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「こちらのクッキーはいかがですか? 当矢様。遠山家で取引させていただいている商品で、とても評判がいいんですよ」


 ぎくしゃくとした空気をどうにか和らげようと、椿が持参した菓子を当矢に勧めてみる。


「ありがとうございます。ですが私は美琴お嬢様のお付きとして参りましたので、ご遠慮させていただきます。お心遣いありがとうございます」


 ひとり離れた場所に立ち使用人としての態度を崩そうとしない当矢に、美琴は切なげに表情を曇らせ、椿は困惑していた。


 湖に到着してからというもの、当矢は頑なに美琴とも、椿や和真とも一定の距離を保っていた。

 和真が美琴の縁談相手であり、こうして縁談が進んでいる以上、もう美琴への思いを封印しようと考えているらしかった。

 和真はその当矢をなぜか気にするでもなく、いつも通りの飄々とした態度で、呑気に菓子などを頬張っている。その態度にやきもきしつつも、何か考えがあってのことかと思うと下手なことも言えず、気が気ではなかった。


 それに、先ほどまで二人で話していた時はあんなに朗らかだった美琴が、素っ気ない態度の当矢を前にしてすっかりふさぎ込んでしまったのも気がかりだった。

 こんな状況で会話が弾むわけもなく、ぎくしゃくとしたぎこちない時間が過ぎていく。


 それに耐えきれなくなった椿が当矢に一言物申してやろうと口を開きかけたその時、和真が静かに口を開いた。


「美琴さん」


 その声に含まれた甘ったるい響きに、美琴も、そして椿もはっと顔を上げた。

 少し離れたところにいた当矢もまた、何かを感じ取ったようで和真に鋭い視線を向けたのがわかった。


「……は、はい。何でしょうか、和真様」


 少し動揺したように、美琴が答える。

 その美琴の手を、和真がそっと持ち上げ優しげにじっと見つめた。


「私との縁談話はある意味偶発的なものではありますが、私はこれもひとつの縁だと思っています」

「……は? えっと、か、和真様?」


 そう言うと、和真は驚くべき行動に出た。

 そっと美琴の手を取り、手の甲に口づけをする仕草をしてみせたのだ。触れるか触れないかのぎりぎりな角度で。もしかしたら後ろに立っていた当矢には、本当に美琴の手の甲に唇が触れたようにも見えたかもしれない。


 思いもよらない大胆な行動に、言葉を失ったのは美琴だけではなかった。

 目の前で美琴が和真に手を握られ、振りとはいえ口づけのような真似をされたことに押し殺していた感情がコントロールできなくなったのか、当矢の顔が朱に染まった。


 そして椿もまた、見たことのない弟の行動に固まっていた。





 椿は、持っていたかじりかけのクッキーをぽとりと手から落とした。


 目の前にいるのは、誰だろう。本当に自分の弟だろうか。和真は、あんな甘い声と表情を浮かべて女性の手を握るような子だったろうか。

 どちらかと言えば、女性を前にしても大抵はぶっきらぼうに冷たいとも思えるような態度で接するのが常ではなかったか。


 知っている弟の姿と目の前の和真がどうしても結びつかず、椿はひどく動揺した。

 なぜだか胸がひどくざわついて、焼け付くような感情がこみ上げる。


 必死にその謎の感情を抑え込もうと、椿は和真の手に握られた美琴のほっそりとした指から目を離そうと思うのに、どうしてもそこから目を離せずにいた。


 嫌だ、と思った。何が嫌なのかは分からないけれど、とにかく嫌だという気持ちがぶわっと押し寄せてくる。


 生まれてはじめて感じる感情に、椿の顔はもはや表情を作ることもできず引きつった。




 呆然とする美琴と椿、そして今にも飛びかかりそうな表情で和真をにらみつけている当矢とが、時が止まったように凍りつく。

 しばし四人の間に張り詰めた空気が流れ、椿は息をのんだ。


 和真は手を握ったままの美琴から当矢へと視線を向け、口を開いた。


「この縁談、どうやら止め立てする者もいないようですし、このまま進めてしまってもよろしいですか? いずれはあなたもどこかへは嫁がねばならぬ立場です。ならば、愛する者を簡単に手放して他の男に渡してしまうような者などきれいさっぱり忘れて、私と結婚してはいかがですか?」


 それは、当矢への明らかな挑発だった。


 和真の背後で、当矢がぴくり、と反応したのが見えた。


「あなたが大切に思う男は、あなたが誰の元に嫁ごうと誰と幸せになろうと平気だそうですし、それならばあなたも好きにしたらいい。なんなら今すぐにでも式を挙げてしまいましょうか」


 和真が言い終わらないうちに当矢の手が和真の腕に伸び、それを和真がつかんだのはほぼ同時だった。

 

 あんなに穏やかだったはずの湖畔に、一瞬にして緊張が走る。


「あなたは一体何を……! いくら縁談相手とはいえ、そんなふうに美琴お嬢様に軽々しく触れるなどと、なんと……。許せないっ! この人は……この人はそんなに簡単に触れていいはずの人ではないんだっ。この人は……この人は、私のっ……!」


 当矢の握りしめた拳は、隠しきれない怒りに震えている。けれどその顔には切なさがありありと浮かんでいてその表情に椿は息をのみ、美琴は目を見張った。


 しかし当の和真は、当矢の怒りなど気にもとめないといった表情で言い返したのだった。


「あなたが美琴さんの手を自ら離したのでは? 美琴さんが他の男に触れられ抱き寄せられる様を、あなたはこれから一生そばで見守るのでしょう? 自分の身分を気にして守り抜く自信もないからと、美琴さんを簡単に手放してしまうおつもりなのでしょう?」


 その言葉に当矢はぐっと言葉に詰まったように唇を強く噛み、黙り込んだ。




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