当矢が遠山家に居候をはじめて、しばらくたち――。


 

 その日、椿は早朝の庭を歩いていた。

 朝の空気は澄んで気持ちが良かったがまだ朝霧が立ち込める庭は肌寒く、ぶるりと肩を震わせた時。


「ずいぶん早いね。椿」


 和真の声に、椿は目を輝かせて振り返った。


 当矢が居候を始めてからというもの、そのあまりの多忙さに椿は数えるほどしか和真と顔を合わせていなかった。一日のほとんどを離れの部屋で過ごしている和真と当矢とは、まさに寝食を忘れて商談に向けて言語やら文化についての勉強に日夜励んでいたのだ。


 そして椿もまた、当矢が懸命に頑張っている間ただ待っているわけにはいかないと、美琴も孤児院で子どもたちの教育に加わることになったのだ。行儀作法や習字など、椿ではいささか心もとない分野を担ってくれる仲間ができて、心強い限りだ。

 けれどそのために、椿も和真も忙しく会えない日々を送っていた。


 同じ屋敷にいるのになかなか会えないこの日々に、椿は感じたことのない寂しさを覚えていたのだったが――。





 嬉しさでつい緩んだ頬をごまかそうと、椿は思わずうつむきがちに挨拶を返す。


「おはようっ。和真こそ早起きね。こんな早い時間にどうしたの?」


 和真とまともに顔を合わせるのは久しぶりだった。


「風邪を引くよ。今日は一段と冷える」


 和真はそう言うと、手に持っていた大判のストールを椿の体にふわりと巻き付けた。

 庭に出ているのを知ってわざわざきてくれたのかもしれないと思うと、より椿の顔に嬉しさがにじんだ。


「少し庭を歩かない? ここのところ話をする暇もなかったし、少し話そう」


 その誘いに椿はもうどうにも笑みを隠せそうもなく、にっこりと笑ってうなずいたのだった。


「そうか。じゃあ美琴さんが孤児院に。きっと子どもたちも喜ぶだろうし、少しは椿も負担が減って楽になるかもね。当矢にも様子を伝えてやるか」

「そうね。美琴様も頑張っているんだと知れば、もっとやる気になるかもしれないし」


 和真は当矢の、椿は美琴の近況をそれぞれ伝えあった。


 まるで遠く離れていた知り合いに久しぶりに会ったようなおかしな感覚に、椿はくすくすと笑う。


「どうしたの?」

「ふふっ。なんだかおかしくて。同じお屋敷にいるのに、ずいぶん遠くに離れていたみたいで。たくさん話したいことがある気がするの」


 椿の笑い声に、和真の表情もやわらかくなる。


「だったら、毎週この時間に二人でこうして早朝散歩しないか? そうすれば、お互いの情報も共有できるし」


 和真の提案に、椿は飛びついた。


「ええ! それはいい考えだと思うわ。そうしましょう!」


 こみ上げる嬉しさに満面の笑みでうなずいた椿に和真が優しく微笑み、そして問いかけた。


「……寂しかった? 僕と話ができなくて」


 その声にほんの少しにじんだ甘さに、椿ははっと和真の顔を見上げた。


 互いの視線が絡み合い、胸がぎゅっとなる。なんだか胸が苦しくなって、椿はふっと視線を外した。


「……そりゃあ、かわいい弟だもの。もちろんよ。忙しくて無理はしていないかとか、ちゃんと食事はとれているかとか、心配だもの」


 思わずうつむいた椿は、耳元にふっと近づくものを感じて顔を上げた。

 

 その気配は、和真の指だった。

 頬にはらりと落ちた椿の一筋の黒髪を、和真はまさにそっとすくい上げたところで。


 指の熱が触れたわけでもないのにじわりと伝わるようで、椿は身じろぎした。


「……そう。椿も無理はしないようにね。椿は、すぐにひとりでなんでも背負い込もうとする悪い癖があるから」


 顔に熱が集まっていくのを感じて、椿はこくこくとうなずき返した。


 最近自分の感情が忙しない。

 感じたことのない未知の感情に、なんだか振り回されているような気がする。そしてそれは、いつも和真と一緒にいる時に起きるのだ。


 一体自分の中で何が起きようとしているのか分からず、少しの不安とどこかくすぐったいような気持ちでいっぱいになるのだった。

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