美琴との会話中倒れた椿は、自室のベッドに運ばれた。

 そしてその夜、椿は夢を見た。


 今より少し大人びた自分が遠山家の庭園で笑っている。薔薇の咲き誇る美しい庭で。

 その腕の中には、小さな体で精一杯に泣き声を上げるかわいらしいおくるみに包まれた赤子が抱かれており、それを和真がとろけそうな優しい表情を浮かべてあやしていた。


 その姿はまるで新婚夫婦が初めての子の誕生にこれ以上ない人生の喜びを感じているような、そんな光景で。二人が寄り添うその距離は姉と弟となどと呼べるものでは到底なく、和真の片方の手は明らかに自分の腰の辺りを支えるように抱かれていたのだった。


 泣きたくなるような、穏やかさと幸せに満ちた夢。

 まるでそれは金平糖のように甘くて、優しくて、心を満たすようで。


 幸せな、とても幸せな夢だった――。




 夢の中の自分の見たこともない幸せそうな微笑みに、椿は勢いよくベッドから跳ね起きた。


「い、今のは……」


 今の夢は、何だろう。


 なぜ自分と和真が生まれてまだ間もないであろうかわいらしい赤子を抱いて微笑んでいるのだろうか。まるで、愛し合う新婚夫婦のように。


「そんなこと……あるはずない。あってはいけないわ。だって私は……」


 なぜこんな夢を見てしまったのだろう。


 エレーヌにあんなことを言われたせいだろうか。

 美琴に恋をしているなんて言われたせいだろうか。


「恋なんて……弟にしているわけ。していいわけ……ない。これ以上、幸せになっていいはずなんて……ないのに」


 震える唇をぎゅっと噛み締めた。


「これが夢見だなんてことはありえないけれど……。ただの夢だとしたら、どうしてこんな夢を見てしまったの? きっと私美琴様たちの仲睦まじい様子に変に感化されてしまったに違いないわ」


 夢見ではない。これが現実になるなど、ありえない。

 そう思いながらも、今見た夢はあまりにも生々しすぎて、そしてそれを嬉しいと思ってしまう自分もいて。


「だめよ、椿。これ以上望んでは。私はもう充分すぎるほど、幸せをもらったはず。これ以上望んだら皆に叱られてしまうわ」


 一体、誰に? 誰に叱られるのだろう?

 幸せになってはいけないなんて、誰が言ったのだろう。

 むしろお父様もお母様もいつも言ってくださるのだ。『あなたが幸せでいてくれたら、それだけでいい。どうか幸せになって』と――。


 エレーヌの言葉が脳裏によみがえった。


『あなた、なぜそんなに怯えているの? 欲しいものを欲しいということは別に罪じゃないわ。なのにあなたったら、無欲な振りして自分を戒めているみたい』


 エレーヌはなぜあんなことを言ったのだろう。

 もうこれ以上望むべくもないほどの幸せをこんなにたくさんもらっているのに。もう充分すぎるほど、幸せなはずなのに、もっともっとと望むなんてそんなことが許されるはず――。


 けれどその反対に、孤児院の子どもたちのことを思うと疑問もわき上がる。


 孤児は幸せを望んではいけないのか。いいえ、そんなはずない。あの子たちだって幸せになる権利を持って生まれたはずだ。たとえ生まれた時にはもう、何も持っていなかったとしても。他の子たちが持っているものをその手には持っていないかったとしても。

 だからといって、それを人生の中で永遠に手にできないわけじゃない。いつか幸せを手にできると信じて生きていいはず。

 明之も、吉乃も、そして私が幸せになる場所を奪ってしまった大和も、皆――。

 

 


 でも、自分にはその資格がないと思うのだ。だって、罪を償わなければならないから。人の幸せを、他の人の場所を奪い幸せをかすめ取った私には、幸せを望む権利などない。

 ありあまるほどの幸せはもうもらった。あとはそれを返していくだけ。お父様とお母様に、そして愛する和真に。屋敷にいる使用人の皆にも、子どもたちにも――。


 椿はぐっと両手を握りしめた。


「そうよ……。私にできることは、一日も早く和真の幸せを見届けて、ここを出て行くこと。両親たちへの恩返しは、離れていてもできるもの。だから、一日も早くこの屋敷から離れなきゃ。こんな夢を見るような姉がいては、きっと和真の幸せを邪魔してしまうもの……」


 椿は、心の中にまったくそれとは相反する思いがわき上がるのを見て見ぬふりをしてそれから目を背けたのだった。



 幸せになりたい、自分の正直な思い――欲求に従ってしまいたいというその思いは、決して直視してはならないのだから――。



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