23 花と雨

 二週間が経過した。ニキアスはそのあいだ、トレーニングをして、そのあとで街の散策に励んだ。二番街がほとんどで、たまに中心街にも顔を出した。これまでの知り合いとは一度も会わなかったが、新しい顔見知りは何人か増えた。順調にナウサの街を自分の居場所とするための積み重ねが進んでいた。その一方でバオは毎日イザベルからの依頼をこなした。心配されていた彼女の様子は日を重ねるごとに悪化していくなどということはなく、むしろあの落ち着いていた日が底であったらしかった。なにか明確な変化がない限り、しばらくは話を聞くという作業が続くように思われた。

 朝、目を覚ますと窓の外では灰色の空からしとしとと細長い雨が垂れていた。派手さのない、面白みに欠ける雨だった。どうせなら雨音で寝ていられないほど降っているのなら楽しみようも探せそうなものだが、いま降っているのは窓を閉じていては音を探せない強さだった。いつ止んでも不思議ではない。


「おはよう」


 そう言いながらダイニングのある部屋の扉を開けると、バオがげっそりした顔で椅子に座っていた。なかなか、というかニキアスは初めて見る顔だ。あまりに露骨で、からかっているのか疑いたくなってしまう。仮につらい精神状態だったのだとしてももうすこし隠す努力をするのが自然だろう。彼女はその逆で、むしろ強調しているかのように見える。

 バオの座っている前には食器が置いてあり、食事は終えていることがわかった。まだ片づけをしていないタイミングということらしい。漂う香りは先日ラケルから教わったじゃがいものスープのものだ。これはニキアスが家に帰ってからさっそく作ってバオもレシピを学んだことによる。


「どうしたの、部屋にムカデでも出たの?」


「そいつもあまり好きじゃないけど、それだけじゃここまでにはならないよ」


 わざとかすれさせた声でバオは返事をした。その程度の余裕はあるようで、ニキアスは安心した。もしも彼女が本気でまいってしまうようなことがあれば困ってしまうのはニキアスのほうだ。何をしたらいいのかわからない。

 バオのおおよその状態をつかんだニキアスはそのまま話を続けることにした。


「じゃあ何があったのさ、まともには見えないけど」


「日課だよ日課。杖の鍛錬してきたんだ、雨の中」


「うん」


 ニキアスは当たり前のことだと言うようにうなずいた。そうして話の続きを待つ。バオは彼の相槌のあとに言葉がつながるものだと思っているのか、これまたニキアスのほうを見ながら静かにしている。やがて彼のそれが接ぎ穂の相槌だと気付いて、焦ったように口を開いた。


「いやいや、ねえ、雨だよ。濡れネズミになりながら鍛錬するのイヤだろう」


「イヤだけど鍛錬なら仕方なくない? それよりサボったら余計まずいし」


「きみ本当にどんな人に剣教わってきたの」


 呆れたようにバオはつぶやいた。バオは自分の人間らしい雨を嫌う理由は当たり前のものだと確信していたし、その一方でニキアスの優先順位の考え方も否定できるものではないと理解していた。彼女も杖を使った戦闘術を身につけてはいるのだ。ふたりのあいだに横たわっていたのはそれほど大きなものではない。お互いの日常の身の置き所に違いがあるだけの話だ。


「ヤバい人ではあったかな。悔しい思い出のほうが多いよ」


「師匠なんだろ? ずいぶんな物言いじゃないか」


「いいのいいの。バオに嘘ついてもしょうがないし、かばう必要もないし」


 返ってきた意外な答えにバオは興味を持ったようだった。そこにあるのは顔も知らぬニキアスの師匠への敬意ではなく、その情報から面白い話が聞けそうだという野次馬根性だった。バオのその態度は完全な無神経から来るものではなく、師匠や先生やそういった立場にある人物に対しては誰でもうんざりしたものを抱えているものだ、という理解が背後にあった。彼女にも思い当たるフシがあるのだ。だからニキアスも不満に思うことはない。むしろ乗り気になっていた。

 ニキアスが下りてくることを見越してか、まだ台所の薪には火が残っていた。息を入れて火の勢いを強め、スープの入った鍋を温め直す。そのあいだに棚から食べるぶんのバゲットを出して皿に載せた。日持ちのするものが入った棚からチーズと漬物を出す。適当なところで鍋を外してスープを皿に注いだ。


「厳しい人じゃなかったんだ、あれしろこれしろって言わなかったよ。言われたのはたったひとつだけ。基本だけは絶対に忘れるな。これだけ」


「非常に興味深い」


「他になんにも言わないから、ああこれはすごい大事なんだ、って思ってそれだけは徹底的に鍛えた。それこそ雨が降っても風邪を引いても」


「私だったらそれは褒めないけど」


 ぼそっとバオがこぼした。雨の中で鍛錬を積むのはまだしも、体調を崩したままで続けるのはよろしくない。治りが遅くなるうえに効率も悪いと思われる。とはいえ、とバオは踏みとどまった。それは彼の師匠の指示によるものではないだろう。きっとニキアスが自分の判断でそうしたのだとバオは思い直す。

 そう言われたニキアスはちっとも堪えていないようだった。おそらく鍛錬を積んでいたころからさんざん言われてきたのに違いない。それはそうだ、バオですらあまりよくないと言うくらいなのだから多くの人が諫めたはずだ。それらをすべて無視して剣を振り続けた彼は大したものだが、褒めるべきかというと難しいところだった。


「ま、過ぎたことだから。でもほら、いつも晴れた日に万全の状態で戦えるわけじゃないでしょ。そういう意味もあるんだ」


「えらく実戦派だねえ」


「すくなくとも俺はそういうふうに受け取ったから。役には立ってるし」


 苦笑いをしながらニキアスは肯定した。

 それからニキアスは食事を始めて、バオはそれを目の前にしながら自分の世界に閉じこもった。考えるというよりも思いに耽ると言ったほうが表現が近かった。意外とよくあることだった。二週間を過ごすことで、これまで知らなかったお互いの日常が見えるようになったのだった。たしかに山狩り以降、野宿も含めてずっといっしょに過ごしているが、やはり屋根のある家に住むのとでは差があるらしい。素顔というか日常が見えるのは後者だった。


 バオは憂鬱そうにため息をついた。すでにニキアスは出かけてしまっている。まだ雨は降っていて、そのせいか室内は特別に暗い印象が残る。どうにもこの空模様はいけない。何をするにも億劫になってしまう。外に出られもするけれど、丁寧に掃除をする時間もあるけれど、それでも何もしたくない。しかしそろそろ時間だった。

 彼女は家でする準備はあまりない。着替えて、杖を携えて、それで終わりだ。傘をゆっくり広げて、彼女は家をあとにした。花屋に寄って、それからあのアパートだ。

 足元は水たまりもできていない。存在感のない雨で、特別ゆっくり降っているようだった。ほとんど音もしないものだから、降っていないのかもしれないと思って傘を外してみると、しっかりと雨滴が額や鼻に感じられた。


「これで体調を崩すのもばからしいよなあ」


 そう独り言をつぶやくと、バオは傘を肩にかけた。

 アパートは一段と空気が沈んでいた気がした。まるでまっさらな布団の上に鉄球を落としたようにそこだけ歪んで、色調がひとつ落ちた感じだった。弱いとはいえ雨が降っているのに、こびりついた砂はちっとも落ちていなかった。

 扉がいつものように軋んだ音を立てた。アパートの中は外よりも暗かった。陽光がないのだから当然だ。まだ昼だから灯りをつけることもない。そういった条件が重なって、時間帯では考えられないほど暗い。すこしカビの臭いが強いような気がした。もう慣れた音を立てる床と階段を踏みしめてアナトリアのいる部屋へと向かう。


 真正面の調度品の置いてある部屋の奥の窓に曇った空が見える。雨粒は見えないが降ってはいるのだろう。バオは調度品に目をやることはなくなっていた。左の部屋に彼女が待っている。いつも姿勢を正して座っているのだ。バオはそれを目にするたびに、ラクな姿勢でいればいいのにと思った。そこに誇りのようなものがあるのかもしれないが、バオの立場からすればより悲惨さを際立たせているだけなのだ。

 アパートに訪れる前に買った花束をぶらさげて、バオはアナトリアの寝室に入っていった。例に漏れず彼女は姿勢よく笑顔で迎えた。いつもこの瞬間がバオは好きになれなかった。笑顔を作ろうにもどんなものが適切なのかわからなかったし、だからといって他にどんな表情をすればいいのかもわからなかった。決まって下を向いて花束を持った手を振るのだった。するとアナトリアは、あらきれいね、と返す。ほとんど儀式のようなものだった。お互いにとってどんな意味合いを持っているかはそれぞれに聞いてみるしかない。


「今日は雨ね、ロクサーヌ」


 バオの顔が強張った。ここでアナトリアと話をするようになって、初めて二度目の名前が出てきたからだ。これまで使い捨てのように取り換えられてきた名前が、ついに蘇った。これが何を意味するのかはわからない。それどころかこの現象はバオの観測範囲で初めてだというだけであって、珍しいものではない可能性もある。とはいえそこに何も見ないほどバオは楽観的ではない。初めて会ったときにどんな話をしたのか、どんな口調だったのかを思い出す。


「そうですね。たまには必要なのでしょう、あまり好きではないですが」


「正直ね。私もですよ。夜にだけ降ればいいと思っています」


 そう言ってくすくす笑った。バオも同じ気持ちだった。降るなら出かける機会の少ない夜のほうが都合がいい。他にも利点を挙げることはできそうだったが、願望の枠を出ないのだからそれ以上は考えないことにした。

 ゆっくり歩いて定位置となった丸椅子に腰をおろす。二週間連続で見るこの位置からの眺めは、まだ一度もバオの気持ちを明るくさせたことはない。これまでの晴れた日々でもそうだったのだから、今日はなおさらだった。しかしそれを気にするような時期は過ぎ去って久しい。


「お体を冷やしてはいませんか」


「大丈夫よ、まったくというわけではないけど」


 腕をさすりながらのその言葉はわざとらしくも見えたが、かわいらしくも見えた。そして実際に少し冷えるのだろう。アナトリアの震えをバオは見逃してはいない。あえて仕草を入れることでごまかそうとしたのかもしれない。とくに深い考えもなく、バレたところでどうにもならないような弱みを隠すことなどよくあるものだ。


「……ねえロクサーヌ、あなたの趣味ってなんだったかしら」


 不意にアナトリアはこう聞いた。短い期間とはいえ毎日顔を合わせてきたバオには慣れたものだが、この質問ははじめてだった。そういえば聞かれていないな、というくらいのもの。知り合って時間の経っていない人同士が無言を避けるために、またはより仲良くなれそうだという期待を寄せて使う質問だ。感触としては後者に近いものがあるが、しかし前者後者ともに違う。アナトリアが話しかけているのは、彼女から見てそれなりに付き合いのある相手なのだ。

 バオはとくに遊ぶつもりもなかった。相手は何にも適していない。イザベルの言ったわずかな善意にしたがって、穏やかに過ごさせてやろうとしか思っていない。


「私のですか? 難しいですね、これを続けているというのは……」


「読書とか散歩とか、その程度のものでいいのよ」


「花を眺めることくらいでしょうか」


 そう言って右手の花束を持ち上げた。がさっと音がして花が揺れた。わずかに香りが漂ったがその範囲は狭く、ベッドにまでは届かなかった。


「花?」


「ええ、ただ眺めるだけです。野に咲く花でもいい。こんなふうに手に持っていてもいい。すこし珍しいですが、木に咲いている花でもいい」


「落ち着いているというか、意外ですね、お若いのに」


 彼女の言葉の正確なところはつかめないが、そこには否定的な響きはなかった。だから、あったのは純粋な控えめな驚きだった。バオは静かに表情を動かさずにいると冷ややかささえ感じられる見目だったから、あまり姿からの連想ではそんな趣味には行きつかないのだ。それこそ手に花束を持って歩いていてもそう思ってもらえない。

 バオの反応はさびしいものだった。言われ続けて摩耗してしまったかのように、穏やかに笑ってさえみせた。


「花屋ですから。花が好きでないとやってられませんよ」


「でも、そうなるとあなたの生活は花一色なのね」


「案外と悪くないものですよ」


 右手の花束にバオは目をやった。いつもそこにある白い花が呼吸もせず重力に従っている。まるで地面にやさしく呼び寄せられているようだ。あまりに見慣れているものだから、バオはそれに何も思えない。感想を抱くには新鮮さが必要だ。彼女にとって花というものはそれと距離を取り過ぎてしまっていた。

 アナトリアがバオの言葉で興味を持ったのか、彼女の手の先にある白い花に目を向けた。じっと見ていた。しかしそれは花の眺め方としては正しいものではない。花は仔細を点検するようにどこかに注視してはいけない。ぼんやりと全体像をなんとなく眺めてこそなのだ。そこではじめて色やかたちなどの評価される点が浮かび上がってくる。花をよく見てはいけない。それに耐えうるものなど本当に少ないのだ。


「私、花なんてこれまで眺めたことなかったの。いまが初めて。でもわからなかったわ。きっと最後までわからないのね」


「良いと思うかどうかが大事ですから、わからないならそのままでいいのです。下手にわかったふりをするよりずっといい」


 急に出てきた死を連想させる言葉にバオは触れさえしなかった。そんなことを考えるよりも先に返事が口をついて出ていた。

 バオはそこで自身がすこし混乱しているかもしれない、ということに気が付いた。何を焦っているのだろう。思考の方向を自分の意思ではない何かが勝手に決めている気がする。二週間前の記憶を会話をしながら掘り返しているからだろうか。それとも朝の雨中の鍛錬のせいで体調を崩してしまったからだろうか。急に頭に血が上ったような感覚が走る。脳の太い血管が脈を打っているのがわかる。怒りの感情なんてどこにも見当たらないのにだ。


「そうね。価値なんて自分で判断するものだって気付くのにずいぶん時間がかかりました。でも私にとってそれはすごく難しかったの、本当よ」


 笑って言ってはいたが、悲しみが紛れていることは明らかだった。彼女の人生に何があったかなど知らないし、そのことで何を失ったかなどもっとわからない。深く刻まれた年輪のように、誰の目にも意味をなさないかたちで、ただ落胆を示している。

それは冷たく言えばどこにでもあるものだ。しかしそれぞれ個々の出来事は違う。まったく同じ顔が存在しないように。


「意固地になってもいけない。流され過ぎてもいけない。そんなところにたどり着ける人間なんて一握りも一握りです。偉そうに語ってる私だってどうだか」


「あなたは、そうね、きっと大丈夫なのね」


 そこではじめてアナトリアは目を伏せた。タイミングでいえば遅すぎるような気がした。年齢を重ねるとついてくるはずの感情まで遅れてやってくるようになるのだろうか。敬意の足りない冗談だったし、冗談にしても笑えなかった。

 二人が黙り込むのは自然なことだった。話題を変えるにしても間を置かずにするのは無謀だった。たったいま行われた会話の名残をすこしでも払い落としておく必要があった。この無言の時間はそのためのものだ。

 アナトリアは集中しているのか、目を閉じてふうふうと呼吸をしていた。バオには痛みをこらえているように見えた。実際にそれに近い事態が起きているのかもしれない。不意にこびりついた印象と乱された平常心を切り離すのは簡単なことではない。頭が良く、感受性が豊かなほど難しい作業になる。おそろしく複雑な木の根に包まれたボールを取り出すようなものだ。そして木の根にはもちろん神経が通っている。


「ねえロクサーヌ、あなたは今日ここに来る前、何をしてたの?」


「いつも通りですよ、家でのんびりして、花と過ごして」


「私と大差はないのですね」


「誰もがそうです。変わりのない日常だけがすべてと言ってもいい」


「……それは、ロクサーヌ、悲しいことではありませんか」


 歪んだ殻のなかに響くような奇妙な声色だった。もちろん会話の相手としてのバオに向けられた言葉には違いないのだが、どうにも別の対象がいるように聞こえて仕方がない。あまり気分のいいものではなかった。

 バオは腰の位置をすこしずらした。長く同じところに座っていると疲れてしまう。その動作はほとんど無意識だった。彼女の頭は会話に集中している。アナトリアの問いかけに対してバオ個人の考えはあるが、それをどう伝えるか、あるいは伝えることなく進めるには、ということに割かれていた。


「言葉の意味が、よく……」


「すべてが変わりのない日常なら、世界に理想を体現する人がいないということになります。素晴らしい人でさえ私たちの日常を生きるなら、私が夢見たものは幻想でしかなくなってしまうのです」


「当然のことではないでしょうか。過去から現在まで名を残している人もそうでない人も、誰一人として例外なく生活からは離れることはできないのですから。生まれてからその生涯を閉じるまで、そのほとんどを人は日常として生きる。これは、動かせない」


 アナトリアは深いため息をついた。布団のすそを握っていたが、力が入らないのか握りしめているといったほどではない。そんなにぎゅっとつかんでいるわけではないのに、どこか、怒られて泣くのを我慢している子どものような印象を受ける。しかしバオの論理は冷徹だった。日常を生きるという穏やかな内容ではあるが、反論の余地を残さないという意味では苛烈だった。遊びがない。

 また静かな時間がやってきた。言葉を返す必要も重ねる必要もないからだ。目的が違うからそれが許される。今回のものは浸透のための時間だった。


「……では、では何も残せなかった私も生きたことになります。歴史に刻まれた多くの英雄たちと同じように」


「そうです」


「どうしてそれが許されるのでしょうか」


 バオはちいさく息をついた。うんざりしたときの仕草のひとつだった。


「アナトリア、あなたは勘違いをしています」


「何でしょう」


「人間にそれほど個々の差異はない。同じ人はどこにもいないけれど、そんなに幅があるわけでもない。万人に認められる大英雄が死んでも世界は回る。それよりも畑を耕す人が一斉に一〇人死んだほうが影響は大きいのです」


 ゆっくりと諭すようにバオは聞かせた。興奮していたアナトリアはバオの言葉が進むにすれて、しだいに顔色が悪くなっていった。彼女の人生のなかで、過去にたどり着いたことのある結論であるはずなのだ。なにかの理想を追った人間が、理想とそうでないものの価値について思い至らないわけがない。記憶の混濁している彼女が忘れていたのか、それとも蓋をしていたのかはわからないが、戻ってくる場所に変わりはない。

 わずかにアナトリアの体が震えていた。


「だとすれば、生が本当に平等なら、価値自体が」


「そんなものはあなたが決めればいい」


「……冷たいのね」


「価値は自ら判断するものだと気付いたと言ったのはご自分でしょう」


 バオの突き放すような言い方は、しかし怒りから来るものではなかった。いつものとまで言ってしまうと語弊があるが、表情に波立つものはない。窓の向こうではまだ雨が降っているのだろうか。すこし空が明るくなったような気もするが、微妙なところだ。見えないものの確認は取りようがなかった。

 沈んだ空気はどうすることもできなかったし、それをどうにかする資格は二人にはなかった。彼女たちが進んで作り上げたものをどうして壊すことができるだろうか。もしもそれが許されるとすれば、二人にとってこの空気が明確に間違いだという共通認識が生まれたときだけだ。だから結論から言えば、空気は沈んだままだった。

 アナトリアが脇に座る女から目を切る回数が増えて、バオはそれを嫌悪の感情から来るものだろうと解釈していた。あれだけ実直に真正面から会話することを心掛けていた人物にずいぶん嫌われたものだ、と心のなかで自嘲する。しかしそのことを意外とは思っていなかった。だからどんどん礼を失するような振る舞いが増えても文句を言うつもりはさらさらなかった。むしろ遅すぎると思うくらいだった。


「ロクサーヌ。あなたは正しすぎるのかしら」


「そう思ったことはありませんし、どうせそれも誰かからの評価です」


 それまでと違って急に穏やかな声でバオはその問いに答えた。すこし低い声色は、聞き手を落ち着かせるのに最適だった。アナトリアの心の震えが収まっていく。

 すると、アナトリアが身を真後ろに倒した。この二週間で初めてのことだ。まるで子どもが寝るときにふざけてやるような動作だった。ばふん、とやわらかい音だけが立ってほこりが舞う。


「ねえ、私、もしかしたらあなたのことが嫌いなのかもしれないわ」


「人には何らかの感情を抱くべきです。あなたに何も思われないよりは、そう思われたほうがずっといい」


 バオの言葉に対してアナトリアは何も返さなかった。動きでさえすぐには見せなかった。たっぷり十秒を使って、そうしてからアナトリアは右手を額にやった。ひどくゆっくりとしていて弱々しい。どうしてこの部屋は明かりがついていないのだろう、とバオは思った。別に外も明るいわけではないのに。本当は彼女はその答えを知っている。まだ昼間だからだ。雲で薄暗いことを理由に昼に明かりをつける人はそれほど多くない。店などであれば話は別だが、薄暗いからといって何も見えなくなるわけではないのだ。ましてやアナトリアが自分で明かりをつけられるかは微妙なところだ。

 ぼそっとベッドに横たわる彼女がつぶやいた。


「すこし眠ります。頭が痛いの」


 出て行けとも待っていろとも言わなかった。人によって受け取り方は違うだろう。バオは後者の意味で受け取っていた。帰るという選択肢がすっかり抜けていたのだ。それは彼女がこの先に対して確信に近いものを抱いていたからだ。イザベルが託したわずかな善意とはアナトリアの話を聞くことではない。それが要求されるのはここから先の話だ。ああ、と誰にも聞こえない声が漏れた。

 枕の沈みは浅く、子どものように身を倒したわりには布団に乱れたところはなかった。だらしなさを避ける習慣が染み付いているのだろう。まっすぐ仰向けでぴったり静止していた。


 五分か十分か、経つといったほどのこともない時間が流れた。閉じ切った室内は、空気さえ重みを増している。立ち上がった頭の高さと足元ではその濃さが違っているように感じられた。音のない圧迫感が辺りを支配している。とっさに中空をつかめばなにか実体のあるものが捕まえられそうな気さえしてくる。バオはそんな空間で、ただじっとしていた。

 雨はまだ降っているだろうか。窓の向こうにどれだけ目をこらしても、それはやはりわからなかった。バオは立ち上がって窓に近づき、そしてそれを押し上げた。すこし身を乗り出して確認すると、雨はやんでいた。あの細い糸のような雨は、もう空と地面とを結んではいなかった。雲は多少明るくなっていたが、引っ張ればまだ雨粒を落としそうな気配を残してはいた。しかし誰にもそんな力はないのだから、雨は上がったといっていいのだろう。

 空を見ていたバオはやがて窓を閉めて、室内に向き直った。そして眠ってしまった話し相手に目をやって、そうしてから腕を組んで天井を仰いだ。花束はまた重力にしたがって力なくだらんと垂れていた。そうか、とバオはつぶやいた。


 バオは眠っているアナトリアのそばにゆっくりと寄って、口元に手を近づけた。次に首の付け根に指をあてた。確認はすぐに終わった。

 丸椅子にもういちど座ってベッドの上の彼女を眺める。歳が歳だから張りがあって瑞々しいということはないが、それでもそこには生命の残滓のようなものがあるように思われた。そしてそれがすこしずつ空気に溶けていくのがわかった。空気はそれを人間には感知できないやり方でしまい込んでしまうらしかった。もう誰にも取り出せない。音も立てずにひとつの人生が終わった。

 もういちどバオは天井を仰いだ。見るべきものは何もない。暗い平面があるだけのことだった。一気に疲労に襲われたように、彼女は膝に肘を合わせてうなだれた。誰も彼女に声をかけることはできなかったし、心配することもできなかった。もうこの部屋にいる人間はひとりなのだ。


「……まあいいさ」


 そう言ってバオは雑に左手を上に振った。何かを振り払うような、意図よりも力の優先されたものだった。

 むちゃくちゃな量の白百合が、アナトリアを包むように花弁を開いていた。それはまるで棺を埋める花のように、彼女の顔だけを覗かせたまま積み重なっている。量のすさまじさのせいで、ベッドの端から次々にぼろぼろこぼれていく。方向も定めずに咲き誇った白百合が連想させるのは現実ではない。死後の世界の見惚れるような景色の一画だった。もちろんそれは本当に実在するのなら、という前提の話であり、バオはそんなものがあるとは思っていないが。

 ひとつならそれほどでもない香気は、堆く積もったとさえ言えるほどの量になるとすさまじいものになった。感覚器官を侵食するように自己を主張している。それはもはや異臭の領域に近づいていた。しかしそのなかにあって、バオは何も修正しようというそぶりを見せなかった。

 そしてバオは立ち上がり、一度も振り返ることなくその部屋をあとにした。

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