21 幸せの入り口

 バオがようやく自宅を出たころ、ニキアスは目的地へ向けてのんびり歩いていた。ジョゼフに会いに行くのが狙いだが、ほぼ完全に近い確率で少年に再会できるだろうとニキアスは思っていた。余裕からかその足取りに急いだものは感じられない。彼の目当ての人物の、すくなくとも手がかりが得られる場所に行くからだ。

 中心街の賑わいは、まだニキアスをわずかにたじろがせた。足を止めたりするほどではないが、すこし歩く速度が落ちて辺りを見回す頻度が上がる。村でいえば祭りの日でないとこの人口密度は達成されない。それが日常なのだから恐れ入る。その代わりというのも失礼かもしれないが、ニキアスには人々の顔が村に比べて印象づかなくなっていた。


 目的地を目指して歩いている途中で、ニキアスははたと足を止めた。菓子店が目に入ったのである。気軽に買えるほどの値段ではないが、手が届かないわけでもない。ニキアスは食べることがたしかに好きだが、とはいえそれだけが理由で足を止めたのではなかった。

 その場で食べるのではなく、いくつか包んでもらい、それを抱えてニキアスはまた歩き始めた。剣を背負ってお菓子を抱えているのも奇妙な姿だったが、そんなものも人波のなかでは埋もれてしまうのだった。

 見えてきたのはモリエール商会の本店だった。昨日見たのと同じように大盛況だ。きちんと大きく作られているとはいえ、出入り口をひとつではなくふたつにしたほうがよさそうだと他人事ながら心配になる。その繁盛ぶりはいったいいつ店員が休んでいるのか気になるほどだった。

 大雨の日の河口のような人の流れに圧倒されて、ニキアスはおだやかとは言えない入店を果たした。店内は出入り口に比べてずっと広いからそこで余裕が生まれるが、それまではすこし苦しさを覚えるほどだ。周りの人はそんな苦痛など感じていないようだった。彼らはきっと慣れてしまったのだろうが、ニキアスにはその感覚がわからなかった。


 さまざまな客層であることがウリのひとつだ、というルクレツィアの言葉の通りに店内の顔ぶれは多様だった。ニキアスがそこに混ざったってひとつの違和感も抱かせない。その埋没するような感覚は、彼にとって悪いものではなかった。これまではずっと個として扱われ続けたものが、何者でもないひとりとしてざわめきに紛れることができる。それは風景画に映り込んだ人物としての立ち位置に似ていた。

 用事はあったが緊急ではないこともあって、目的の階段を目指しつつ並んだ商品に目を配った。縁のなさそうなものであっても見るだけならばそれなりに楽しい。買うかどうかの検討をしないぶん、周囲に比べて気軽に楽しめているのはニキアスのほうだった。

 円形の店内を少し進んで、やがて見張りの控える上がり階段が見えてきた。建築における技術的なものなのかはわからないが、どうしてかその螺旋階段は通る場所という考えを起こさせない。もちろん控えている屈強な男の影響もあるだろうが、もしも彼がいなかったとしてもあの階段を上がろうとする人は少ないだろう。


「ねえ、ルクレツィアさんはいる?」


 ニキアスはその見張りの男に声をかけた。先日ルクレツィアに言われた、できれば剣を下ろしてほしいという言葉を思い出して剣を男に差し出しながら。戦闘の意思があると思われては困るのだ。相手の技量はわからないが血が流れる可能性は高いし、そうなれば混乱が店内を包むだろう。ルクレツィアが大事にしていた信用をぶち壊すことになる。ニキアスはそういう事態は避けたかった。

 見張りはニキアスのその考えを汲んだのか、剣は受け取らずに軽く手のひらで制した。とはいえすべてが都合よくはいかなかった。


「それはお前に関係のあることではない。そして知ることでもない」


「昨日お世話になったから、そのお礼したいんだけど」


「そういう嘘をつく馬鹿が日に何人いると思う?」


 慣れたように低い声で男は対応する。どうやらこのあまり使うイメージのわかない階段にも訪れる客はいるらしい。それもあまり望ましくない客が。不思議ではない話だった。ルクレツィアが言うには、彼女はそれなりの裁量を与えられている人物らしい。それならばずるい接触を持ちたがる人は多いだろう。そうでなくとも二階にさえ上がればモリエール商会の重要な人物と会える可能性は高い。

 しかしだからといってニキアスも諦めるわけにもいかなかった。昨日は運がよかったが、街を適当にぶらついたところでジョゼフに会えるとはとても思えない。


「取り次いでもらえると助かるんだけど。名前はニキアス」


「お前の言うことがすべて正しかったとして、それでも俺はここを動かない。ここを見張る人間がいなくなるからだ」


 簡潔に納得せざるを得ない理由を説明されて、ニキアスは困ってしまった。しかもおそらく彼は丁寧に対応してくれているはずだ。本来なら有無を言わさずにつまみ出されてもおかしくなさそうな立場にニキアスはいる。道理で言えば会話をしてもらえている時点で感謝する必要があるくらいだった。

 ジョゼフの家の場所さえ聞くことができればいいのだが、どうにもそれを説明しても難しそうだ。個々人の事情を説明をする必要があるし、それを受け入れてもらわないとならない。取るべき方策も浮かばなかったニキアスが後ろ頭に手をやったとき、背後から声が飛んできた。


「ニキアスじゃない、どうしたの。この人は商品じゃないけれど」


「いやあんたに会いに来たんだよ」


 笑えない冗談は無視してニキアスは自身の要件を伝えた。ルクレツィアはちょっと考えて、得心がいったように笑んだ。昨日も見た上品なものだった。彼女は動こうとしていた見張りを手で制して首をちいさく横に振った。

 ニキアスの目的を理解したはずなのに、彼女はすぐには言葉を返さずにしばらくのあいだ考え込んだ。決して急いでいるわけではなかったが、会話の時間を当たり前のように彼女のものとして使われると微妙な居心地の悪さがあった。ただルクレツィアはそう振舞うことが自然だった。


「そうね、デートはあさってなら――」


「ジョゼフの家ってどこにあるの?」


 ちょっと考えて絞り出した冗談を途中で流されて、ルクレツィアは楽しそうにくつくつと笑っていた。ニキアスも年上の冗談にくらい多少は付き合ってあげればいいものを、手心を加えることさえないのだから恐れ入る。もしかしたら面倒くさい匂いのようなものを嗅ぎ取ったのかもしれないが、それは彼に聞いてみないとわからない。


「それにしても律儀なのね、あなた。昨日の今日で来るとまでは思ってなかったわ」


「時間があるからね。それに友達にご両親を紹介したいって言われたら、それは早く会っておくべきでしょ」


「なんだか恋人相手の考え方みたい」


「勘弁してよ。そういうふうに育てられたんだ、誠意には誠意を、って」


 ルクレツィアはすこし驚いたように目を見開いた。三度まばたきをして、じっくりニキアスの目を見る。とくに意味のある言葉はなく、ふうん、とだけ言った。大きくなった目がもとの大きさに戻ったとき、なにか、ルクレツィアからの視線の色とでも呼ぶべきものが変わったような感じがあった。しかしそれが指すものをニキアスは説明できない。雲の色が変われば厚みに差ができたことがわかるが、それほどの違いでさえない。


「ジョゼフなら今日もここに立ち寄るわ。上がりましょう、そのほうが確実よ」


 ルクレツィアは階段に足をかけながらそう言った。彼女は伝達と相手の受諾が同時に起きていると思っているのか、言い終わると振り返りすらしなかった。ニキアスはその振舞いをとくに気にすることなく従うことにしたが、階段を上がる前に見張りに一礼した。任された仕事を全うする彼の姿ときちんと話をしてくれた善意に敬意を持ったからだ。彼はそれに見向きもしなかった。ニキアスにはますます好印象だった。

 円の半周ほどの螺旋階段を上がって、ガラスの壁際のテーブルに案内された。外へ視線を向けると人々がそれぞれの生活を送っている様子がよく見えた。二階という高い位置にいるせいで彼らの意識の中にニキアスとルクレツィアの姿はなく、こちらを知らない彼らの姿をみるのは落ち着かない気分だった。


「あまり馴染まない?」


「二階から外を見るってだけなら全然あるんだけど、窓のせいかな、感覚が違う」


「でもこれ意外と大事なの。お客様の様子がよく見えるから」


「そうなの? 下におりればもっと近くで見られそうなものだけど」


 ルクレツィアはすこしさみしそうに首を横に振った。


「店員がいるところで文句を言うのは変な人ばかりよ、それも言いがかりばっかり。私たちが聞きたいのはふつうのお客様の不満なんだけど、なかなかね」


「あれ、不満が聞きたいの?」


「そこを改善できたらもっといい店になるもの。もちろんいろんな兼ね合いがあるから全部が全部とはいかないけれどね」


 二人は頬杖をついて窓の外を眺めながらそんな話をした。視線の先にいる人々の大きさに、ニキアスはどっちつかずな印象を抱いた。ふだん歩いているときとは違う。山の上から見下ろしているときとも違う。精巧さも彩色も完璧な人形が動いているような、そんな毒々しさが彼の中でしだいに大きくなっていった。

 そんな気分の悪さを切ろうとして、ニキアスは話題を変えることにした。ここへ来た最大の目的はジョゼフに会うことではあるが、それに付随してやっておきたいこともあるのだ。


「ねえルクレツィア、お土産もってきたんだけど」


 そう言ってニキアスは先ほどの菓子店で買ってきた焼き菓子の袋をテーブルの上に置いた。がさ、と音を立てる紙袋を押してルクレツィアのほうに差し出した。彼女は何のことかわからなさそうに首をかしげた。


「昨日たくさんもらっちゃったし、ちょっとくらい返さないと」


「あれは本当に給料代わりだから受け取っただけでいいのに。ホント律儀ね」


 受け取って紙袋の口を開け、立ち上る香りを吸い込んだ。それを満足そうに楽しんだあとで目を手で覆った。そしてわずかに震えている。彼女の反応の変化は滑らかで自然に見えたが、その前後関係は不自然だった。反応につながりが見出せない。大雑把に言えば正の反応と負の反応が連続している。ニキアスにはまだ人間というものの全体像が、自分を含めてよくわかっていないという自覚はある。しかしそれをあらためて確認させる事態に向かい合うとき、彼はいつだって無力だった。

 とりあえず反応の結末が悲しみに分類されるものであることは間違いない。だからニキアスは土産選びに失敗したのだと思った。ひらめきに従って決めたのに近いそれは、不適切だったのかもしれないと。


「ごめんルクレツィア、あまり気に入らなかった?」


「いいえ。すごくうれしいわ。タルトも大好き。でもね」


「でも?」


「あまり無計画に食べられないのよ。すぐだらしない体型になっちゃうから」


 その言葉の力弱さは逆に過去のリアルを感じさせた。まつ毛が伏せられてどよんとした空気が短いあいだルクレツィアを包んだ。ニキアスには踏み込むことのできない事情だった。彼は栄養バランスにこそ注意は払うが、量については気を遣わないタイプの人間なのだ。そして体型が崩れた経験がない。

 ニキアスにとって微妙に居心地の悪い時間が流れた。お土産は食べ物なら外さないというニキアスの考えは、実は確実ではないということを彼はその時間で学んだ。

 不意に訪れた沈む時間は終わったのか、顔を上げるとルクレツィアは何事もなかったかのように話し始めた。


「とはいえうれしいのは本当だし捨てるのはもったいないから、ジョゼフへのお土産ってことにしたらいいと思うんだけど、どう?」


「ルクレツィアがそれでいいならいいけど」


「じゃあそうしましょう。手元に置いておくと誘惑に負けちゃうし」


 彼女は紙袋をひとつ離れたテーブルに置いて、その戻る途中で階段そばの見張りに目くばせをした。万に一つもあれが失われることなどないだろうが、それでも彼女は指示を出したのだ。それはこのギルドの決めごとなのかもしれない。そうでなければルクレツィアがおそろしく慎重な人物ということだ。

 二階から見る街の景色は、どこか自然のものを思わせた。川や海や、そういった絶え間なく動く何かだ。たしかに人間も生命で、その意味では自然だった。


 しばらくはとりとめのない話が二人のあいだで交わされた。ギルドという文化のこと、空模様のこと、今朝の朝食のこと、好きな食べ物のこと。ニキアスの好物がレンコンだと聞いてルクレツィアは意外だとは言ったが笑いはしなかった。食感がいいのよね、と同意さえした。

 そうこうしていると待ち人がやってきた。彼女の口から直接聞いているわけではないが、おそらく今日もジョゼフは仕事をしていたのだろう。きっと気持ちが逸ってじっとしていられないのだ。


「ニキアスさん!」


 そう叫んでうれしそうにジョゼフはニキアスのもとへ駆け寄って来た。大きく目を輝かせて、油断をしたら自分のことを大人物と勘違いしてしまいそうだとニキアスが気を引き締めたくらいだった。ニキアスは椅子から立って走ってきたジョゼフを抱きとめた。八歳の肉体の弾丸の威力はバカにできたものではなく、しっかり踏ん張らないと体勢を崩してしまいそうだった。

 すぐに体を離して向けられた笑顔には屈託というものがなく、まっすぐな、ありったけの友愛が込められていた。この街に来てから初めて出会う種類のものだ。これを眩しいというほどニキアスはくたびれてはいないが、自分にもできると言えるほど幼くもない。人の表情にも限られた時期にしかできない特別なものがあるのだ。


「今日も荷運び? 俺より先に報告しておいで」


「ルクレツィアさん、お仕事おわりました!」


 ルクレツィアがジョゼフの頭をひと撫でするとジョゼフはくすぐったそうにきゃっきゃと笑った。そのあとは昨日と同じように別の部屋に賃金を受け取りに行く。小さな背中を二人は見送った。外ではあっても危険のある場所ではないし、さらには血縁なんてものもまるでないのに、彼らは知らず知らずのうちに保護者の気分を味わっていた。それは自覚のないものだったから、楽しいとかドキドキするとか、感想を抱くようなものではなかった。ただ歩いていく背中を見守るときの感情というものがあるのだ。名前がついていないだけで。

 ニキアスは出してもらった紅茶に口をつけた。モリエール商会で出すものなのだから高級品だろうと予想はつくのだが、それを理解するだけの舌も鼻も知識も持ち合わせてはいなかった。飲んだあとの爽やかに透き通る感じが心地よいが、それが売りであるのかもわからない。知ったかぶりをしても仕方がないなと途中で思い直して、素直に感想を述べることにした。


「これおいしいね。スッとするのが好きだな」


「気に入ってくれてうれしいわ。遠方の茶葉なのよ」


「詳しくないけどさ、いろいろ試したくなるよね」


 カップを揺らすと明るく赤く色づいた透明な液体が揺れた。ニキアスの言葉の表現の中にはない優雅な香りが彼の鼻をくすぐった。それだけで自身が手に入れようとしたこともない品性を身につけたような気さえした。もちろんそんなものははっきりと勘違いだ。彼の所作は磨かれた経験のないものだ。ほとんどの人がそこで足を止めるような、食器の使い方がわかる程度のところにとどまっている。

 ルクレツィアは与えるのが楽しくて仕方がない、といった感じでニキアスの反応を眺めていた。素直に自分の思ったことを言うからかわいらしく見えるのだろう。その意味ではニキアスとジョゼフは同じ立ち位置にあった。本人たちが気付いていないという点でも同じである。


 ジョゼフが怖い顔の人がいるという部屋から走って戻ってきた。うきうきしているような楽しそうな表情で、その未来には明るいもの以外は立ち入ることができない。その行き先に自分がいることがニキアスには疑問だった。そんな存在かと問われても返事は難しい。とくにジョゼフのためというわけではないが、それに恥じることのない人間であると自分で認めていたい。そうまで思わせるのだから純粋さとは恐ろしいものである。

 ルクレツィアに手を振って店を出る。自然に目に入った空には、青空の領域と雲の領域があった。それ自体はおかしなことではないが、境目がまっすぐの直線であることが奇妙だった。二人が立っているのは境目近くだったが、どちらかといえば青空の領域にいるらしかった。雨が降っても風がなければ濡れないだろう。


「雲ってあんなふうになるんですね」


「俺もはじめて見た。なんか目の感じが狂う」


 平べったい雲がまっすぐ延々と続いているのと、ただそこにあってつかみどころのない青空を並べて眺めていると遠近感に違和感が生じた。視線を下ろして街並みを眺めてみても、普段より立体感を奪われているような気がした。そこに面白さを見出せそうでもあったが、同時に気分の悪さもあって、今に即してはいなかった。

 ぼうっとジョゼフがその奇妙な空を眺めているのに気付いて、ニキアスは少年の意識を手元に引き寄せた。人の混雑する路上だ、ぶつかっては危ない。


「失礼しました。父様と母様を紹介します。さあ帰りましょう」


 ニキアスはまた少年にアンバランスな印象を抱いた。自身の年代も含め、子どもはそういう部分を必ずどこかに抱えているものだと師匠に教わってはいた。しかしこんなにも釣り合いが取れていないと不安になってしまう。天秤なら傾き過ぎてしまえば意味をなさなくなってしまう。それにそういう不安定さは揺れていてこそ“らしさ”を発揮するのではないだろうか。

 その意味で言えばジョゼフはもっと転んでもいいのではないか、とニキアスはなんとなく考えた。もちろんケガをしてほしいわけでもつらい思いをしてほしいわけでもない。物理的にもある目標への達成という意味においても転んだ経験に事欠かない彼は、どうしてもそう思ってしまう。失敗が活きた経験も枚挙にいとまがないからだ。しかしそんなことをいま言ったところで仕方がない。ジョゼフは何にも困っていないし、ニキアスはそんな口を差し挟める立場にない。出会って翌日に説教などというのは彼自身が嫌いな種類の人間だ。


「お父さんとお母さんはどんなひと?」


「父様は無口です。母様はすごくやさしくて、はっきりしてるひとです」


 実に端的だった。まだ直接顔を合わせてもいないのに、ぼんやりとだがジョゼフの両親のやり取りが目に浮かんだ。知見としては不確かでちょっと気後れもするが、しあわせのひとつのかたちがそこにはあるのだろうとニキアスは思った。

 ジョゼフの一家は一番街に住んでいるらしく、そこはニキアスには未知の地域だった。住宅が多いのは彼の住む二番街と変わりないが、どこか雰囲気が違う。具体的な説明の難しい、住人たちの作り上げる香気のようなもの。それが違うからどうということはない。ただ違っているというだけで意味らしい意味はない。


 それなりの距離を歩く。途中途中ではじめて歩く街についてニキアスが質問をするから話題は途切れなかった。ジョゼフは自分の住んでいる地域にもきちんと理解があるようで、多くの質問に答えてみせた。わからないものについては正直にわからないと言うことができた。そこで謝ったりしないことにニキアスは好感を持った。知らないことはまだ悪いことではないのだから。

 ちょうど反物屋のそばを通り過ぎたタイミングで、ジョゼフがニキアスの前に飛び出した。すこし慌てた様子で、昨日今日の印象だと似合わない仕草だ。


「ニキアスさん、ひとつ聞いてもらってもいいですか!?」


「どうしたの、急に」


「そう、ぼく、兄になるんです!」


 弾けるように破顔して、大きな声で大事なことを報告した。ルクレツィアから先に聞いてしまっていたことを忘れてしまうほど、その笑顔は眩しかった。きっと言葉がわからなくても素敵なことがあったのだと理解できたはずだ。それは動作だけ見れば報告でしかなかったが、今にも踊りだしそうな躍動感がそこにはあった。手を取っていっしょに踊ることが何よりも優先されるべきことだった。


「兄……、弟か妹ができるの?」


「はい! どっちかはわかりませんけど、おまじないでは妹かもって聞きました」


「そっか、よかったね。新しい家族だ」


 この言葉はニキアスの本心から出たものだった。ルクレツィアの心配なんて余計なもので、大げさに驚く必要などなかった。単純な祝福こそが求められているものだった。他にたとえる意味もない、ただそれだけの幸せ。彼らの頭上が雲の支配する領域ではなく、青空が広がっている領域であるのは当然だった。

 ニキアスの紙袋を抱えていない手を取ってぶんぶん振りながら飛び跳ねる姿は、やっとジョゼフを年齢相応に見せた。ニキアスは手がちょっと痛くなったが、それでも止めることなくジョゼフに任せるままにしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る