10

 椿は、その涙をそっと拭った。


「そうだったの。そんなことがあったとは知らずに、ごめんなさい。あなたたちをびっくりさせようと思って急に予告もなしに美琴様を連れて行った私にも、責任はあるわ」

「椿姉も美琴様も悪くないよ。ただ、私が勝手に思い込んで美琴様に八つ当たりしただけだから……。私が悪かったの。本当にごめんなさい」


 吉乃の小さな胸の痛みを思うと、苦しかった。ずっと吐き出せずにため込んでいた苛立ちや苦しみを、分かってやれなかったことが悔しくもある。

 それに。


「……でも、あなたの言葉を聞いて私もはっとしたの。もしかしたら私もあなたたちの気持ちを分かってなかったのかもって。私があなたたちにこれまでしてきたことは、ただの自己満足なのかもしれないって……」


 今まで子どもたちのためになればとあれこれとやってきたけれど、それがすべてぬくぬくと守られて生きている人間の自己満足だったのだとしたら? 

 自分の中にある罪悪感をごまかすための、ただの欺瞞だったとしたら?


「ずっと……後ろめたかったの。自分がこんなに幸せをもらっていることが申し訳なくて、ずるい気がして。人の幸せを取り上げた私が、幸せになっていいはずないのにって。だから私がしてきたことなんて、本当はあなたたちのためになんて何一つなっていなかったのかもしれない……」


『あなたったらまるで、無欲な振りして自分を戒めているみたい。欲しいものを欲しいということは別に罪じゃないわ。欲があるから、人は生きていけるんだもの』と言った、エレーヌの声がよみがえる。


 エレーヌの言う通りだ。

 望んではいけないと思っていた。幸せになってはいけない、なる資格がない。人の幸せを奪い取った自分にはこれ以上の幸せを望む権利もないし、誰かのために役に立つことでしか、恩を返していくことでしか、きっと罪を払拭できないと。ずっとそう思っていた。


 だから必死だった。恩を返さなきゃ、役に立たなくちゃ、誰かのために何かしていなくちゃといつだって思っていたのだ。両親へも、和真へも、孤児院の子どもたちへも。

 でももしそれが全部、心の中に暗く巣食った罪悪感を打ち消したくてしてきたことなのだとしたら――。


 自分の中にある暗く澱んだずるい感情に気がつき、深くうなだれる。

 自分の浅ましさが恥ずかしく、情けなかった。


「違う! 違うよっ。椿姉、それは違うよ!」


 叫ぶような吉乃の声に弾かれたように頭を上げる。

 吉乃はぎゅっと椿の手を握ると、ぶんぶんと大きく首を振った。


「椿姉、それは絶対に違うよ。そんなこと、思ったことない。椿姉のしてくれたことをそんなふうに思ったこと、一度だってないよ。椿姉、椿姉はさ。手を握ってくれるの。汚れていてもボロボロの服を着ていても、気にせずただ優しくぎゅっと握ってくれる。抱きしめてくれるんだよ。それがどんなに嬉しいか、わかる?」


 吉乃の表情が、ふと柔らかくなった。


「椿姉は、どんな時も私たちをちゃんと見てくれる。目を見てちゃんと話を聞いてくれて、一緒に悩んだり考えたり喜んだりしてくれるの。私たちは、それが嬉しいの。椿姉がいてくれて、私たちがどんなに嬉しいかわかる? 私たち、椿姉からいっつもたくさん幸せをもらってるんだよ」


 吉乃の目が、椿を真っ直ぐに強くとらえる。その揺るぎなさに、椿の視界が大きくにじんだ。


「本当に……? 私、ちゃんとあなたたちのこと思えてる? 傷つけたり、苦しめたりしていない? 私のしてきたことで、あなたたちを嫌な気持ちにさせたり傷つけたりしていない? 一度も?」


 つい、声が震えた。

 こんなこと、病床にいる吉乃に言うべきではないのに。


 でも自分にはもう誰も幸せにできない、そんな気持ちにかられていた。和真のことも、両親のことも、誰一人自分が役に立つことも恩を返すこともできないのではないかと。こんな浅ましいずるい人間に、誰かを幸せにできるはずないとそう思えて。


「ちょっとっ……、椿姉。泣かないで? 椿姉は何も悪くない。悪いのは私で、美琴様だって悪くない。私、椿姉だから、椿姉の連れてきたお友だちだからあんなふうにイライラをぶつけちゃったの。椿姉なら許してくれるって思ったから。椿姉ならあやまったら許してくれるって、きっと甘えちゃったから……。だから」


 吉乃がひくっとしゃくり上げるのを聞いて、慌ててその小さな汗ばんだ背中をさする。


「私こそ、おかしなことを言ってごめんなさい。忘れてちょうだい。これは私の問題で、あなたたちにこんなこと言うべきじゃないのに……。ごめんなさい、吉乃。あなたの気持ちはよく分かったわ。美琴様も怒ってなんかないわ」

「……本当? 本当に?」

 

 励ますように大きくうなずくと、吉乃の顔に安堵の色が広がった。


「良かったぁ。美琴様には、あとでちゃんと謝る。大丈夫、もうあんなひどいこと言ったりしない。それに本当は、椿姉の友だちなら、いい人に決まってるもんね!」


 吉乃の表情が明るくなった気がする。


 胸の中にため込んでいた気持ちを吐き出して、楽になったのかもしれない。思わず吉乃に気持ちを吐露して困らせてしまったことを悔やみながらも、吉乃に笑顔が戻ったことが嬉しかった。


「でもさっき言ったこと、椿姉は忘れないでね。ちゃあんと分かっててよ。私たちがどんなに椿姉が大好きか、いてくれて嬉しいか。いっぱい私たちに幸せをくれてるよ、椿姉は。だからそんな悲しいこと言わないで。ずっと、一緒にいてね? 椿姉がいてくれたら、きっと頑張れる気がするから」


 胸にほんのりとあたたかい灯がともった気がした。

 心の中の闇を明るく照らしてくれる、そんなあたたかな光。


「うん……、ありがとう。吉乃。絶対に忘れないわ。ずっと皆のそばにいるって約束する。……ありがとう。吉乃」


 頭をなでると、吉乃が少しはにかみながらあどけない顔で笑った。

 そして、吉乃は安心したようにすうっ、と安らかな寝息を立てはじめたのだった。

 





 椿と美琴は、懸命に子どもたちと院長の世話に明け暮れた。

 その甲斐あってようやく子どもたちの熱も下がり、肺炎を起こしかけていた院長の容体も落ち着いた頃。


 玄関から、来訪者を告げるベルが鳴ったのだった。



 

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