3章 動きはじめた運命
1
「椿、今日は窓磨きかね。精が出るね」
いつものように使用人たちに交じって屋敷の掃除にせっせと励んでいた椿に父が声をかける。
「お父様。ええ、今日は絶好のお天気ですもの。……どうかなさったのですか? なんだか顔色が冴えませんけど」
「ああ、実はな。……なんだか大変なことになりそうなんだよ。一体和真は何を画策しているのやら……」
父の口から、深いため息がこぼれた。その顔はとてつもなく渋い。
「一体何のお話ですか? そんな難しい顔をなさって……お仕事のこと?」
途方に暮れたように突っ立っている父に、問いかけた。
「雪園家のご両親がな、当矢くんと美琴さんをつれてやってくるらしい。まぁ一応の名目は、早とちりで縁談を申し込んだことへの謝罪らしいが……」
「まぁ! それは……では美琴様と当矢様がご家族の皆様に結婚のことを打ち明けたのですね? それで?」
湖での一件以来、何度か美琴と近況をやり取りしていたが、ここ数日は途絶えていた。ということはその間に周囲に話を打ち明けたのだろう。
「ご両親は認めてくださったのかしら? 美琴様と当矢様が一緒にいらっしゃるということは、お許しをいただけたということ?」
前のめりで質問攻めにされた父が、両手でそれをなだめる。
「いや、まぁ落ち着きなさい。椿。まぁそう簡単にことが運ぶとはいかないだろう。やっぱり結婚ともなると、色々とな……」
「ええ。それはわかっておりますわ! でも美琴様のことが心配なんだもの。大切なお友だちなのよ」
父のはっきりしない物言いに、椿は首を傾げた。
「実はな、……しばらく遠山家で当矢くんをしばらく預かることになりそうなんだ。つまりは、居候だな」
椿はきょとんと目を瞬かせてしばし固まった。
「居候? 当矢様がなぜ遠山家に? け……結婚は?」
流れた縁談相手の家に娘の恋仲である使用人の当矢を居候させるとは、どういういきさつだろうか。
いやそもそも、結婚の話はどうなったのだろう。
「まぁ話は当人たちがくれば詳しく聞けるだろう。だから椿も掃除は他の者に任せて、早く支度をしておいで。……あと小一時間もすればくるはずたから」
椿は飛び上がった。
まさかこんな軽装で客人を出迎える訳にはいかない。すぐに着替えて、掃除で乱れた髪も整えなくては。
慌てて使用人たちに雑巾を手渡し、部屋へと急ぎ戻る椿だった。
◇◇◇◇
「この度はこちらの勘違いで大変失礼な申し出をして、申し訳ないことをしました。どうかお許し願いたい。ついては、この縁談はなかったことにしていただきたく……」
名家である雪園家の当主とその妻とが、格下の遠山家相手に深々と頭を垂れた。
「いえいえ、まだ進んでいないお話でもありますし、あまりお気にされずとも。どうか頭をお上げください」
父の言葉に顔を上げた当矢の痛々しい姿に、遠山家の面々は言葉を失った。
頬は痛々しく真っ赤に腫れあがり、唇も大きく切れ真新しい血が滲んでいる。多分あまりに腫れ過ぎているせいで視界も遮っているに違いない。
その姿を目の当たりにし、一同は雪園家で何があったのかを察した。
殴ったのはおそらく、当矢の父親だろう。そして切れた唇からまだ血が滲んでいる様子から見て、殴られたその足ですぐに屋敷を出てきたようだった。つまりは、勘当されたに違いなかった。
美琴の目元も赤くぽってりと腫れているところを見ると、ずいぶんと泣いたのだろう。
二人の痛々しい姿に椿は胸を痛め、そしてこれから二人が乗り越えなければならないだろう事柄に不安を覚えた。
「……ゴホンッ。ええと、それで居候というお話でしたな。まぁなんとなく事情は察しておりますが、一応お聞かせいただいても?」
父に促され、美琴の父が苦々しい表情で口を開く。
「こんな失礼をした上このような頼み事をするのは、誠に厚かましいのですが……。どうかこの当矢をしばらくこちらで預かっていただきたいのです。お察しの通り、当矢の父が主人の娘と結婚などと許さんと激昂して、その場で勘当を言い渡しまして」
当矢が、その頭を深々と床にこすりつけるように下げた。
「誠に失礼ながら、そのことについては私からお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
痛む頬を引きつらせながら、当矢が顔を上げた。
「初めてお目にかかります。雪園家で使用人をしております佐山当矢と申します。和真様と椿様よりすでにお聞き及びかもしれませんが、実は私は美琴お嬢様とともに添い遂げたいとの意思を持っております」
時折切れた唇ににじむ血をハンカチで押さえながら、当矢は続けた。
「勘当した父の気持ちは至極当然なのです。こんな不義理はございませんから。けれど、かといって美琴お嬢様との結婚をあきらめることもできないのです。ですから……」
続く言葉を、皆が待った。
「誠に厚かましいお願いではございますが、遠山家の仕事をやらせてはいただけませんでしょうか。和真様より、とある商談の手伝いをしてはどうかとのご提案をいただいているのです。その結果を父に見せることで、どうにか父を説得できないかと考えております」
「……和真」
父が和真をちらりと見やった。その顔にやれやれといったあきらめの表情が浮かんでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「それについては私からご説明いたしましょう」
和真は父のその視線にわずかに笑みを浮かべ、口を挟んだ。
その顔を見て、どうやらこれは和真の予想通りの展開で、とっくに当矢とも話がついているらしい、と悟る。つまりは、すべては和真の手のひらの上なのだ。
その顔に浮かんだ不敵な笑みに、思わずため息をもらした椿だった。
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