椿は自分が料理中であることをふと忘れていた。


「危ないっ、椿様!」


 美琴の声に驚き、と同時に人差し指にひどい熱を感じて慌てて手を引いた。


「大変っ。すぐに冷やさないとっ! 氷を用意しますからそれまで水で冷やしてくださいませ」


 美琴にぐいっと体を押されるように、冷たい水の入った桶の中に手を突っ込まれた。

 見れば指の一部が真っ赤になってしまっており、そこがひりひりと痛む。


「ご、ごめんなさい……私、ついぼうっとして。やけどなんて普段しないのに……」

「いいんです。きっとお疲れなんですわ。ゴダルド様との晩餐が済んだばかりですし、それなのに私がこうしてお料理を教えていただいたりして……。少しお休みをとられた方がいいかもしれませんわ」


 自分のせいで疲れてしまったのではないかと恐縮する美琴に、椿は首を振った。


「美琴様のせいじゃないわ。ただ……ただ、私少し考え事を……色々とわからないことが多すぎてどうしたらいいのか……」


 椿はエレーヌとの会話以来、もやもやとした気持ちをずっと持て余していた。エレーヌとあんな会話をしたなど母にも、当然和真にも話せないまま一人で考え続けていたのだ。


「あなたたち、ちょっとこれでも食べて休憩なさいな。ほら、氷持って! 美琴さんはこれをもっていってね。遠山家で今度売り出す予定の輸入菓子なのよ。全部食べちゃってかまわないから。さぁさ!」


 ちょうど厨房を通りかかった母に半ば強制的に菓子とお茶一式、そしてやけどを冷やすための氷と塗り薬とを持たされ背中を押される。

 その勢いに圧されるように、椿と美琴は椿の自室でしばし休憩を取ることにしたのだった。





「さ、これでいいわ。それで、一体何を抱え込んでいらっしゃるの? 全部吐き出してすっきりしてしまいなさい」


 赤くなったやけどの手当てを終えるなり、美琴がずいと距離をつめてきた。


 それに圧されるように、椿は重い口を開いた。

 先日の晩餐でエレーヌが和真に対して取った行動や椿に対して向けてきた言葉を、一つ一つ。

 

 すべて聞き終わった美琴は、ふうっ、と長いため息を吐き出した。


「なかなか強気ね、その方。さすがは諸外国のそうそうたる商売人相手にしているだけあるわね。でも、和真様に興味を持たれるのはわかるわ。とても素敵だし立派だもの。十七才にはとても思えないくらい」


 言われて見れば確かにそうだ。エレーヌはまだ少女とはいえ、父親に帯同して第一線で仕事をしてきた少女なのだ。世間をたいして知らずぬくぬくと守られて暮らしているだけの椿に、対等に話ができるわけもない。


 エレーヌのあの挑戦的な目を思い出すと、心にもやもやとした黒い感情が沸き上がる。頭の中がそうした感情でいっぱいになってしまう。だから、こんなやけどまで。


「ごめんなさい。こんな話を……。この間の一件だってまだ話ができていないのに」


 先日の孤児院での一件以来、椿はまだ孤児院を訪れることができずにいた。多忙だったからというせいもあるけれど、何より吉乃が会うのを拒否していたからだ。

 このままではきっと美琴と吉乃は分かり合えないまま、こじれてしまう。できたら早いうちに吉乃とゆっくり話したかったのだけれど、拒否されてしまっては無理もできない。


「あら、いいのよ。少し時間を置いた方が分かり合えることもあるし、私は私できちんと自分と向き合う時間も必要だし。別に怒っても悲しんでもいないから平気よ。吉乃さんとも、子どもたちとも仲良くなりたいって気持ちに変わりはないもの」


 美琴の表情には、何の陰りもなかった。心の底からそう望んでいるのだと顔に書いてある。


「それより今は、椿様自身の問題です! 私、そのエレーヌという方が言ったことは正しいと思いますわ。椿様だって怒ってくださったではないですか。当矢が私が他の方と幸せになるのを遠くから見守ると言った時に、そんなのずるいって。忘れてしまったの?」


 そう言えば、色々あり過ぎてまるで遠い日の出来事のようにも感じるけれど、確かにそんなことを失言した記憶がある。あの時は部外者がそれぞれの気持ちも考えずに、なんて勝手なことをと反省したのだけれど。


「でもそれは、美琴様が当矢様とお互いに思い合っていらしたからで……。思い合っているのにわざわざ気持ちを押し殺して離れるのはおかしいと思っただけです。私と和真は姉と弟ですから、話はまったく違うでしょう?」

「同じですわ!」


 かぶせるように、美琴がきっぱりとこちらの声を遮った。

 その強さに驚いて、美琴を見つめれば。


「だって、椿様はご自分のお気持ちに本当は気づいていらっしゃるではないですか! それは、恋というのです!」


 美琴の言葉に、目を見開いたまま黙り込む。


 恋……?

 恋とは、一体何の話を?


 困惑する椿に、美琴は真剣な眼差しで問いかけた。


「私だって、もし当矢が他の女性と密着していたり親しげに顔を近づけていたりしたら、絶対に許せませんわ。誰にも渡したくないし、他の誰にも触れてほしくありません。それって当たり前のことではありませんか? 好きなんですもの。誰よりも」

「いえ、だってそれは美琴様が当矢様と愛し合っておられるからで……。私は……」


 そうだ。美琴は当矢に恋をしている。けれど、私は弟である和真にそのような思いは抱いていない。家族としての愛情はもちろん持っているけれど、ただそれだけだ。


 それだけに決まっている。姉としてここにいる以上、そうでなければならないのだから。


「椿様、恋をすれば誰だって嫉妬もすれば独占欲にもかられるのです。好きなのだから当然です。もういい加減、お認めになってもいいのではなくて? お顔に書いてありますわ。和真様のことが好きだって。……誰にも渡したくない、独り占めしたいって」


 美琴は一体何をいっているのだろう。


 恋? 私が和真に、恋をしている?

 和真は私の弟なのに?


 次の瞬間、椿は視界がぐるりと反転するのを感じた。

 そして、そのままその場に崩折れたのだった。



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