12 ニキアスの自由時間

 まだ借りたばかりの家は寝床の準備が済んでいないから、バオとニキアスは宿への帰り道を行く。イザベルとは待ち合わせた噴水で別れて、いまは今日が全て終わったような感覚だ。残すものは汗を洗い落とすくらいで、それを済ませると布団が待っている。やわらかくわずかに身を沈めれば朝まで一直線だ。川を飛び越えるように残りの夜を後ろに置いていくことができる。この経験としての時間短縮が、ニキアスは不思議でありながら好きだった。

 まだ夜には活気が残っていた。多くは外で食事を終えたのだろう人々が、家に帰る前に道端で楽しそうに話している。余裕があって友人と顔を合わせられて、といった時間なのだろう。家で手料理を味わった家庭もそれぞれの団欒を過ごしているに違いない。


「ニキアス、明日の夜、話をしよう」


「どうしたの、急に」


「急でもないよ、前にウェルウィチアと話したときのことを覚えてるだろう?」


 ニキアスの記憶に残っていたのは、彼女から統括組織が存在するという噂を聞いたときのこと。早口でしゃべる少女だった。バオが詰められていたことが頭に浮かんでくる。ひとつが出てくるともうひとつがつながって記憶の底から掘り起こされて、だいぶ鮮明に思い出せてきた。たしかにそこでバオが秘密を後回しにしてほしいというようなことを言っていた。


「ああ、なんか秘密があるみたいなこと言ってたね」


「それそれ。いや隠すつもりはなかったんだけど」


 笑いながら手を振って、大して重要な秘密ではないと加える。ニキアスはそのままバオの言うことを受け入れた。疑えるような根拠がないのもあるが、そもそもとして疑う必要がない。どのみち明日にはその内容が明かされるのだ。だから彼はわかったと素直に返した。

 バオの伸ばした手の先には、やはり花束が揺れていた。ぞんざいに扱っているように見えるのだが、それでも何かの作業に取り掛かるときを除いて、常に彼女の手にあった。いつか言っていた、密接であるという言葉に嘘はないらしい。

 街を歩けば道はいつでもまっすぐとはいかず、細い道に入ったり、遠回りとしか思えない道を選ぶ必要がある。そのせいで月の位置は見上げるたびに変わっているような気がした。本当はわずかずつ高いところに向けて登っているだけだった。


 あくる日のニキアスの予定は何もなかった。バオは新しく借りる家に、最低限住めるだけのものを買い入れると言ってさっさと出かけてしまった。とにかく任せてくれの一点張りで、ニキアスには手伝いを申し出る余地さえ見つけられなかった。

 宿の朝食をのんびり食べて、さて何をしようかと考える。最初に決まったのは外に出ることだった。宿でじっとしていても面白いことがあるわけもない。

 空は気持ちのいい晴れで、雲の白さに雨の予感はなかった。それだけで人々の気の持ちようが変わるくらいの天気だ。洗濯物は乾くし、植物にもいいとニキアスは聞いたことがあった。理屈を教えてはくれなかったが、天気がいいと農作物も元気になるらしい。以前にいた村のおじさんが言っていたことだ。不思議ではあったが納得はできた。太陽を知らないにんじんを食べたいかと聞かれたら首を横に振るだろう。

 ニキアスはとりあえず大通りを歩いてみることにした。いつもは何かしらの目的を持って歩いていたせいで、立ち並ぶ建物のなかにどんなものがあるかなんてまったく気を配ってこなかった。店があると認識していても、そこで何を取り扱っているのかはわからなかった。それをいちいち足を止めて見ることができるのは面白かった。


 もともといた村では店の観念そのものが薄く、ひとつだけ様々なものを売っているところがあるだけだった。珍しい陶器だの役に立たなさそうなガラクタだの。パンも売っていた。しかしたいていのことは家で済ませられる生活力のある人が多かったから、パンや服はほとんど売れないという愚痴をニキアスは聞いた覚えがある。ちなみに武器も売っていたが、ニキアスの剣はそこのものではない。

 そんな過去と比べると、たとえば服飾店だけでいくつも違う店があるのは衝撃的なことだった。驚愕したと言い換えてもいい。見たことのあるものよりもずっとずっと意匠に富んだきれいな服が数多く並んでいたからだ。そう思って道行く人々を眺めてみると、なるほど多くがそういった荒々しさのない服を着ている。これは彼にとって面白い発見だった。彼らは街の外には行かないのかもしれない。ニキアスからすれば遊びに行くというのは野原や山に行くことだったから、根っこから感覚が違うのだろう。ただふらふら歩けば面白いものが目に入ることの何たる贅沢なことか。


 興味や面白さが勝つと疲労の概念が吹き飛ぶことがある。それは年齢が下がっていくとより顕著になっていく。まだ十五歳のニキアスがこんなに大規模な未体験に囲まれてそうならないはずがなかった。店どころかそこらを歩く人々でさえ彼からすれば洗練されていて、興味の対象になった。頭がじーん、と麻痺してしまうほどの新しい世界の洪水だった。

 関心を呼ぶものが多すぎてまっすぐ歩くのも大変になり、ニキアスは吸い寄せられるようにいくつかの店に入っていった。それは薬品店であったり、乾物屋であったりした。歩きづらそうな金属鎧から長大な槍まで売っている戦闘に向けた総合店のようなものもあった。宝石には興味がなかったからその店は無視した。どの店も質問をすれば丁寧に答えてくれた。

 道端には露店も出ていた。串に刺して焼いた肉や野菜を手渡しで売っていて、村にいたときに野山で似たようなことをやっていたことを思い出した。しかしニキアスがやっていたそれよりは品質がいい。サイズも味も調えられている。買って味わってみて彼はそれを理解した。


「あなた。そう、たしかニキアスでしたね。ご機嫌はいかがですか」


 思ってもみない方向、斜め下、から声をかけられてそちらへ顔を向けると、先日にお世話になった少女の姿があった。ウェルウィチア。統括組織のウワサを教えてくれた人物だ。彼女の話がなければ、バオとニキアスはあてずっぽうに動いていたことだろう。方向性を示してくれたという意味では生活を送る道筋を立ててくれたといっても過言ではない。


「ウェルウィチア。ありがとう、順調だよ、きみは?」


「ふだん通りです。今日はバオバブはいないのですね」


「そうそう、そのことでウェルウィチアに報告というか、家が決まったんだ」


 言葉のある地点で破ってはならない約束に触れてしまいそうになって、ニキアスは頑張って修正を試みた。体裁は整っているが、急に家の話が出てくるのは多少の唐突感を伴った。とはいえそんなところに疑念を挟んでくる者がいるわけもない。こんな往来の真ん中で立ち話もどうだろうということになって、二人は落ち着いて話ができるところにカフェを選んだ。中心街のカフェはニキアスにはすこし敷居が高かった。

 ニキアスがそうするのと同じようにウェルウィチアも節くれだった杖をテーブルに立てかけた。がこん、と思ったよりも重たい音がした。


「俺たち、結局ギルドを作ることにしたんだ」


「そうですか。まあ大変とは思いますがやってやれないこともないでしょう。決めた人間にあれこれ言っても大きなお世話ですしね」


「うん、頑張るよ。うれしいことに猶予もあるんだ」


 朗らかに話すニキアスの言葉に引っかかったのか、ウェルウィチアが首を傾げる。それを見てニキアスも不思議そうな顔をした。齟齬が生まれている。


「別にギルドを作るのに猶予は必要ないでしょう。登録すればそれでおしまいでは」


「ああ、えっと、金銭的な話で。家賃が半年免除なんだって。だから初めのあたりはうまくいかなくてもなんとかなりそうっていうこと」


「なるほど。方法はわかりませんが上手くやりましたね。では先ほどの話と合わせて考えると、バオバブはその新居の関係で動いているということでしょうか」


「家具を揃えるって張り切ってる」


「なんかそんなタイプのひとな感じはありますね。変にはしゃいでアホみたいな柄の家具が並んでないといいですが」


 顎に手をやりながら出てきたウェルウィチアの懸念は、ニキアスもちょっと心配していたことだった。センスそのものが狂っていることはなさそうだが、突飛な部分はある。どうせなら派手にいこう、と言い出して、ビビッドなカラーリングが家で待っているなんてことも完全には否定できないのだ。ニキアスはそんなつらいだけの想像をするのはやめた。本当にそうなってから対処すればいい。

 ニキアスの手元には紅茶とチーズケーキがあって、ウェルウィチアは紅茶にミルクを溶かしていた。ケーキは季節のベリーを目立たせたものを注文していた。ニキアスはチーズとケーキというものがいっしょになることに驚いていた。たしかにチーズの味が残っているのだが、甘い。

 前よりは、それでも早いが、落ち着いた彼女の口調には品があった。それは語尾が丁寧であるという以上に、生命としての品性だった。あまりそういった手触りのないものについては考えたがらないニキアスにもその存在が理解できた。


「そうそうニキアス、あなたバオバブにはぐらかされた話は聞きましたか?」


「秘密ってやつ? それなら今日の夜って言ってた」


「それはよかった。いっしょに過ごしてみてわかったと思いますが、あれには厄介なところがあります。なにか気になるところがあったら突っ込んで聞いてください」


「え、そりゃそうするけど。ウェルウィチアはバオのこと知ってるの? 初対面なんじゃなかったっけ」


「実家に逸話が残ってるんですよ」


 返ってきた言葉が回答として正しいのかがニキアスにはわからなかった。もちろん逸話が残るという言葉そのものは理解できているが、それはたとえば地域であるとか国であるとか、ある一定程度の広範囲に及ぶもののはずだ。さらに言えば時間。年を経て語り継がれるのが逸話であるというのがニキアスの理解だった。彼の言葉に対する理解が間違っているのかもしれないが、すくなくともそれを修正しなければこの違和感は拭えそうにない。


「逸話。たとえばどんな?」


「申し訳ありませんが、これは話せません。複雑なところでして。“森”の中身については話してはならないんです」


「その“森”があること自体は話していいんだ?」


「あー……、まあ、存在を知ったところでどうなるような場所ではないんです」


 先にもまして奇妙な言いぐさだった。たとえば聞いただけで行く気を失くすようなとんでもない場所なのだろうか。たしかに自然界にそういった場所は存在する。ニキアスは遊ぶ場所が自然のなかだったから知っているのだ。なにか、一本の線が引かれているような感覚に何度か出くわしたことがある。経験したことのない恐怖が、その線の向こうで呼吸していると実感させられるのだ。聞いてみれば村の大人は全員それを知っていたし、素直に近づかないほうがいいと諭してくれた。ニキアスは彼女が口にしたその“森”をそういう場所だと見ることにした。

 ウェルウィチアもまたどう言ったものか迷っているようだった。彼女らの故郷であり、中身に触れてはいけない地。そうなるとたしかに説明は難しいのかもしれない。実際にそこに住んでいた人間が客観的な情報だけで故郷について話すのは無茶とさえ言えるかもしれない。


「ふうん。ウェルウィチアも大変そうだね」


「ええまあ、ある意味では仕方のないことですから。面倒な場所なんですよ」


 そう言ってニヤつきながらため息をつく彼女の顔には、親しい場所だからこそつける悪態のようなものがあった。深い理解の上に成り立つそれは、一種の眩しさが伴っていた。人によっては憧れを抱くだろう。簡単には手に入らないものだ。ニキアスはその“森”について聞かないことにしていたが、ウェルウィチアのその表情のせいで興味が湧いたくらいだった。

 ウェルウィチアがカップを手に取るときは、常に両手を一度テーブルの下に持っていってからだった。フォークがケーキの皿に置かれて、手が休んで、それからカップの順番だった。縁が唇に触れるときはまぶたが下りて、まつ毛が合わさった。まるで条件反射みたいに同じ動きだった。村にいたころに見た夜に葉を閉じる木のことを思い出した。ニキアスはその一連の動きがすぐに好きになった。しかし真似をするのはやめておいた。きっと似合わないだろう。

 ごつごつした形状のせいで安定していなかったのか、ちょっと位置をずらした杖を元に戻す。その杖だけ見た印象とウェルウィチアを並べるとアンバランスな感じがした。もっと言ってしまえば十歳前後の少女に武器そのものが似合わないのだが。


「そういえば杖を使うんだ」


「ええ。とはいえほとんど防御用です。私が殴りかかって勝てる相手なんてそうそういませんからね。受け流したり逸らしたりばっかりですよ」


「バオと師匠いっしょなの?」


「ああ、彼女も杖持ってましたね。流派が同じことはあるかもしれませんが、たぶん師匠は違うと思いますよ」


 言葉の調子から察するに後者については確信に近いものがあるらしい。考えてみれば当然かもしれない。この街で初めて出会うことができた人間が、同じ師匠についていたとは考えにくい。

 ニキアスは話の接ぎ穂に言葉を適当に選ぶ。


「“森”はみんな杖を使うのか、ってすこし思ってた」


「だとしたらものすごい変な集団ですね」


 わずかに間を置いてウェルウィチアはくつくつと笑った。自分の実家がそんなありさまになっているのを想像したのかもしれない。言われてみれば一家全員杖使いというのはヘンテコな話だ。実際にはあるのかもしれないが。

 とりあえずニキアスの頭には杖を使う人間がバオしかいなかったから、比較対象も彼女しかいない。目の前の少女と突き合わせることでどういう違いがあるのかが知りたかった。


「ウェルウィチアも毎朝鍛錬してるの?」


「いえ。そもそも私は戦闘中心で考えてませんし。もちろん時折はしますけど。というかバオバブは毎朝そんなことしてるんですか」


「うん。才能がないからやれって言われてるんだって。師匠に」


「クソ真面目ですね」


「そこだけはね」


 ウェルウィチアと別れたあとも、ニキアスはときおり休みを挟みながらしばらく歩き続けた。これまでの行動範囲がほとんど中心街と北区、それも二番街、に絞られていたから、ほかのところを歩くのは新鮮だった。あらためて見渡してみるとナウサの街はべらぼうに広く、この全体に人がいると思うとすこし気が遠くなる感じがした。本当にどこに行っても人の営みがあって、軽重こそわからないが、それぞれにそれぞれの事情があるらしかった。

 そういった街の景色を眺めていると、やがて夕方が近づいてきた。そろそろ宿から荷物を運んでもよさそうな時間だ。きっとバオもある程度のことを済ませているに違いないとニキアスは考えた。その直後には駆け足で宿へと向かっていた。

 彼の旅は軽装だったから運ぶ荷物も多くない。一番やっかいな荷物は鍋といった具合だった。それらを背負ってこれまでお世話になった宿を出る。そのころには西の空がすっかり赤くなって夜の接近を伝えていた。カンテラがあるにはあるが、二番街の新しい家にはまだ行き慣れていない。できれば明るいあいだに着いておきたかった。このあいだ家主の老人と歩いた道をたどって家を目指す。今日から新しい家で寝泊まりするのだと思うと、なんだか未知の気持ちになった。家にはもう明かりが点いていた。もう家なのだし、と思ってニキアスはそのままノックをせずにドアを開けた。


「ついたよ、バオ」


「そこはただいまじゃないのかい、ニキアス」


 ちょうど玄関の奥の廊下を横切ろうとしていたバオがそこにいた。荷物の移動やらをしていたのかもしれないし、無意味に新居をうろついていたのかもしれない。外で見たことのない服装になっていた。宿でも部屋ではこうだったのかもしれない。


「だってまだこの家に入るの二回目だよ、ただいまは明日からにする」


「自由にするといい。さ、こっちにおいで」


 招かれるままにダイニングルームに入ると、まず目についたのは深い青のテーブルクロスだった。木材の無骨さがすっかり覆われて、それだけで高級感のようなものがニキアスには感じられた。単純と言われればそうかもしれないが、実際にそれがあるのとないのとでは大違いだ。ついで目を動かすとそのテーブルの端にはブーケが飾られていた。これはニキアスも予想していた。ないと不思議なくらいだった。

 先日入ったときと違っているのはそのテーブルとカーテンだけだった。それでも見違えるようで、だいぶ印象が違う。とりあえずニキアスは荷物を壁に寄せて置いて、椅子に座った。クロスの手触りはさらさらしている。


「なかなかいいだろう、それ。違う色のもあるから気になったら言ってくれ」


「めちゃめちゃ気合入ってんじゃん……」


「だって家だぜ、ニキアスくん。住みよい家のがいいに決まってるんだから」


 ははは、と楽しそうに笑う。たしかに朝から張り切っていただけのことはある。おそらくこれからももっと良くしていくつもりなのだろう。もちろんニキアスもそれに否やはない。言う通りに住みよい家のほうがいいのだ。

 ニキアスの向かいにバオが座って、クロスの手触りを楽しんでいる。はしゃいでいると言ってもいいくらいだ。


「そうそう、それで話をするんだったね、私について」


「あ、この流れでいいんだ」


「別にそう大した話じゃあないからね」


「落ち着いてからのほうがいいって言ってなかったっけ?」


「質問が飛んでくると思ったのさ。たしかに珍しいことではあるよ、実際」


 彼女の関心は本当に話には向いていなかった。まだクロスの上を手が楽しそうに滑っている。そのうちほおずりでも始めそうだ。この無関心さは、たとえば拷問についての話をしたときのあの調子に近いものがある。聞かれたから答える。たまたま知っていたから教える。そのくらいの温度だ。

 もし、それならいいや、と一度言ってしまえば本当に教えてくれなくなるだろうことがニキアスにはなんとなくわかった。


「で、どんな話なの」


「実は私は魔法を使えるのさ」


 魔法、とニキアスは復唱した。


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