「そろそろ休憩の時間にしたら? あまり根を詰めると良くないわよ」

「お母様! きてくださったの?」


 聞き慣れた優しい声に安堵の表情を浮かべて振り向くと、母がくすくすと笑う。


「すっかり学校らしくなったわね。ついこの間まで骨組みだけだったのに。机と椅子も明日には納入されるはずだし、そうしたらもう準備万端ね」


 椿はうなずき、まもなく完成する建物を見上げた。


「ようやくあなたの夢が動き出すわね、椿」


 母のあたたかな声に、椿は不安と期待が入り混じった笑みを浮かべた。


 この建物は、子どもたちの学校になる。

 今までは椿が一人で子どもたちに読み書き計算を教える程度だったけれど、今度からは町の商店やさまざまな職種の職人さん、主にはもう現役を引退したご隠居さんたちを中心とした人たちに教えを乞うことになっている。


 もちろんお給料なんて出せるわけではないけれど、ここで子どもたちにさまざなまことを教授するかわりに子どもたちが仕事を手伝うことを交換条件にしている。

 町の人たちにとってみれば、きちんと職業訓練を受けた経験もある働き手が将来的に育つというメリットもあり、今のところあたたかく理解を得られているように思う。


 大和もあれ以来、時々農業支援という形で孤児院で農業を教えてくれている。明之はすっかり大和のことが気に入ってしまったらしく、今では大和のもとへ居候して日々頑張っているらしい。


 同じ理想を持つ仲間として、椿はその姿に日々励まされ刺激を受けているところだ。

 けれど、いざこれから本格的に子どもたちへの教育に携わると考えると少し足がすくんでしまう。


「でも……私にうまくやれるかしら。町の人たちの理解を得ながら、子どもたちの将来にきちんと役に立つ教育をしてあげられるかしら。だって私、とても不器用だし無愛想だし……」


 つい不安を口にした椿に、母がおかしそうに笑った。


「あら、今のあなたは前のあなたとはすっかり違うわよ? ちっとも無愛想なんかじゃないわ。むしろ表情豊かで感情が表に出過ぎるくらい。もちろん、とてもいい意味でね」

「そ……そうかしら? そんなに私、変わった?」


 それは美琴にもよく言われるのだ。時折遊びにくる、エレーヌにも。

 

「ええ。それはもう。きっと素直に感情を出せるようになったのね。色々と思い悩んで本心を隠したりする必要がもうないから。そうでしょう?」


 どこかからかうようにそう言って笑う母に、思わず顔を赤らめる。


「和真も、もう少しお仕事が落ち着けばねぇ……。あの子ったらちっとも屋敷にいないんだもの。せっかく椿と心が通い合ったっていうのに。これじゃ、いつまでも結婚のお話が進まないじゃないの。ねぇ?」


 ふふ、と意味ありげな視線を送られ、椿はさらに赤く染まった頬を両手で挟み込みうつむいた。


「お母様ったら、結婚なんてまだ……。思いを伝えあったばかりでまだろくに話もできていないのに、気が早すぎます」

「ふふっ。時間が過ぎるのはあっという間よ? そんな悠長なことを言っていたら、あっという間におじいちゃんとおばあちゃんになってしまうわ。お父様の話では明後日辺りにはなんとか一段落つくらしいから、二人で町にでもおでかけしてきたら?」

 

 明後日といえば、子どもたちの教育が本格的にはじまる前日だ。いざ教育がはじまってしまえば、きっとしばらくは多忙な生活になる。

 となれば、その前になんとか時間を作って和真と過ごしたいのは山々なのだけれど。


 でもいざそれを母親に勧められると、こそばゆいというかいたたまれないというか。


「あなたの花嫁姿が今から楽しみだわ。……本当に不思議なものね。運命とか縁って、血のつながりさえやすやすと超えるのね。まだ小さかったあなたを娘として迎えて、その一年後に和真が生まれて」


 母がその目にきらりと涙を浮かべて、椿の髪をそっと愛しそうになでる。


「ありがとう、椿。私たちのもとへきてくれて。あなたが和真を私のお腹に連れてきてくれたのよ、きっと。そして和真を苦しみからすくい上げて、生かしてくれた。……幸せになるのよ、椿。和真と一緒に。あなたは今もこの先もずっと、私のかわいい大切な娘なのだから」


 あたたかな日差しが、完成間近な学び舎に射し込む。


「お母様……。私、和真のことを必ず幸せにします。そして、お父様のこともお母様のことも、屋敷の皆もお友だちも、皆のこともきっと幸せにします。私、ずいぶん欲張りだったみたい。でもそうしたいの。自分も皆も、きっと幸せになれるように頑張って生きていきます……!」


 あんなに自分の幸せから目を背けていたのが嘘のようにすっかり変わった自分に驚きながらも、でもそのどちらも自分にとってかけがえのない願いであると思う。

 そう思えることが心から嬉しく、幸せを実感していた。


 満面の笑みを浮かべるそんな娘の様子に、母も穏やかな喜びに満ちた顔で微笑む。


「ええ……! そうね。自分も皆も、幸せでいられたら素敵ね」


 ふふっ、と軽やかな声で母と娘の笑い声が響く。


 それをあたたかく見守るように、空に浮かんだお天道様が優しく世界を照らしていた。





 それから半年ほどが過ぎ、ある気持ちよく晴れた日の港にてーー。

 椿は、ゴダルドの豪奢な船の甲板にいた。




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