22 家

 ジョゼフの家は似た建物が立ち並んだなかの、周りと比べて特筆するところのない普通の家だった。二階建ての、横幅よりは奥行きのように重点を置いた家屋。となりの家との距離が詰まっているせいで、採光性があまり高いとは言えない。その部分が考慮されているのだろう、玄関と同じ面の二階にはベランダが設置されており、近くのどの家もそこに洗濯物を干していた。

 見た目だけだとニキアスはそれぞれの家の判断がつかなかった。よく見れば意匠に違いがあるのだが、初めてその家の並びを見る彼にそこを期待するのは難しい。彼にとって現時点で優秀な手段といえば、ジョゼフの後をついていくことを例外として、曲がり角から扉の数をかぞえることだった。

 ジョゼフが並んだ扉のひとつに駆け寄り、それを開けた。彼が元気よくただいまと告げたあたりでニキアスがジョゼフの背中に追いつき、そして背中の剣を下ろした。太陽はいまは青空の側にあって、外は明るかった。


「ただいま帰りました! ニキアスさんを連れてきました!」


 口ぶりからするとすでにニキアスについて話を済ませているらしい。なんだか気恥ずかしいようにも思うが、話をされてしまっていることは取り消せない。せめて変な美化はされていないことをニキアスは願った。

 ぬっと奥から筋肉質の男が現れた。おそらく父親だと推測されるが、ジョゼフとはあまり似ていない。髪と髭が揃えられたように同じくらいの長さになっており、そのあいだはもちろんモミアゲがつないでいた。額が高く目が窪んでおり、一般に彫りが深いと呼ばれる顔立ちをしている。

 彼はジョゼフを認めると寄って膝を折り、大事そうに抱きしめた。そしてゆっくり立ち上がり、迷いなく右手を差し出した。


「よろしく。ジョゼフの友達なんだ」


「この子の父親だ、ヤコブという」


 差し出された手を握ってあいさつをする。返ってきたのは見た目と無口という事前情報のイメージに違わぬ声だった。低く落ち着く声だ。ニキアスは彼の名前を聞いて自分が名乗っていないことに気が付いた。すぐに名前を告げると彼は手でニキアスを落ち着かせてひとつ頷いた。わかっているという仕草だった。

 ヤコブに案内されて居間へと通された。直に日光が差し込む家屋ではなかったからその種類の明るさはなかったが、そのぶん落ち着く感じがあった。


「ヤコブさん、これお土産なんだ。お祝いと思って。初めましてだけど」


 とつぜん手渡された紙袋にヤコブは戸惑ったが、結局は何も言わずに受け取った。いくつか事情を勘案したのかもしれないし、断るうまい言い回しを思いつけなかったのかもしれない。どちらにしろ悪意のなさそうな少年の顔と、その横についている我が子の信頼した顔が影響したのは間違いないところだった。

 ヤコブが渡された紙袋をテーブルに置いたのを確認してニキアスはこっそり安堵のため息をついた。それと同じタイミングでジョゼフが閉まっている扉のひとつに向かっていった。


「母様、お客様です。昨日お話したニキアスさんですよ」


「こっちへおいで、ニキアスさんもいっしょに」


 扉の向こうから声がした。体に不調を抱えているような声ではなかった。たとえばそれは、台所から手伝ってと呼びかけるような気安さと日常性を備えていた。だからジョゼフもニキアスも気後れすることなくジョゼフの母の部屋へ入ることができた。

 ちょうどいい時間だったのか、窓から斜めに細い日光が差し込んでいて、暖かな空気がそこには満ちていた。ベッドに足を投げ出して座っていると負担がかかるのか、身重の彼女はベッドの縁に腰かけるようにして座っていた。


「いらっしゃい。昨日はジョゼフがお世話になったみたいで、ありがとう」


「偶然なんだ、たまたま見かけて大変そうだったから」


「お礼は言わせて。助けてもらったことと偶然だったことに関係はないから」


 しっかりした、強い瞳だった。ともすれば頑固ととられかねないまでの意志が感じ取れる。八歳の子がはっきりした人だと評する理由がすぐに理解できた。もちろんのこと、実際に頑固だとかそういうこととは話が別だが、押しは強いかもしれない。

 お礼を言われて困る立場でもないニキアスは、素直にそれを受け取った。


「うん。じゃあ、どういたしまして。でもあまり気にしないで、やりにくいから」


 ニキアスがそう言うとジョゼフの母はくしゃっと笑った。すこし懐かしそうな感じのする表情だった。彼女のなかで、なんとなく似た人物でも思い当たったのかもしれない。そしてもしそうなら、そういう種類の人間に悪い印象は抱いていないらしい。

 二人の会話を黙って聞いていたジョゼフに暖かい目をやって、そうしてから彼女はニキアスに手を伸ばした。


「ラケルよ。歓迎するわ」


「よろしく、ラケルさん。それとおめでとう、元気な子が生まれるといいね」


「ふふ、ありがとう」


 握手をしながらラケルはにっこり笑った。さっきとは違う笑みだった。

 用事を、それはジョゼフの両親にあいさつをすることだ、済ませたニキアスはもうこの場を辞するつもりでいた。妊婦のいるところでもあるし、それでなくとも八歳の子のいる一家団欒にあまり居座るものではないと考えたのだ。彼は自分のことをそれなりに図々しい人間だと思っているが、ここに残ることとそれはちょっと意味が違うもののように思われた。言葉の上では同じかもしれないが、ニュアンスの問題で。


「じゃあ俺はこの辺で」


 帰るつもりでラケルに一礼をしてその部屋を出ると、ヤコブに腕をつかまれた。しっかり力が伝わってくるが敵意のない手だった。ニキアスが振り返るとヤコブは静かに首を横に振った。まだ帰るなということのようだ。腹の具合を確認すると、昼食の時間がすぐそこに迫っているようだった。

 諦めてというのも正確な言葉ではないが、親子二人のついたテーブルにニキアスもつくことにした。ジョゼフが話すのにニキアスが相槌を打ち、ヤコブが頷いた。ただそんな単純な時間がニキアスには妙に沁みた。

 すこし話していると休んでいたばずのラケルが寝室から出てきてエプロンを首からかけた。本当に出産が近いのだろう、お腹がぷっくりと膨れ上がっている。あそこにもうひとつ新しい命が宿っている。それが事実なのだが、ニキアスはそれを現実的に信じようと思っても水や煙をつかもうとするような気になるのだった。よくわからないから不思議の一言で片づけてしまいたくなる種類の事柄だった。

 ニキアスのそんな個人的な事情は別にして、ラケルはその特別なものが宿ったお腹のことを感じさせない動きで台所へと向かう。時間のことを考えれば昼食を準備するものと考えられるが、それが負担になりはしないかとニキアスは声をかけた。


「ラケルさん、簡単なものしか作れないけど俺が代わるよ」


「大丈夫よ、たしかにちょっと感覚は違うけど、体調不良とかじゃないから。それに二回目だもの」


 すくなくとも胎児があの中に入っているのだと考えると、そのぶんの重量がそこにあるはずだ。ニキアスは赤ちゃんの重さについては知らなかったが、軽いものだとは思えない。それがお腹の前にだけくっついているとなるとなかなかつらそうだ。しかしラケルはそんなそぶりはちらともうかがわせなかった。とてもつらいと思っているようには見えない。もしも本当はそう思っているのなら大役者だ。ニキアスは彼女を信じることにした。

 台所のほうから視線を戻すとジョゼフがにこにことうれしそうにしていて、ひとつ頷いた。


「本当に大丈夫なんです。母様はつらいときにはちゃんと言いますし、そんなときには父様がお料理してくれるんです」


「ヤコブさん料理できるの!?」


 失礼な驚き方をしてヤコブのほうを見ると、彼はなんでもないといったふうに首を縦に振った。たしかにぱっと見で料理ができそうかどうかと問われたら否定の意見が多そうだが、それはニキアスも同じようなものだ。見た目で勝手に判断することがよくないのは道義的にもそうだし、もっと他の分野においてもそうだ。剣の師匠にさんざん叩き込まれたことを思い出す。

 手早く調理器具を準備しているラケルがくすくすと笑っていた。その意味はわからずにジョゼフもより笑顔を強めた。笑いのタネになっている本人はどこ吹く風といった様子で手元のカップを口に運んだ。


 ラケルが料理を始めてすこし経つと、いつまでも話題が続くわけもない男三人組は手持ち無沙汰になった。無口で通るヤコブはいいかもしれないが、とくにジョゼフは退屈になってしまった。とはいえ昼食も目前となっている状況で本格的に遊び始めるわけにもいかず、ジョゼフとニキアスは簡単な手遊びをすることにした。

 ニキアスが提案した遊びのルールをジョゼフは知らなかったため、さっと説明が入る。お互いに向けて両手の人差し指の先を向けるのが基本姿勢のゲームだ。最終的な目的は相手の両手を脱落させることだ。脱落の条件は指が五本すべてが立つこと。相手の指を立たせるに自分の指で攻撃することが必要だが、一本指で攻撃をすると相手の指が一本立つ。すると相手は二本指で攻撃することになり、うまく攻撃先を分けないと簡単に負けてしまうのがこの遊びのキモだった。ルールの応用としては自分の指への攻撃や分裂が許可されたり、五本ではなく六本めの指が立つ攻撃を受けたら脱落などの幅がある。ニキアスが小さいころにかなり熱中した遊びだった。

 はじめは勝手のわからないジョゼフが負けた。言葉でルールを理解しても実践しなければ感覚はつかめないもので、これが単純なものでも変わらないのだから面白い。情景としては穏やかな一家庭の一幕だったが、ジョゼフが負けたあとですぐに負けた理由を検討しているのを見てニキアスの背中に冷たいものが走った。ただの負けず嫌いなのか、それともどうしようもなく真面目なのかの判別がつかない。そのどちらも可能性があったからだ。いまから心配しても詮無いことだが、しかしそれは度が過ぎれば危険な性質だった。何事もそうだと言われれば返す言葉はないが。


「もう一回やりましょう!」


 楽しそうなジョゼフの声に押されてニキアスは快く応じた。今度は先ほどと違って少年は一手一手で立ち止まって考えを巡らせていた。こうなってしまえばニキアスはわざと負けてあげるわけにはいかなくなった。この子は聡いからそういうものを敏感に察知するだろうし、それを悲しむだろう。ニキアスも特別にこの遊びが得意というわけではないが、すくなくとも勝つための方策を講じることにした。

 二戦目もニキアスが勝って、三戦目になると手番ごとにかける時間がより長くなった。ジョゼフが選択する行動に明確な意図が見えるようになった。一回交代という限られた選択肢の中で採れる行動をどちらもが考え抜いていた。脇でそのほほえましい戦いを眺めるヤコブの目はどこかぼんやりしていた。そんなことをしているうちに台所から声が飛んできた。


「はい、できたからお皿そっちに運んで」


 三戦目の決着がつくまえに外からストップがかかってしまった。言われた通りに料理を運ばなければならないし、その前にテーブルを拭かなければならない。退屈しのぎのつもりが熱中しすぎてしまったようだった。


 食卓に並んだのはバゲットと素朴な感じのするじゃがいものスープ、そして干し肉が添えられたサラダだった。湯気と香りがニキアスの素直な食欲を引き出す。作ってくれたラケルにお礼をしてそれぞれが食事にとりかかった。

 干し肉の塩気がちょうどよく、それが他のすべてに手を伸ばさせた。野菜もパンもじゃがいもも、どの食材もその持ち味を主張することができた。砂糖を使ったお菓子を甘いと形容するのは当然だが、食材をよく味わった先にある甘味というものがあることを思い出させてくれる食事だった。


「このスープ、すごく好きだな。ほっとする」


「あら、食べたことなかった? どの家でもよく作ると思うけど」


「最近この街に来たばっかりなんだ。だから地域の料理とか全然わかんなくて」


 それを聞くとラケルとヤコブは意外そうな顔をした。どの年齢でも関係なく旅には危険がつきまとうものだと彼らは理解していたからだ。雨も風も野生生物も、すべての自然が敵に回って文句の言えないこの世界で、旅などと軽々に言えないのが世間の一般的な理解だった。二人はいちど夫婦で目を合わせて、そうしてから驚きの目でニキアスをじっと見た。本人はそれと知らずに食事を楽しんでいた。

 不意にニキアスが顔を上げてちょっと恥ずかしそうに尋ねた。


「ラケルさん、このスープのレシピって教えてもらっていい?」


「え、あ、ええ。簡単よ、材料も少ないし。あとで紙に書くわね」


 そう返事をされるとニキアスはうれしそうに笑った。そんなに口に合ったのだろうか。十代半ばの少年レシピを聞きたいとまで言うのだからそうなのだろうが、数えきれないほど食べてきたラケルからすると何かしら奇妙に感じるものがあった。違った文化圏というのは本当に根本から違うのだ。もしかしたら世界の果てには寝る前に水に顔をつけて息を我慢する民族がいるかもしれない。ラケルはくだらないことを考えて、それをすぐに捨て去った。

 食事を終えると体が温まって額にわずかに汗が浮いた。心地よい幸福感に包まれて四人ともが背もたれに身を預けた。穏やかで、時間が止まっていても誰も文句さえつけなかっただろう。春の真ん中のお昼時に安らいでいるのと勝負になるほど幸せな時間もなかなかないだろう。ささやかな眠気が、時よ止まれ、と叫んでいるような気がした。


「ねえラケルさん、いつ生まれるっていうのはわかるの?」


「何日後とまではっきりは言えないけど、だいたい二週間くらいよ」


「本当にすぐなんだ、頑張って」


「ありがとう」


 それぞれがすこしずつ意味の違う笑みを浮かべた。けれどもそれらはすべて幸せに属する種類のもので、光る球体の内側にいるような完璧さを補強していた。すべてを前向きに捉えることができたし、すべてに対して寛容になれた。出産というゴールが決まっていることがいっそ残念に思えるほどだった。

 ヤコブがまたカップを口に寄せた。


 何もしないのはいくらなんでも気が咎めるということで、ニキアスは台所に立って洗い物をしていた。隣にはヤコブがいて洗い終わった皿を拭いたり、それを決まった場所にしまったりしていた。そのあいだ、ラケルはジョゼフと内緒話をするような近さで話をしていた。くすくす笑ったり、小さく驚いたり、いろんな話をしているようだった。ああ、親子だ、とニキアスは思った。

 もともとジョゼフの両親に顔合わせをするだけのつもりだったニキアスは、皿洗いを終えると帰る旨を告げた。ジョゼフはとくに残念がったが、昼食までいただいてしまったうえにさらに居座れば、もっとずるずるいってしまうような気がした。それは楽しいかもしれないが、決して良いことではないように思われた。それに今日が終わったからといって会えなくなるわけではないのだ。この家を訪ねてもいいし、ルクレツィアのところに行ってもいいのだから。それよりも妊婦であるラケルの体を大事にしたほうがいいというのがニキアスの判断だった。


「じゃあ、お世話になりました。ジョゼフ、またね」


「気にしないで。ジョゼフもヤコブも楽しかったみたいだから。私もね」


「また来てください! もっとお話しましょう!」


 彼女の言うようにヤコブが楽しんでいたかはわからなかったが、しかしなんとなく拒絶されていないことだけはわかった。それは前向きに捉えてよいことで、大げさに言えばやっと街に受け入れられたような気分になった。これまで疎外感があったわけではないが、この街の一員なのだと思うためには何かきっかけが必要で、ニキアスにとってはこの一家との出会いがそれだった。

 扉を開けて外へ出ると、一家が見送りをしてくれた。ニキアスが手を振るとそれに応えてくれた。ニキアスは前を向いて歩き始めたが、後ろではまだ三人が見守ってくれているような気がした。


 家に近づいてきたあたりでニキアスには心配事が生まれていた。家に入れないかもしれない。家の鍵はまだひとつしかなくて、そしてそれを持っているのはバオだったと思い出したのだ。彼女の性格を考えると、家でのんびりしているよりは外で面白いものを探している可能性のほうが高いだろう。しかしそれでも一度は帰ってみようとニキアスは考えた。できれば腰を落ち着けたかったのだが、家に入れなかったとしても構わなかった。家に帰るという過程を経ることで先ほどの気持ちを心に沈着させられるような気がしていた。そしてそれとは別にバオに合鍵の話をしようと考えた。

 いざ扉に手をかけると、ドアノブは意外なほどあっさり回った。水が入っていると思って持ち上げたやかんが空だったときのように、勢いがつきすぎてバランスを崩してしまった。一瞬何があったのかがわからなかったが、どうやらバオが家にいるということらしい。珍しいこともあるもんだなとニキアスは扉をくぐった。


「おーい、バオ、帰ったよ」


「ああ、ニキアス。おかえり」


 いつものやかましいほどの活気が鳴りを潜めていた。上体をテーブルの上に覆いかぶせるようにして、その先端で頬杖をついていた。頬の薄い肉がもっと平べったく潰されている。儚い、なんて言葉がバオの形容として使われることがあるとはニキアスは思ってもみなかった。どこか目もとろんとして、疲れているような印象を受ける。


「どうしたの、バオ。風邪でも引いた?」


「ううん、大丈夫さ。長らく健康なんだぞ、これでも」


「それならいいけど……。お湯沸かすけど飲む?」


「ありがとう。あ、そうだ、きみが昨日もらってきたお土産のなかに紅茶が入ってたんだ。それ淹れてくれるかい」


 ニキアスは穏やかな調子のバオに変に質問したりはせずにすぐそばの台所に向かった。そして屈んで薪に火をつける。野宿のときならその前に木を組んで準備をする必要があるが、炊事を行うための場所である台所ではすぐにやかんを火にかけることができる。大丈夫だろうという当て推量できれいに見える川の水を飲んで腹を壊したことを思い出す。準備は大事で、生水は飲んではいけない。たとえどれだけ面倒であってもだ。

 そのあいだもバオはぼうっとしていた。もちろん彼女とて四六時中しゃべっているわけではなく、静かにしている時間もある。というよりどんな人間であっても静かにしている時間のほうが実際は長いものだ。それは単に他人から見たときにどう印象に残るかという話でしかない。だからこそ普段と比べると静かさが際立つバオが異常なものとして目に映るのだ。

 湯が沸いた。調理器具が置いてあるところの手前に見慣れない缶が置いてあって、それが紅茶の缶だとニキアスにもすぐにわかった。紅茶であることを示す紙が貼ってある。洒落たレタリングの文字だった。茶葉を少量ティーポットに入れて、その上から湯を注ぐ。ニキアスは作法やよりおいしく淹れる技術についてはまったく知らなかったから、それはなんだか美味しい淹れ方には見えなかった。


「ん、落ち着くねえ」


「本当にどうしたの? 何かあったでしょ」


「……まあ、強いて言うなら場酔いみたいなものなのかな。別にそんなに機嫌がよくないときにさ、お祭りに出会うとするだろう。そうしたらなんでか知らないけど自分も楽しくなっちゃう、みたいな。機嫌悪かったはずなのにね」


「そんな沈むような場にいたの?」


 紅茶は木のコップに注がれているせいで風情はないし、それに風味も影響を受けてしまっていた。家主やルクレツィアのところで出してもらったものとは比較するのも難しい。ニキアスはそれが残念で眉を動かした。

 バオはニキアスの問いに対して言葉を選んでいるようだった。ガンガンしゃべる印象のある彼女だが、こうして言葉を探すことは珍しくない。そのために時間をかけることに対して当然のことと思っているらしく、こうなると人をいくら待たせても気にもならないようだった。早い返事が欲しいわけでもないニキアスは、自分で淹れた紅茶を飲みながら待っていた。どうせ時間もある。極端な話、寝るまで待っても困りはしないのだ。途中でうんざりはするだろうが。


「ウソをつかずに言うと、何もないところにいたんだよ。何にもならないって言ったほうが正確かもしれない。虚無。行き止まり。ある意味でのゴール。どう表現するのがいいのかは私にはちょっとわからないけど」


「すごい、何もわからない」


「でも本当にあるんだよ、そういう場所が」


 もどかしそうにバオは言葉を重ねた。対象は明らかでないが、何かに対しての気遣いがかすかに感じ取れる。どの意味合いかは置いておいて、そこには難しいものがあるらしい。バオは言葉を続けた。言い訳と取られることを恐れていないようだった。


「そういう場所にいるとこうなる。私はね。とはいえ初めての体験なんだ、あまりに特殊な場合だから。もしかしたら世界でたった一例かもしれない」


「なんだか大変そうだけど。そこ行くのやめたら?」


「疲れてはいないんだよ、これは本当。どう言えばいいかな、枕ってぎゅっと押すと形が変わるだろう? それでゆっくり元の形に戻る。そんな感じなんだ。すこし長めに時間をかけてもとに戻るっていう感覚がある。心がね。そういう独特な変形のさせ方を喰らっただけ。あまり問題なさそうに聞こえないと思うけど」


 わかるような気もしたし、それが的外れかもしれないなと思う自分もいた。だからと言うべきかしかしと言うべきか、ニキアスにできることは大丈夫だというバオの言葉を信じることだけだった。

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