16 ルクレツィアの温情

「ところであなたジョゼフといつ知り合ったの? 最近よね?」


 ルクレツィアからすれば疑問に思うのも自然なところだった。ジョゼフに仕事を頼んだのがいつなのかはわからないが、すくなくとも近々の出来事ではあるのだろう。そのうえで今日という日に急に友達としてニキアスを連れてきたのだ、甘やかしたくなると口にしてさえいる彼女が心配しないはずはない。

 そんな事情を含めた思いなど当然ニキアスの関知するところではなく、彼の考えることは聞かれたことに素直に答えることだけだった。


「今朝の話だよ。トレーニングしてるところにたまたま出くわしたんだ」


「続けて」


「ジョゼフがちょっと身体に不釣り合いな大きさの荷物運んでてさ、よろよろしてたんだ。いつ転んでもおかしくなかった。だから手伝ったんだ、それだけ」


 ニキアスの言葉は多少表現が甘く、実際にはジョゼフがどうやって立って歩いているのかが不思議になるほどだった。いや、歩いていると表現するのは難しいかもしれない。顔は前ではなく下を向いていたし、足を一歩を踏み出すのに心血を注いでいるといったありさまだった。見ていて楽しいものではなく、だからこそニキアスは手を貸した。


「そう、ありがとうね。きっとあの子、つらくても自分の仕事だからってほかの人に助けてなんて言わなかったでしょうから」


「俺もはじめは断られたよ。悪いけど力尽くで手伝った」


 経緯として話を聞かずに強引に協力したことに引け目があったのか、ニキアスは申し訳なさそうに頭の後ろをかいた。しかし説得なんてしていたらそのままぺしゃんこに潰れていたかもしれないのだ、物理的に。持ってみてわかったことだが、ニキアスからしてもその荷物はため息が出るほど重かった。振った相手のことを考えるとあまり常識のある仕事とは思えなかった。

 ルクレツィアはおっとりした笑みを浮かべたまま、手元の紙に何かを書きつけた。それをニキアスに渡すでもなく自分の懐にしまうでもなく、ただ机の上に置きっぱなしにしておいた。単純にあとで忘れてしまいそうなことを書いておいただけなのかもしれない。


「ジョゼフにはそれがいちばんいいのかもしれないわね。頼りになる男性がいるっていうのはいいことだと思うわ。父親以外にね」


 自分ではどうにもならないの、と言外にありありと含ませている。彼女の言わんとすることはニキアスにはよくわかる。年齢の上下もそうだが、それに性差も加わると学べるものがまるで変わるのだ。そしてその学びとは、即座にその場で得られるものとは限らない。むしろニキアスの経験からすると、まったく離れた時間にふと思い出して理解することが珍しくないどころかそちらのほうが多いくらいだった。

 だからニキアスはルクレツィアの言葉にはにかみながら頷いた。そしてその言葉を誇らしく思った。きれいな人に褒められて気を悪くする理由もない。

 その辺りで、ジョゼフが仕事の代金を受け取って帰って来た。


「ルクレツィアさん! 受け取ってきました! ありがとうございます!」


「はい。どういたしまして。向こうのおじさんは怖くなかった?」


「とても親切にしてくれました。またおいで、って」


 よかったわね、と彼女は手を伸ばしてジョゼフの頭をなでた。その光景がなんだか懐かしくて、ニキアスは胸にこみあげるものがあった。剣を預けたものだから、手の置きどころがなくてむずがゆい思いをした。彼はまだ親子愛やそれに近いものをゆったりと眺められるほど成熟していない。何かをしようかと思ってしまうし、何かを言ったほうがいいのかと考えてしまう。結局なにもできないのだが。

 髪をくしゃくしゃにされてきゃっきゃと楽しそうにしているジョゼフと、手を尽くしてちょっかいをかけるルクレツィアの二人の姿は何よりも平和だった。ジョゼフは何の意味もなくその場でばたばたと足踏みをしている。そんな、多くの人が微笑んでしまうようなじゃれ合いは二分続いてやっと落ち着いた。


「さあ、ジョゼフ。それじゃあ今日はもうおうちに帰りましょうか」


「はい。ニキアスさんもいっしょに行きましょう」


 ニキアスが何かを答える前にルクレツィアが素早く割り込んだ。


「ごめんなさい、ニキアスにはちょっと残ってもらおうと思っているの」


「お礼もかねて父様と母様に紹介したかったんですけど……」


「勝手なのはいけない、って私も思うわ。でもね、そうでもしないとあなたの友達と会う機会がもうないかもしれないって思ったの」


「……そうですね、ルクレツィアさんがニキアスさんと友達になりたいのならそれがいちばんだと思います」


 この子は理性が働き過ぎるとニキアスは思った。もっともっとわがままでいい時期なのに、それを我慢することを知ってしまっている。それでもなあ、と話題に挙がってはいても蚊帳の外であるニキアスは考える。八歳という年齢を前提にすれば、自身で判断ができる思考能力は手放しで褒めてよいものなのだから、咎める必要などどこにもない。もちろんニキアスに口出しできることは何もない。

 ジョゼフがニキアスのほうを振り向いた。すこし残念そうだが、それでも笑っている。ちょっとだけやり切れない気分になったが、それでも相手のことを考えると自分が落ち込んでも仕方がないと彼は思った。だから、またね、と手を振った。ジョゼフとルクレツィアのあいだで合意がなされた問題に口を差しはさむ余地はないのだ。


 二人はお見送りをせずに、階段の脇に控えていた門番が付き添って降りていくのをじっと見ていた。少年にはちょっとした才能があって、それは油断をすると構いたくなってしまうというものだった。これが危険だと悉知していたのはルクレツィアで、なんとなく感じ取っていたのがニキアスだった。二人がその場から動かなかったのはそういった理由による。


「それで、話は何?」


「今朝のこと。あの子が大変そうな荷物を持ってたって言ったでしょ」


「うん」


「ちょっとその店にお話を聞きに行こうかと思ってるの。それで、あなたが傍にいてくれたら証言してもらえるし、助かるかなって」


 もともとそんなつもりもなかったが、断る理由もなかった。八歳の、見た目でわかる小さな子にあれだけの重労働を任せるというのは誰であっても引っかかる部分だ。本人はそういうことは言わないだろうが、であるなら周りが口を出さねばならない。一度にではなく、分けて運ぶことを先に教えてあげてもいいはずだった。

 ニキアスは軽くうなずいた。気負いも何もなく、ちょっと注意をしたほうがいいだろう、ぐらいの考えは彼も持っていたのだ。

 彼の了承を得ると、ルクレツィアがすっと手を上げた。まるでその腕だけが意識を別にした生き物のようだった。その動作はニキアスに向けられたものではない。同じ階にいる“動ける”メンバーにあてたハンドサインだった。人差し指と中指と薬指をくっつけて立てていた。それを見たひとりが音もなくニキアスからは見えない店の奥へと消えていった。


 自分の知っている道を初対面の人と歩くのは奇妙な気分だった。それも自分よりも相手が街について詳しいことが決まり切っているとなおさらだった。この彼の心理を卑屈と評する人もいるかもしれない。ある面ではそうだろう。しかしそうとは言い切れないものもある。それは分類としては友達の友達といっしょに遊んでいるのと同じくくりにあるものだ。

 帰りの街並みは行きのそれとは違った景色で、状況もあってそれは新鮮だった。やけに目に映るものの細部がくっきりと見える気がする。普段がぼんやりしているのだろうかと思った。そんなものかもしれない、とニキアスは結論した。


「ねえ、さっきのハンドサイン、何だったの?」


「あれはね、こっそり私についてきて、って意味」


「どういうこと?」


 答えはもらったもののその指すところがわからず、ニキアスは首をひねった。


「実は私、商会でちょっと裁量を与えられてるのよ。ジョゼフにお仕事を頼んだのがその証拠ね。あ、お給料はもちろん私の財布からよ?」


「うん?」


「それで、私が出かけるときって護衛をつけなきゃならなくて。でもその人たちってけっこうごつくて変に目立つのよ」


 そう言ってルクレツィアはため息をついた。話をしていて流れで出てきたようなものではなく、普段からしっかりとうんざりしているといった感じのものだった。首を振っているのを併せて考えるとなかなか思うところがあるらしい。ニキアスにはその理由がよくわからない。護衛がつくのは悪いことではないはずだし、その護衛が強いことに文句はつかないはずだと考えたからだ。

 道行く人々の三割ほどが控えめに彼らに目をやった。中にはルクレツィアのことを知っていた人もいただろう。そうでない人は彼女という存在に視線を奪われたのだ。彼女が注目を集めるのは外見もあったが、所作や振る舞いから仄見える、気品や風格といったものを言葉でなく理解させることができたからだ。ルクレツィアを遠巻きに見ていた人たちは、ほう、と息を漏らすのが大概だった。


「でも今日はあなたがいるでしょ。だから護衛は後ろからこっそりって指示を出したのよ。それがあのハンドサイン」


「なんだか大変そうだね」


「本当にそう。どこかの店を訪ねるのにあんなに大きいのがいたらびっくりしちゃうでしょう? 店の人もその場にいたお客様も」


 たしかに、とニキアスは頷いた。ほれぼれする体格の人間はいても変ではないが、それだけで緊張感を生んでしまうことはある。誰かのお付きとしてついてきたのならなおさらだ。たとえそこに悪意などないのだとしても。


「護衛の人たち呼ぶサインもあるけど呼んでみる?」


 なんでもないように提案してくるルクレツィアをニキアスは必死に押しとどめた。何も用がないのに呼び出す相手ではない。自分で言うように裁量権が彼女にあるのなら問題はないのかもしれないが、呼び出される側の労苦は考えてあげたほうがよいだろう。無邪気に提案するにはすこし内容が重かった。


 やがて件の店が近づいてきた。ニキアスからするとあまり印象のよくない場所だ。そのせいか、なんだか外観も薄汚れて見えてしまう。店としては賑わっているようには見えない。しかしこれは自然なことで、ここは武器や鎧などの、人によっては物騒なものとして捉えているものを取り扱っている店だ。こういったところが賑わうことほど悲しいことはない。もちろん職業上必要とする人はいるのだから経営が立ち行かないということもない。ニキアスがここを武具店と知っているのはジョゼフの荷運びを手伝ったからである。

 何の遠慮もなく、それこそ自宅の扉を開けるようにルクレツィアは店内へと入っていった。決して急がず、しかし確実に前へと進む足取りは上位者の格を匂わせた。あとに続いたニキアスは、自然と従者のような位置を与えられていた。


「店長さんはいるかしら」


 前置きも何もなく、聞き落とすことが難しいほどクリアな声を通す。それは返事を期待したものではなく、要求したものを出すことを期待していた。不可思議な論法だった。ニキアスのまだ短い生涯では出会ったことのない技術。この街に来てからそんなものばかりに出会っている気がする。

 まだ若い店員がニキアスと同じものを感じ取ったのか、すっと店の奥へと引っ込んでいった。客はいないようだった。


「何かご用でしょうか……」


 ろくろく呼び出した相手の顔も見ずに出てきた店主は、顔を上げて誰が訪ねてきたのかを確認すると言葉を失った。たっぷりとたくわえた髭よりも、蒼白になっていく顔色に目が奪われる。いてはいけない、と、いてほしくない、を足したような表情が存在するのだ。眼球がこぼれそうになるほど目を見開いて、歯がかちかちと鳴りだした。中年男性のしていい怯え方ではない。それも相手は高く見積もっても三十歳に届くかどうかの女性だ。威圧、というところからはかなり遠く離れている。

 しかし一向に店主の震えは収まらなかった。もう視線も上げられず、大股一歩くらいのところの床をじっと見つめている。ニキアスは小さなころにこんな光景を見たことがある。どこの家庭でもあるような、親が子を叱るときのものだ。しかもそれは、本当にケガや場合によっては命にかかわるようなことをしでかしたときの、言い訳のきかないときのものだ。姿を見ただけでここまでの状態になるということは、自覚がはっきりとあるのだろう。もしくは、とニキアスは思ったがそれは考えにくい。


「ええ、すこし話を聞きに来たの」


 小刻みだった震えが、声をかけられて大きく一度波打った。ルクレツィアのほうは変わりない。先ほどジョゼフを交えて話していたときの調子とまったく同じだ。違うのは場所と、相手。条件だけを見るなら店主のほうが一方的に盲目的に恐れていると取られても不思議はない。しかしニキアスには店主が何かの根拠に基づいて支配的な空気を感じ取っていると理解できた。その不定形の根拠が具体的に何であるのかはわからないのが歯がゆいところだった。

 どの話を聞きたいのか、と答える代わりに、震えを抑えることができずに恐る恐るゆっくりゆっくり顔を上げてどうにか視線を返した。これ以上ない卑屈な返答のかたちだった。口さえ利けない。縋るように視線だけを投げる。床に膝をついていないのがおかしく思えるほどだった。


「まあいいけれど。今朝、ジョゼフという子が来たと思うんだけど、本当よね?」


「あ、は、はい」


「正直なのはいいことね。商人は信用されないと大きく不利になるわ。そのためには嘘をつかないこと。これは鉄則」


 誰に諭すわけでもなく、あえて言うなら空中に向かってルクレツィアはその教訓を投げた。自分に言い聞かせる意味もあったのかもしれない。誰に向けてもいないのだから、誰の返事も待っていない。わずかなあいだ、ぽっかりと名前を与えることのできない時間が生まれた。それは無意味ではない。空白でさえない。ただ名前がない。

 ニキアスにも店主にもそれをどう扱っていいのかがわからなかった。打ち破ることは可能だ。声を上げればいい。しかしそのことで次に何が生まれるのかが推測できない。目の前にある見えないものは触れてはいけないものではなく、触れて壊してはいけないものなのだ。

 必然、その扱いが許されるのは生み出した張本人であるルクレツィアだけだった。彼女だけがその時間の中で自由に動き、終点を決めることができる。彼女にこの場の緊張感を生んだ自覚があるかは定かではない。ルクレツィアの声の調子はほとんど無邪気でさえあった。


「その子に何を頼んだの?」


 店主は先ほどの名前のない時間に戸惑っていた様子から、今度は急に身を竦めた。がちがちに身体が固まって、息は荒く、額に汗がにじんでいる。口に出して何かを言うよりも、よほど雄弁に語っていた。彼には思い当たるフシがあるのだ。それを言葉として放ちたくないから、ただ目を泳がせてルクレツィアの気が変わってはくれないかと待っているのだ。

 しかしその沈黙がルクレツィアを動かすことがないことは明らかだった。精神的な余裕が違う。一秒ごとに身を削られるような思いをして耐えている店主に対して、彼女は答えが返ってくるのを待っているだけだからだ。どちらが崩れるのが先などと問うまでもない。石を投げたらいつか地面に落ちてくるのと同じことだ。


「は、はい。にも、荷物運びです。ルクレツィア様」


「そうね、そうしてくれるよう手紙でお願いしたもの。私の署名つきで」


 なるほど、とニキアスは思った。仕事を与えて給料を与えるまでの流れをきちんと作っていたらしい。これは甘やかすとは違って、気を遣うことの分類だとニキアスは思うが、そのあたりを彼女がどう考えているかはわからない。

 店主は黙っている。異常とも言える量の武具を子どもに運ばせたことに自覚がないわけがない。言い逃れができる状況でもない。けれど自分からそれらに関する肯定の言葉を言い出すことほど愚かなこともない。ここからルクレツィアに何らかの行動を取らせるきっかけになってしまう。


「どうしてすごい量の荷物を運ばせたのかしら? ああ、嘘はつかないでね」


「いえ、そっ、その、それは」


「理由を」


 店主は黙り込んでばかりだった。


「言えないのならそれでもいいけれど。代わりに私で理由をでっちあげても文句は言わないこと。それじゃあ本題に移っても?」


 頷く以外の選択肢がないのだから、店主は当然それに従った。先ほどから変わらず視線は下を向いたままだ。話を進めたくなくとも後ろから背中を押される。ほどなく絞首台に上がることになるだろう。ぎいぎいと使い古された踏み板の音が聞こえるような気がした。

 ニキアスはただ黙って事の推移を見守ることしかできなかった。自身がここにいることの意味は薄いのだろうと理解している。そもそも彼には明確な立場が与えられていない。ルクレツィアに協力するとはいっても、おそらく彼女はモリエール商会の一員としてここを訪れている。ジョゼフがこの場にいないのがその証拠だ。であるならニキアスはせいぜい客人がいいところであり、積極的な態度を取ることは状況に即していない。求められれば先に出た証言もするつもりではあったが、これではおそらく出番はないだろう。もちろんジョゼフの友人としては店主は守る対象ではない。


「それじゃああらためて。モリエール商会ギルド筆頭・モリエール商会の名において、この店の商品の三割を接収します」


「ちょっと! ルクレツィア様、それはあまりにも!」


 下された裁定に納得いかないのか、はじめて店主がルクレツィアに食らいついた。商品の三割ともなればなりふり構っていられないのは当然だ。ふらっとやって来られて告げられたのではたまったものではない。

 その抵抗はもとより予想されていたのか、ルクレツィアは驚きもしなかった。しっかりと店主の視線を受け止めて、なお泰然としている。言葉を続けようともしない。これ以上言うことはない、と示しているのかもしれない。取り合ってもくれないのなら文字通り話にさえならないのだ。

 店主は言葉を続けられない。彼にとって重い重い沈黙が流れる。しかしそれを断ち切るのはもっと重い言葉だった。


「先ほど、私は鉄則だと言ったわ。嘘をついてはいけないと」


「いまはその話では……」


「その理由を覚えているかしら」


 悲痛なまでの店主の叫びをルクレツィアは押し戻す。それはただ彼女のおっとりした雰囲気ひとつだ。まさか平和に属する雰囲気が剣呑なものに含まれるそれに勝てるとはニキアスは思いもしなかった。あるいはルクレツィアの持つ雰囲気の奥には何か別のものが隠されているのかもしれない。どちらにせよふつうではなさそうだ。

 答えが返ってこないことを確認して、ルクレツィアは続けた。


「商人は信用されないと不利になるから、と言ったわ。それが大事なのよ。それを踏まえて考えてみてくれる? 罰としてはとても軽いと思うけれど」


「私は、私はたしかにルクレツィア様の信用を失ったかもしれません! とはいえ、その代償が店の三割ではあまりにも大きすぎる!」


「ああ、勘違いしているのね」


「は?」


「私の信用なんてどうでもいいの。あなたのせいで失いかねないのは、モリエールの名前に対する世間のお客様の信用。仮に子どもが潰れてしまいかねない量の荷物を運ばせたことが露見して、私たちの商会の傘下すべてが一パーセントの信用を失ったとして、私たちはそれを取り戻すべくいくらでも手を尽くすわ。そうしてそのとき、あなたはその全体の損失をどう補填するのかしら」


 彼女が求めているのは謝罪ではなかった。具体的な説明を通して要求しているのはふたつ。ルクレツィアの提案を受け入れること。そしてもしも拒否をするのなら具体的な対策を述べよ、ということである。比べさせているのだ。商会の傘下の全店舗が被る可能性のある損害と、この店の三割とを。

 この短い時間でいったい何度言葉を返せなくなったことか。店主は失点ばかりで、取り返せる動きをひとつも取れていない。だから素直に提示されたふたつを比べるしかなくなってしまう。そして結論を導かざるを得なくなる。三割を持っていかれたほうがはるかにマシだと。この店が十倍大きくて、そしてそのすべてを以てしても商会全体の一パーセントの補填には程遠い。隣に置いて並べてみれば、なんたる温情か。


「じゃあ、このあとで私の署名した紙を持った人が来るから」


「……申し訳ございませんでした」


「それと、わかっているとは思うけれど、この店には枝つきになるわ。常に見られていることを自覚してね」


 気が付けばほとんど一方的だった通告はそれで終わりを告げた。もう用も見るべきものもないとばかりにすぐに踵を返して扉を開ける。それでもその動作に機敏さのようなものを見出すことはできなかった。いつだって彼女には余裕がある。ニキアスは彼女のあとについて店を出た。

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