「まぁそれに、縁というのはいつ訪れるかわからないものだからね。もう出会っているのに気がついていないだけ、ということもあるし。そう焦らなくても」


 困惑顔で事態を見守っていた父が、穏やかな声で落ち着かせるように椿をなだめた。


 けれどこれまで縁談が流れる度に何度となく繰り返されてきた父の言葉には、正直説得力はない。


「でものんびりしていたら、あっという間に和真に合う縁談相手なんていなくなってしまいます」


 その冷静な突っ込みにひるんだようにしおしおと背を丸めた父を、隣に座っていた母が呆れたように見やり口を開いた。


「でもほら、私がお父様と結婚したのだって私が十九才でお父様が二十二才の時だったもの。急いで決めることもないのではなくて? ねぇ、あなた」


 その母の言葉にも、椿はしばし考え込んだ後首を振った。


「でもお父様がお仕事の修行のためにしばらく外国へ行かれていたから結婚が延びただけで、婚約はお父様が十七才の時に結ばれたと聞きましたわ」


 以前馴れ初めを聞かれて照れながらもうきうきと娘に話して聞かせたことを思い出し、母は天を仰いだ。


「ああ、そうだったそうだった。本当に初めて出会った時の君は本当に美しくてね。……私は一目で夢中になってしまってねぇ。出会った時には外国に行くことはもう決まっていたけど、絶対に他の男には取られたくないと思ってすぐに縁談を申し入れたんだよ。はっはっはっ」


 若かりし時の甘酸っぱい思い出がよみがえったのか、父が懐かしそうに目を輝かせて隣に座る妻に甘い視線を向けた。だが、その妻に横腹を強く小突かれくぐもったうめき声を上げた。


「ちょっと、あなたったら今そんな余計なことを言っては……!」


 結局は両親のどちらも椿の焦りと沈む心を軽くすることはできず、すごすごと引き下がったのだった。


「年齢や家柄の釣り合う令嬢はもともと限られているんだもの。いつまでも受け身でいたら、幸せはつかめないわ。私、和真にはどうしても幸せでいてほしいの。役に立ちたいの。和真だけじゃないわ。お父様も、お母様も、このお屋敷で働く皆にも恩を返したいんだもの。だから、私……」


 椿は役に立ちたかった。和真の幸せにも、家族の幸せにも。今まで出会ってきた、自分に幸せをくれた人たち皆に、幸せでいてほしかった。

 なのに、いまだ何の結果も出せていないこの現状が悔しい。


「お前の気持ちはもちろん分かっているよ。でも焦ることはない。……それにほら、もうこんな時間だよ。お前を首を長くして待っている者たちがいるんじゃないかね? 椿」


 父が壁に掛けられた舶来物の時計を指差した。

 

 それを見た椿は、ガタンッと椅子から勢いよく立ち上がった。


「……っ! 大変っ。もうこんな時間! 私、孤児院へ行かないと!」


 そう言うと、慌てて居間を駆け出したのだった。

 



 ◇◇◇◇



 慌てて居間を飛び出していく椿の後ろ姿を、父と母はやれやれと苦笑しながら見送った。


「今日は算術の日だったかしら。……いえ、習字だったかも」

「すっかりお姉さんだなぁ、椿も。ここへきた時はあんなに小さかったのに、立派になって……」


 椿が孤児院の子どもたちに読み書きなどを教えに行くようになって、もうかれこれ三年になる。

 今日は、その月に一度の訪問日だった。


「相変わらず子どもたちのこととなると、顔が輝きますね」


 和真の声に、少しだけ嫉妬のような色が浮かんだ。


「我々から見たら、お前のことで大騒ぎしている時の椿だってまったく同じ顔をしているんだがね。あの子はお前命だから」


 父が冷やかすように言うと、和真は小さく肩をすくめてみせた。


「まぁ、子どもたちに会えばあの子の気持ちも少しは紛れるでしょう。そうだわ、今夜は椿の好物でも用意してもらおうかしらね」


 母がそう呟けば、さりげなく部屋の隅に控えていた執事が咳ばらいをした。


「先ほどメインの料理をかぼちゃとひき肉のグラタンに変更するよう、料理長に申し伝えておきました。それと食後には、クリームを添えたいちごのムースを」


 どちらも、椿の大好物である。


 指示などなくてもこちらの意図をしっかりと汲み取ってくれる有能な使用人たちもまた、少々気難しくはあるが心根の優しい和真と不器用極まりない椿のいつ実るのか分からない恋をあたたかく見守っていた。


 当の椿以外は皆、椿が和真を心から愛していて、それは弟に対するものをはるかに超えていることにとっくに気がついていた。それに、和真もまたひたむきに椿を愛していることを隠そうともしていなかったのだから。


 つまり、二人の恋が成就するその日を、皆楽しみに待ち望んでいたのだ。


「さすがだわ。そうしてちょうだいな。きっと喜ぶわ、あの子」


 娘の喜ぶ様子を思い描き、母の顔に柔らかな笑みが浮かんだ。


 時に自己犠牲が過ぎる心優しい娘と賢く家族思いだが少々厄介な才を持った息子とを、両親は心から愛していた。

 血のつながりがあろうとなかろうと、そんなことは問題ではなかった。ただただひたすらに幸せにいきてくれたらそれでいい、と願っていた。


 そしてその娘と息子と、お互いに惹かれ合っているのをよく理解していた。いまだ椿は自身のその思いには気がついておらずまったくの無自覚ではあったけれど。


 椿はこの世に生まれ落ちたその瞬間から和真を愛し、今も夢見の才で和真を一心に守り続けている。そして和真は、椿の不器用なまでの誠実さと優しさにずっと救われていた。もし椿がいなかったら、今頃和真は人の世で生きることを嫌悪し生を手放していたかもしれない。


 両親は椿がこの遠山家に養女にきたことを運命だと感じていたし、二人の思いが一日も早く成就するといい、と心から願っていた。




「それで、今回の令嬢には一体どんな秘密があったんだい?」


 父が和真に尋ねる。


「男性恐怖症だそうですよ。尼僧になれば、自分を恐怖に陥れる男性のいない世界で安心して生涯暮らせますからね。ちょっと鎌をかけたら、すぐに教えてくれましたよ。だからほんの少し背中を押して差し上げたんです」

「……なるほど」


 父はふむ、とうなずき母は色々な方がいるものねぇ、と首を傾げゆったりとした仕草で紅茶をすすった。




 これまでの縁談がすべて相手方からの破談に終わっているのは和真が裏で手を引いた結果であることを、両親も知っていた。


 一度目はとてもかわいらしい小動物を思わせる雰囲気の令嬢だったが、和真が自分の前世は蛇で今世でもぜひ屋敷中に蛇を模した置物や絵などを飾りたい、なんなら飼ってもいいと思っていると打ち明けたのだ。それを聞いた令嬢は卒倒した。

 当然彼女が爬虫類全般が大の苦手であると知っての出まかせなのだが、そんな恐ろしいものだらけの屋敷でなど絶対に暮らせないと、即座に破談となった。


 二度目に関して言えば、まぁただの自滅である。

 相手の令嬢の身辺をちょっと調べたら派手に遊んでいる情報がとれたために、相手からからすんなり辞退するよう仕向けただけである。


 そして三度目。これはいささか苦労した。

 というのも、相手の令嬢が本当は結婚などしたくなかったにもかかわらず、家のためには仕方がないと和真との縁談に覚悟して臨んでいたからである。だが、彼女には心に秘めた望みがあった。男の力に頼らない自活した立派な女流作家になりたい、という望みが。


 それならばと和真が椿を巻き込んで、彼女の夢を後押しするためにあれやこれやと画策したのだ。

 結果彼女の実力は見事に有名編集者の目に留まり、彼女は憧れの女流作家として生きていく道へと歩みだし、円満破談となったのだった。


 正直に言えば、縁談相手にそこまでする必要はなかったのかもしれない。が、相手の令嬢を気に入らないとただ断っては、椿が気に病んでしまう。

 だからこそあまり角が立たないやり方で、破談に持ち込んできたのだった。


 和真はふう、と満足げに息を吐き出した。


「……ですが今回も無事破談になりましたから、ひと安心です。他にめぼしい令嬢はもうそうはいませんからね。椿もきっとあきらめてくれるでしょう」


 そう言って、やれやれと安堵の表情を浮かべるのだった。



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