入った小さな包みを受け取ると、明之は力なく笑った。
「今日は特にうまく焼けたの。明後日くらいまでならおいしく食べられるわよ。……うまく隠さないと、皆に見つかってしまうかもしれないけど」
ここでは食べ物、特に甘いお菓子はごちそうだ。もし隠し持っているのが見つかれば、あっという間に小さい子たちにねだられて取られてしまうに決まっている。
「……話、聞いたんだろ? 椿姉。俺の養子の話がなくなったこと」
少し黙り込んだあとで、明之がぽつりとたずねた。
「平気だよ、俺。こんなの珍しくもないだろ。俺は頭だって悪くないし力もあるから、どこでだって働けるよ。だから心配すんなよな。……どうせ椿姉のことだから、俺が落ち込んでるんじゃないかとか心配してんだろ?」
いつものように飄々とした表情を顔に浮かべてはいるけれど、その口の端は今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「でもさ……。店を継いでくれる男手が欲しいって、この間会った時には頭もいいし力もあるし丈夫そうだし、ぴったりだって嬉しそうにしてたくせにさ。いざとなったら遠縁の子を引き取るからなかったことにしてくれって」
吐き出すように言うと、明之はそばにあった小石を遠くに勢いよく投げつけた。
「そんなの、どんなに頑張ったって埋めようがねえじゃん。代わりに迎えられたそいつには片親だろうが親も親戚もいてさ、家だってあって……。でもここにいる俺たちは何にも持たずに捨てられてさ、幸せな居場所なんてどこにも……」
その絞り出すような声には、悔しさがにじんでいた。
明之はこの孤児院にいる子どもたちの中で一番年長で、賢い子だった。
その賢さゆえに、世間から自分たちがどのような目で見られているかもよく知っていたし、これから孤児院を出た後どれほど大変な苦労をして身を立てていかねばならないのかもよく知っていた。
だからこそ、そんなどうにもならない理由で縁組を断られたことが悔しかったのだろう。
その気持ちを思い、椿は唇を噛んだ。
胸が痛くて痛くてたまらなかった。
「でもさ、しょうがないよな。俺たちが孤児だってのは変えようがないんだし。でも俺、平気だよ。こんなことで腐ったりしない。いつかきっと自分の力でいい仕事について立派な家だって建ててさ。絶対に見返してやるんだ。で、うんと幸せに生きてやるからさ」
そんな悔しい気持ちを無理に振り払うように、明之はいつもの快活な笑顔を浮かべてへへっと笑った。
不器用過ぎる椿には、こんな時どんな声をかけてあげたらいいのか、どんな顔で抱きしめてあげたらいいのか分からない。
椿は、無力な自分が悔しく悲しかった。
「……明之は立派な子よ。頭もいいし力もあるし、責任感も強くて面倒見も良くて。だから、どこでもきっとうまくやっていけるって信じてる。……でも、助けが必要な時はいつでも言って。いつだって飛んでいくから。私は皆の姉みたいなものだもの。いつだって、どんな遠くからだってきっと助けにいくから」
椿の言葉に、明之はほんの少し顔を歪め黙り込んだ。
そしてしばらくそっぽを向いていたけれど、乱暴に顔をごしごしと擦り勢いよく立ち上がった。
「俺は大丈夫だよ、椿。こんなこと全然平気だし、簡単にへこたれるような男じゃねえから、心配すんな! ……でも、ありがとな。椿。俺、負けねぇから」
お尻の辺りについた葉っぱを手でばしばしと勢いよく払い落し、明之は顔を上げにかっと笑った。
そして、皆の元へと元気よく走り去っていったのだった。
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