25 断層

「おかえり。珍しいじゃない、俺より遅いなんて」


「そういえばきみにただいまを言うのは初めてかもしれないね」


 バオが帰ってきたとき、ニキアスはいつものテーブルで何をするでもなくぼーっとしていた。時間帯としては夕方で、降っていた雨はもうすっかりあがって、空の色はオレンジ色に染まっている。そろそろ多くの人の活動が終わるころだ。

 朝には手にしていなかった花束を持って、すこしくたびれたようだった。バオはテーブルの上にその新しい花束を放ってどさりと腰をおろす。


「イザベルからの依頼がさっき終わったんだよ、仕上げまでね」


「ここんとこ毎日だったやつだ。話を聞くんだっけ?」


「そうそう。よく覚えてるじゃないか」


 何も言わずにニキアスは席を立った。それが湯を沸かすためのものだとわかっていたから、バオも何も言わずに手を上げて感謝の意を示した。彼らはどちらも家事に対して思うところはないようで、やったほうがいいと考えたらすぐに動けるらしい。

 夕方の太陽の残光の届く範囲が限定的なせいで、距離の離れていないところにさえすさまじい陰影を生み出す。窓の外では輝くような色に染まった家屋があり、その裏路地には絵の具で塗ったような暗闇が口を開けていた。角度の問題で光を取り込めない屋内も似たような暗さを抱えているのだろう。留守にしていない家では明かりを点けるべき時間がやってきていた。


「今日は最後だから話が長かったの?」


「そんなところかな。イザベルに報告する必要もあったし」


「ふうん、お疲れ様。大変だった?」


「まあ、そうだなあ、まあ思っていたよりは大変だったよ」


 言いよどみはしたが、彼女のなかで何かを検証してその結論にたどり着いたようだった。ニキアスはその内容を知りようがない。あまり聞く気もない。バオの言うように思っていたより大変で、しかも彼女から話題を振ってこない、ということは面白いものには分類できないのだろうと予想がついたからだ。話を聞くだけの仕事なのにそういう扱いをできないのなら、きっと愚痴でも聞かされ続けたのに違いないとニキアスは考えた。

 ニキアスはまだ熱くて飲めない湯をとりあえずバオの前に置いた。そこから先は彼女の判断次第だ。温かいうちに飲んでもいいし、湯冷ましになるまで待ってもいい。普段の様子を思い出すと温かいままで飲むことのほうが多い気がした。たしかに夏に飲んでもほっとする。ニキアスも温かい飲み物のほうが好みだった。


「私の話はいいから、きみは何か面白いことはあったかい?」


「あ、今日ね、赤ん坊見たよ。生まれたての」


「……いいことじゃないか。新しい命は尊いものだ」


 予想外だったのか、バオは驚きに目を大きくして、言葉もすこし遅れて出てきた。たしかに何か面白い出来事はあったかと聞いて、新生児の話が出てくるとは思いもしないだろう。せいぜいが黒猫を見かけたとか、昼に食べたものがおいしかったとか、その程度のものを期待するのがふつうなのだ。


「村にいたときも見たことあったんだけど、なんかそれと違ったんだよ」


「違う? どんなふうにだい」


「別に悪く言うんじゃないけどね、今日見たのに比べると村のは作業感みたいなのがちょっと出てたような気がするんだ。なんだろう、喜び方が個人的じゃなかったって言えばいいのかな」


「なるほど。どうなんだろうね、私にはちょっとわからないけど」


 ニキアスは顎に手を持ってきて、頭の中のものを掘り出すように考えながら言葉をつなげた。彼にとって村自体はそれほど過去の記憶ではない。出てきてからやっと数か月というところだ。その比較なのだから精確性は信頼できる。彼の感性自体が壊れていなければの話ではあるが。

 そしてそれはバオには答えようのないものだった。なぜなら彼女はどちらも見ていない。街と村の差異について詳しいわけでもない。というかそれに詳しいと自称する人物がいたとして、それを誰が信じるだろうか。すくなくともバオは信じないだろう。人とは集団で生活しながらも個々で思考判断を進め、またある時には矛盾をはらんだ行動を選ぶ複雑怪奇な生き物だからだ。大きく括って説明することは不可能だと考えている。


「たまたまそんな家に出くわしたのかい?」


「うん。えーっと、前に話さなかったっけ、俺が荷運びしてる子を助けた話」


「それあれだろう、モリエール商会の人と知り合いになったっていう」


「そうそうそれ。その子の家の話なんだよ」


「またすごい偶然じゃないか」


「ほら、そもそもその子が荷運び頑張ってたのって弟か妹ができるからでさ」


「ああ、なるほど」


 それほど解きたいとも思ってもいなかった問題が、何かの弾みでするすると答えにたどり着いたような感じの納得だった。感情としては得心がいって満足感そのものはあるのだが、その質と規模がふだん求めているものとは遠く離れていた。一人で歩きたいのに近所の人からあいさつをされたときのような、右に置いていいのか左に置いていいのか悩ましい気分だった。

 バオが木製のコップを口に運ぶのをニキアスは見ていた。どうやら温かいままで飲むらしい。ニキアスが村で聞いた話では、冷たいものはあまり体によくないらしい。彼からすれば真偽のほどは定かではないが、もし同じことをバオが知っているなら、彼女も体調に気を配っていることになる。とはいえそれよりも単純に、温かいもののほうが好きだということのほうがあり得そうだった。


「お祝いが必要だね、いっしょに選んであげようか?」


「生まれたばっかの家だよ? しばらくは無理だよ。迷惑になっちゃう」


「言われてみれば」


 背もたれに思い切り寄りかかって、バオは天井を仰ぎ見た。鼻の先が上を向いて、顎の力を抜いたような開き方をした口が見える。そこまでいくと顔かたちの完成度は関係なく間抜けに見えた。


「どうしたの、ずいぶん頭まわってないみたいだけど」


「ぐさりと刺さったけどまったくきみの言う通りだ。私にはいま考える力がない」


「イザベルさんとの話ってそんなに疲れるっけ?」


「あの子との会話は面白いよ、その手前の話が問題なんだ。依頼だよ」


 反動をつけて戻ってきたようにバオはテーブルにうなだれた。まるで投げ出された花束にすがっているように見えた。相変わらず彼女はそれを切らしたことがない。花が傷んでしまっても、次の日の朝にはすぐに買いに行く。彼女と根深いところで結びついているのはわかっているが、それでも徹底されている。ニキアスが抱く感想はずっとそれだった。他の、もしも火の魔法が使える三本腕がいたとしたら、その人物はずっとたいまつを掲げたりしているのだろうか。ニキアスはそんなことを考えて、すぐに頭から追っ払った。馬鹿みたいな発想しか出てこないのは想像力が足りないからだと自嘲した。

 バオが疲れていると言うのなら、ニキアスは彼女を休ませてやりたかった。あまり話を振ってもいけない。だから彼は台所に立った。ちょっと早いかもしれないが、夕食の準備をするためだ。同じテーブルに向かい合って座って無言のままだと居心地がよくないかもしれない。お互いがそれぞれ別に何かをしているならそれでもいいかもしれないが、いまは違う。それでも構わない関係もあることは彼も知ってはいるが、ふたりはそういった関係からは遠い。


「ごはんは何だい?」


「干し肉を戻してなにか作ろうかな。味は薄めにしようか?」


「いつもどおりにしておくれぇ。物足りなかったら解消する術がない」


 どうやら食欲を失うような疲労ではないらしい。バオ相手には気を遣わなくていいと考えているニキアスは、彼女の言葉はそのまま受け取る。もしこんなにも疲れているのに言葉に冗談だの嘘だの余計なものを混ぜるような真似をしているなら、それは筋金入りの孤独というものだ。

 焼く、ゆでる、煮る。これらができれば最低限の料理の体裁は整う。きちんとした技術にもとづいて料理をしている人からは文句が出るかもしれないが、こういった次元のものも存在はするのだ。彼らが一皮むけるにはレシピが欠かせない。

 あらゆる意味で目分量や感覚から生まれた名前のない料理は、口にしてみればそれなりに美味しく、欠点はといえば再現性のなさだった。思いつきで使った食材や調味料でまあまあの味に仕上げるのは大したものだが、結局はそこまでだった。


 太陽はすっかり沈んで、夜の闇が空気にぴったりと貼り付いた。たまに例外もあるが、静かになるのがルールのようだった。日中に降っていた細い雨のせいで、すこし肌にひたひたとまとわりつくようなものを感じる。

 ふたりが座っているテーブルから覗ける窓からは月は望めない。どこかに出ているのだろうが、額縁の外にいるらしい。きっと黒い空に白く輝いているだろう。


 バオは最悪の状態を脱したのか、いつの間にか増えていた本を開いて眺めていた。何日か前の話だが、読書は面白いのかというニキアスの質問に、バオは新しい知識を得ることが面白くないわけがない、と拳を握って力説した。そしてそんな彼女の蔵書を確認してみると歴史書に小説、たまに思想書などなどがあった。はたして物語から知識が得られるものだろうかとニキアスは思ったが、そういうものなのかもしれなかった。彼に想像つかないだけで。

 その向かいではニキアスが剣の手入れをしている。彼は本当に毎日それを欠かすことがない。鞘から剣を抜くこと自体がほぼないから、刃こぼれの心配もないのだが、いつだってその目は真剣だった。その刃を眺める様子は刀鍛冶にも似ていた。もしかしたら本当に打てるのかもしれない。

 ふたりが同じ空間で別の時間を過ごすときはたいていがこの調子だった。


「ニキアス、きみは旅を始める前はどんな生活をしていたのかな」


「え、なにどうしたの急に」


「今日で終わった仕事でね、いつだったかは覚えてないけど、過去についての話題が出たんだ。それでふと思った」


 ニキアスは点検していた剣を鞘にしまって、んん、とわかりやすく天井を仰いだ。腕組みもして、何かを思い出す仕草としては露骨といってもいいものだ。思い出すことに苦慮しているというよりも、どう話をしたものかを悩んでいるようだった。

 しばらくその体勢で目を閉じて、ようやく内容がまとまったようだった。


「ちいさいころの記憶ってさ、どこから残ってるかってあやしいところない?」


「十歳くらいまで何も覚えてないって人もいたなあ」


「ちょうど俺もそんな感じなんだよ。全然おぼえてない。なんでもないある日からの記憶はけっこうしっかり残ってるんだけど、そこから前は線を引いたみたいにまるでおぼえてないんだ」


 言葉に合わせてニキアスは空中に指で線を引いた。本人から見て左が記憶のない領域で、右が現在まで連続している彼自身であるらしい。


「けっこう最近の記憶しかないんだね。五、六年くらい?」


「うん。本当にぷっつり切れてるもんだからさ、友達とちょっと前の話をしたときにすごい混乱するんだ。あのときああしたからこうなった、の“あのとき”が無いから、結果だけが残ってて思い出話がうまくできないことがあったり」


「そこまで境界線がはっきりしてるのはあまり聞いたことがないな」


「極端な例だけどね。まあでもそういうのを除くとけっこうふつうに暮らしてたって言っていいんじゃないかな」


 やれやれといったふうのため息をついて、ニキアスは話を本筋に戻した。彼にとって記憶が途切れていることは、つらいことというよりもヘンテコなことに分類されているらしかった。微妙な問題であることに違いはないが、実生活で困るかと言われればそうでもないというのがだいたいのところだろう。ニキアスが失ったのは、何をしたか、何があったのか、という記憶であって、言語だとかそういったものをなくしたわけではないのだ。

 ニキアスは両肘をテーブルの上に置いて、その先で手を合わせた。ここからは線の右側の話だ。


「剣の鍛錬と、近所の冒険。それといたずらばっかりやってたよ」


「きみの身体能力でのいたずらはなかなか度が過ぎていると思うけれど?」


「せいぜい畑のものを勝手に食べるとかだよ。それに俺一人でやるわけじゃないし」


「クソガキだねえ」


「それすごい言われた。でもあれ日常の一コマだってみんなわかってたからね。怒られるまでが一連の流れというか」


「目に浮かぶようだ」


 バオは頬杖をついて穏やかに口の端を上げた。さっきまで読んでいた本はもう閉じられている。特別に面白い話ではないが、ふたりにとっては必要な種類の話だった。


「バオは? “森”ではどうだったの?」


「……うーん、実は答えにくい質問なんだよ、それ」


「あ、けっこう話しにくい内容だったり?」


「違う違う。そういうのはなくもないけど、多いわけじゃないんだ。あそこの常識と外とじゃかなり違いがあってね、なんでそんなことしてんの、って言われるようなことが“森”じゃふつうだったんだ」


「たとえば?」


「そうだなあ。たとえば全員が薬学の勉強をするんだ、わかるかい、薬のことだよ」


 バオは考え込むように腕を組んで、すぐにほどいて人差し指を立てた。考えたことを踏まえると、いくつも出せる例があるのかもしれない。

 ニキアスはとりあえず頷いた。自身が常識に通じているとあらためて意識したことはないが、薬についての勉強を誰もがすると聞くと、それがあまり一般的ではなさそうなことは納得できた。そもそも彼の生活に勉強という行為が入り込んできたことはない。学ぶのは痛い目を見てからというのがお決まりなのだ。


「なんでまたそんなことを」


「あそこの連中は、私も含めてひとりでふらふらするからね。困ったときには自力でどうにかできるように学ぶんだ。旅先で病気になることは珍しいことじゃないし、そこに医者がいないどころか人のいない地域の可能性もあるし」


「そこまでいけば選んだ旅先と本人が悪いでしょ」


「人種というべきかな、そういうのがほとんどなんだ」


 薬学を修めるより前に大きな街から大きな街へと旅すれば困ることもなさそうだとニキアスは思うのだが、どうやら考え方の違いでそうもいかないらしい。苦笑がこぼれる。たしかに人のいない地域にはそこにしかない魅力もあるのだろう。ただひとり味わうことのできるロマンであるとか、たどり着いた人間にしか見ることのできない景色であるだとか。しかしそれらと命とを天秤にかけたとき、ニキアスは失くしたら人生が終わってしまうものを選んでしまう。それは簡単に懸けてはいけないものだから。

 バオの口調からは自分たちは変わった存在だ、という意識は感じられなかった。たまたま生まれた場所が違うから優先順位のようなものも違っていて、他の地域にも似たような考えを持つ人はいるだろう、くらいに考えているのが簡単に読み取れた。さらにつっこんだ見方をすれば、バオ自身は度合いの極まっていない穏健派だと思っているように思われた。


「杖術つかえるのもそれ?」


「そうだよ。程度には個人差があるけど、身を守れないようじゃ旅はできない」


 やれやれというふうに彼女は首を横に振った。まるである行為に対して許可を出さない理由を順序だてて説明して、気の逸った子どもを諫めているようだった。実際にそんな話をした経験がありそうだった。


「死んじゃあ何にもならないんだよ、結局ね。わかるだろ、ニキアス」


「……考えたことないから何も言えないよ。生きるために頑張った経験はあるけど」


 バオは椅子の背もたれに身を預けて腕を組み、そこから右手を顎に持ってきた。彼女が考えるときに取る仕草はいくつもあるが、深く考え込む場合はこの姿勢が多かった。言葉を大事にしろという信条に従って、口にしたその発言がどんな意味の広がりを持つのかを検討しているらしい。こういうとき、ニキアスは手持ち無沙汰だった。よく手のひらと手の甲を点検した。指をゆっくり曲げたり伸ばしたりもした。


「たしかにこの言い方だと誤解を招くかもしれないな。違うんだよ、ニキアス。私は命の終わりの無意味さを説いてるんじゃないんだ。生きてこそ、なんだよ」


「“森”ってみんなそんなこと考えてるの?」


「……これがさっき言った常識の違いってやつになるのかな」


 あちゃあ、とバオは額に手をやった。なんとなくだが、似たようなことを何度か経験しているのだろうとニキアスは思った。体に染みついてしまっているからこそ常識なのであって、それは洗い落とそうとしてどうなるものではない。意識していないときにふと出てしまうのだろう。彼女の表情はうんざりしているようにも、すこし悲しんでいるようにも見えた。

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