椿はちらちらと時計に目をやりながら、大急ぎで持っていく荷物をかばんにつめていく。


 いつもならば朝食の前に用意を整えておくのだが、今日は朝に届いた例の手紙のショックですっかり後回しになっていたのだ。

 椿は、焦っていた。急がなければ子どもたちとの約束の時間に遅れてしまう、と。


「もう私ったら、いつも和真のこととなると頭がいっぱいになってしまって……! いつもあんなに、約束は必ず守りましょうって教えているのに……」


 和真のこととなると周りが見えなくなってしまう自分の情けなさにため息をつきながら、椿は小さなカステラが入ったたくさんの包みを黙々と箱に詰め込んでいく。


 いつも訪問する前日になると、椿は手作りのお菓子を作るのが常だった。

 大きさが違うなどと喧嘩にならないようきっちり均等に分けたそれらを、勉強を頑張ったご褒美にとお茶の時間に一人一人に手渡すのだ。


 子どもたちの歓声と満面の笑みを思い浮かべ、椿はふっと微笑んだ。


「皆喜んでくれるといいな。我ながらしっとりとうまく焼けたもの」


 もちろんこうして子どもたち用に用意した分以外に、家族や使用人たちにも取ってある。

 皆が自分の作ったお菓子で喜んでくれるのが、椿の楽しみでもあるのだ。


「さて、と。教本も持ったし、筆もあるし……。忘れ物はないかしら」


 最後の確認を終え、ぎっしりと荷物を詰め込んだかばんを手に馬車へと向かおうとしたその時。


「椿。支度は間に合いそうかい?」


 和真の声に、椿は振り返った。


「ええ、なんとか……。昨日のうちに済ませておけばよかったわ。まさかあんな手紙がくるとは思わなくて……」

  

 そして、表情を曇らせた。


「ごめんなさいね、和真。縁談については、孤児院から帰ったらお話しましょうね。今は、急いで子どもたちのところへ行かないと……」


 椿の今にも泣きそうな様子に苦笑しながら、和真がポケットから何かを取り出した。

 

「椿、口を開けて」


 言われるままに雛のように口を開けると、和真は椿の口の中に薄紅色の金平糖を一粒放り込んだ。

 その味わい慣れた大好きな優しい甘さに、焦っていた気持ちが和らいでいく。


「心配いらないよ。それより、椿こそ頑張り過ぎないように。恩返しもいいけど、頑張り過ぎて倒れたら子どもたちも僕たちも心配するからね」


 椿は口の中の金平糖にもごもごと声をこもらせ、頬を赤らめた。


「はい。気をつけます……」

「じゃあ、気を付けて行っておいで。院長や子どもたちによろしく」

「はい。じゃあ、いってきます……!」


 そう言うと、椿は屋敷を後にしたのだった。




 ◇◇◇◇

 


 和真は、四才年の離れた椿を姉としてではなく一人の女性として深く愛していた。 


 いつから特別な思いを抱きはじめたのかは分からない。気づけば姉としてではなく一人の女性として大切に思っていた。

 

 もちろん椿はそんな和真の望みなど気づいてはいないし、自分の中にある弟への特別な感情にもいまだ自覚はない。

 だが言葉の端々、行動のどれをとってみても、弟として思う以上の深い思いを抱いていることはこの屋敷の者皆がよく分かっていた。それほどに椿の和真への思いはわかりやすく、深いものだった。



 和真にとって椿は、自分をこの世に生かし続けるための命綱そのものだった。


 人の嘘を見抜く力など、忌むべき才でしかない。

 人の心中など知らない方が幸せだ。どんなに美しく身を飾り立てようがどんなにきれいごとを口にしようが、その心の内は薄汚れた利己的な嘘にまみれている。


 それを知った時、和真は人間が嫌いになった。そしてこんな人の世で生きることに、絶望したのだ。


 けれどそれを何度となく救い上げ、誠実な嘘のない不器用過ぎる優しさで浄化し続けてきたのが椿だった。


『和真は……和真は一生結婚できず、独り身のままかもしれません! 和真の縁談がなぜか次々と破談になる夢を見たのです! そしてついには伴侶を得ることなく、とうにこの屋敷を出ていっているはずの私と和真がこの屋敷で暮らしていて……。あまつさえ私が、和真に甲斐甲斐しくお茶を出したり上着を着せたりしていているのです!』


 その夢見を聞いた時は、どれほど嬉しかったか。


 椿の夢見は現実になる。ほんのわずかな修正は効いても、実際にそれとほぼ同じ現実を迎えるのだ。

 となれば、いずれは自分が椿とともに寄り添い生きることが約束されたも同然だった。


 だがそんなこと、今はまだ自身の恋心などまったく自覚していない椿に打ち明ければ卒倒するに決まっている。


 だからこそ、ひとまずは心配する椿の頼み通りいくつかの縁談を受け、裏で和真自身が破談になるよう画策してきたのだった。



 

 和真にしてみれば、今回の破談は当然のなりゆきだった。


 そもそも相手の令嬢は初めから自分に対して警戒心を丸出しにしていたし、少しでも距離をつめようものなら脱兎のごとく逃げ出しそうな態度を貫いていたのだから。

 あんな懸命に表面を取り繕ったおかしな態度では、どんな縁談相手でもうまくいかないに決まっている。


 だから破談の手紙が届いても何の驚きもなかったし、むしろ随分返事がくるまでに時間がかかったなと思ったくらいだった。


 けれど、椿はそれをどうしてか順調に進んでいると勘違いしていたらしい。

 椿はちょっと思い込みが激しいところがあるし、人を信じすぎる。その人を疑わない純粋さこそが椿の美点であり、人の弱さやずるさを見せつけられて人間に辟易している和真にとっては救いでもあるのだが。


 最愛の椿をだましていることに、心が痛まないわけではない。けれどこれは、未来のために必要なことだった。


 和真は椿以外と添い遂げるつもりなどなく、どれほどの時間をかけてでも椿と生涯をともにしたいと心から願っているのだから。


 たとえそれが姉と弟としてであっても、伴侶という形であっても。



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