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「当矢は、親子ともども恩のある雇い主の娘を妻に迎えるなどあまりに不相応だといって、頑として首を縦に振らないのです。自分のようなものにはおこがましいと……。自分は私の幸せを一生かけて遠くから見守るからと言って……」
椿は美琴の悲痛な声に、胸が痛んだ。
「当矢はとても優秀ですし父も目をかけてはいるのですが、結婚ともなれば反対されるに違いありません。それに、雪園家の娘としても家の益になる結婚をするべきだとは重々承知してはいるのです。……でも、それでもどうしても当矢以外の方と人生をともにする気持ちには……」
美琴はわっと泣き伏した。
思いつめたその様子に、椿は胸を痛めた。と同時に、なんだかもやもやともした。
当矢は独身を貫きそばで美琴の幸せを見守りつつ一人耐えれば済むかもしれないが、美琴はそうはいかない。名家の娘という立場上、独身のまま職業婦人として生きる道などないのだから。
もし美琴が当矢への恋心を押し殺して他の人と結婚したとして、いつか美琴の心が壊れてはしないだろうか。
だったら初めから心を通わせなければ良かったのに。はじめから片思いならば、いつかあきらめがついたかもしれないのだから。
「でも……、それってなんだか当矢様はずるい気がします。美琴様の思いを知っていらっしゃるのに今さら心を通わせた後でやっぱり一緒にはなれないなんて、少し勝手がすぎ……! はっ!」
椿は慌てて口元を押さえた。
まだ会ったこともない当矢のことをずるいだなんて、勝手だなんて事情をよく知らない他人が口を挟んでいいことではない。
「申し訳ございません……。私、出過ぎた真似を……恋なんて、私にはちっともわかりませんのに……。美琴様ばかり苦しそうに見えて……」
椿は自分の悪い癖がまた出てしまったことに、肩を落とし泣きたい気分でうつむいた。
なぜいつもこうなのか。できるだけ余計なことを口にしないようにと家族以外の前ではできるだけ口数を少なくし、表情にも気持ちが出ないよう気を付けているのに、こんな肝心な時に悪い癖が出てしまうとは。
椿は、消え入りそうな声で謝罪を繰り返す。
けれど、美琴から聞こえてきた言葉は意外なもので、椿は驚きにぱっと顔を上げた。
「……ありがとうございます、椿様」
「な、なぜお礼を……?」
椿にはわからない。なぜ美琴が礼の言葉を口にして嬉しそうに微笑んでいるのか、そしてなぜこんなに優しく手を握られているのか。
「あの……私……」
思わずうろたえる椿に、美琴はにっこりと微笑んだ。
「私、嬉しいのです。本当は私だって当矢には同じことを考えてましたもの。どうしてあなただけ逃げるのって。いざ結婚となったら尻尾を巻いて逃げ出すなんて、ずるいって。……でも面と向かっては言えなくて、悔しかったんです。それを椿様が代わりに言ってくださったから、嬉しくて」
そう言って、本当に嬉しそうに笑った。
「私も同意見ですね。主人の娘と恋仲になっておいていざ縁談話が持ち上がったとなったら逃げだすなど、男の風上にも置けないと言ってやればいいんですよ」
和真までもが当矢を責めるような発言をし始め、椿は自分が言い出したにも関わらずこの場にいない当矢を少し気の毒に思った。
「だから、確かめてみませんか? 彼の気持ちを。本当にこのまま引き下がって、どこか他の男にあなたを渡すつもりでいるのかどうかを」
和真のにやり、とした不敵な笑みに、椿の胸に不安がよぎる。
「雪園家ほどの家ならば、わざわざ娘の幸せを犠牲にして益を得るほどお困りではないでしょう。けれど娘をどこにも嫁にやらず家に置いておくこともできない以上、あなたは誰かとは縁を結ばなければなりませんね。そうでしょう?」
「……その通りですわ。きっと」
美琴は赤くなった鼻をすすり、濡れたタオルでそっと目頭を抑えた。
「実はこちらにもちょっと事情がありましてね。あなたと当矢さんさえ幸せになる意志を貫く覚悟がおありなら、お二人の結婚に協力したいと思っているのです。もちろん手を貸すだけで、実際に頑張るのはあなたたちですが」
和真は、美琴の意志が本物かどうかを試すようにその顔をじっとのぞき込んだ。
「協力を……? でも、なぜですの? 和真様に何の利が?」
美琴がいぶかしげに和真を見つめた。
「……ええ、まぁ色々とね。ただ、お二人にとっても、遠山家、雪園家のどちらにとっても損はないはずです。どの道この縁談は不成立となるわけですし、雪園家が格下の遠山家に縁談を申し入れたのはただの噂で、実は商売上の取引だったということにすれば、雪園家としても下手な勘繰りを受けずに済むでしょうから」
和真はそう説明し、にっこりと微笑んだ。
「確かにこの縁談が巷で噂になっているのは知っておりますけれど……。でも」
美琴はどうにも和真の意図を計りかねているらしかった。そして和真もその手の内をこの場で明らかにする気はないようだ。
「どうです? 話に乗りますか? それとも当矢さんとのことは内密にしたままこの縁談を破談にして、また他の方との縁談に臨みますか?」
その問いに美琴は、一瞬目を見開きそして頭を振った。
「いいえ! もし許されるのであれば、私は当矢と人生をともにしたいと思っております。たとえどんな苦労をしても」
「ならば、手を貸しましょう。お二人の結婚を周囲に納得させられるよう、協力をお約束しますよ」
和真のその力強い言葉に、美琴の目にみるみる涙が浮かび上がった。
「私も協力いたします。……このままでは美琴様があまりにお辛すぎますもの。もうお気づきかと思いますが私は色恋にうといので、どれほど力になれるかは分かりませんけど」
椿もまたそれに賛同し、美琴を励ますようにうなずいた。
それを聞いた美琴の顔には驚きの表情が浮かび、そして泣き笑いに変わったのだった。
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