15 あの子の足跡の先に

「きみは、やっぱり。今朝の」


 少年の顔を確かめると、意表を突かれたようにニキアスの口から言葉がこぼれた。声をかけられたほうは何か不思議なことでもあったろうか、というふうにきょとんとしている。マイナスの感情を持った表情ではないから、ニキアスに対して怪しい人物や見知らぬ人といった感想を抱いているようには見えない。


「どうしたんですか?」


「え、いや、きみ朝早くからうちの近所で働いてたよね」


「はい。手伝ってもらって本当に助かりました」


「なんでこの通りに? まあまあ離れてると思うんだけど。距離」


「こっちでお仕事なんです。朝のは終わりましたから」


 なんでもないように言ってのけたのを聞いて、ひそかにニキアスは衝撃を受けた。大きな街はなるほど、仕事をする範囲も広いのだ、と。畑だの牛だのにかかりっきりだった村と比べると、構造の洗練の度合いが違い過ぎる。これからその輪の中に入っていくのだと思うと彼はちょっと気が重くなった。

 さておき少年とニキアスはお互いに面識はあるらしい。言葉を拾えば朝に、それはニキアスとバオのふたりがギルド登録に行く前だ、知り合って少年の手伝いをしたらしい。おそらくそれだけで、お互いに名前も知らないようだ。たまたま行きがけに道案内をしたとかそういった程度の関係性であることが窺える。


「今度は何してるの?」


「また荷運びですよ、今度は軽いやつです」


「きみの手に負えるやつならいいけど……。にしても忙しそうだね」


「もしも人間に頑張り時みたいなものがあるのなら、ぼくはいまがその時期のひとつなんだと思うんです」


「ええと、何歳?」


「八歳になります」


 ニキアスは額に手をやった。言葉の応答が成熟しているだけならまだ理解はできるが、この子のそれはすこし度が過ぎているとしか思えなかったからだ。八歳なんてものは、鼻水を垂らしてそこらに落ちている木の棒を拾って振り回して笑っていればいい時期だ。頑張るなんて言葉は知っている必要さえないとニキアスは思っている。

 言葉にするのが難しい気持ちになったニキアスは、そんな思いを胸に秘めたままで彼自身が驚くほど表情を変えることなく会話を続けた。


「手伝うよ。いっしょに行こう」


「そんな! 悪いですよ、朝だけでも本当に助かったのに」


「たぶん知らないだろうけど、ひとりはキツいんだ。荷物が軽くてもね」


 そう言ってニキアスは少年の背中を叩いた。頭の良い子どもは論じたところで説き伏せるのに時間がかかる。それなら強引に動かしてしまえばいい。ニキアス自身がまだ子どもの時期を過ぎ去ったわけではないが、より小さな子どもに対して有効な手段を知らないわけではないのだ。

 少年の持っていた紙束は少年に任せることにした。変に手出しをせず、さあ行こうと声だけをかけた。ニキアスはただ少年のあとをついていく。ニキアスよりも少年のほうがこの街に詳しいのは当然だった。なんといっても年季が違う。なにせ彼はこの街に来てからまだひと月も経っていない。名前を指示されてピンと来る場所などまだほとんどないのだ。

 少年は真面目で、余計なことに意識を引かれることなくまっすぐに歩いていた。まだ八歳の歩幅だったから速くはなく、その差のおかげでニキアスは歩きながら周りに目を配ることができた。

 お互いに話をしながら、という雰囲気にはならなかった。彼らは知り合って間もないし、親密になるような出来事もなかった。だから空気が緩まずに少年は歩けたし、ニキアスも気は遣わなかった。


 歩き続けてたどり着いたのは栄えた通りからはすこし離れた店で、外見からは何を取り扱っているのかわからないところだった。さっきまでと比べれば寂れた場所にあるせいで、言ってしまえば怪しい。ニキアスはついてきてあげることを選んだ自分を内心で褒めた。

 少年が迷いなくすいすい進んで店内に入ろうとするのを見る限り、そんなに問題のある店ではないらしい。彼の年齢ゆえの無鉄砲も考えられたが、先ほどの受け答えを思えばそんなこともなさそうだ。

 いまニキアスの気分は従者だ。どうやら達成するべき目的がないとなると、言い換えれば心に余裕があるとヘンテコな遊びを思いつくもののようだ。なんと呼ぶべきだろう、とニキアスは考えた。従者ごっこ。もうひとひねりが欲しかった。


「こんにちは」


「ああ、ジョーイか、よく来たね」


 店主と思しき人物が、とりあえずそこに置いたといったふうの椅子に座って少年を歓迎した。少年はジョーイと呼ばれているようだ。店主は老人らしさを強く出したような見た目をしていた。肉のつき方はかなり薄い。髪も生えている箇所とそうでない箇所がはっきりと分かれていた。

 右を見てみると木彫りの奇妙な像から、使いにくそう以外の感想が出てこない花瓶か水差しか判別のつかないものまで幅広く置いてあり、左を見ると小瓶に入った石から実用性の低そうな大きな盾まで陳列されている。一言でまとめれば変な店だ。何を売っているかを定めていない、よろず屋とでも呼べばいいのだろうか。それにしては生活の役には立たなさそうな品ばかりが並んでおり、怪しい露店が軒を手に入れたといったほうが手触りとしては近かった。


「おじさん、ほらこれ、お手紙です」


「おやありがとう。誰からだい?」


「モリエール商会の方です。ルクレツィアさん」


 それがよほどの名前なのか、聞いた瞬間に店主は怪訝そうに片眉を上げた。それはニキアスの目には純粋な驚きに見えた。恐怖でも喜びでもない、まるで思い当たるフシがないといった感じの驚き。ルクレツィアという名前と、この店と、場合によってジョーイと呼ばれた少年のあいだに何かが挟まっているのかもしれない。あるいは何も挟まってなどいないのかもしれない。判断がつかないのはニキアスが外部の人間だからだ。

 店主がニキアスのほうを見た。目には入っていたのだろうが、順番としてはここでやっと、ということなのだろう。店主からすれば知り合いの少年とともに現れたよく知らない人物だ。剣だって背負っているのだ、悪くすれば怪しまれている可能性もある。


「ところで、あなたは?」


「俺はこの子の友達。ただついてきただけだよ、仕事にはいっさい手を出してない」


「合ってるかい? ジョーイ」


「全部ぼくだなんて、そんな。お兄さんがいてくれて助かったのに」


 手と首をぶんぶん振って少年はニキアスの言ったことを否定した。ニキアスが店主のほうに目をやると、そこで視線がぶつかった。ニキアスはゆるく首を横に振った。すると店主は軽くため息をついた。どうやらこういうやり取りが常態化しているらしい。とんでもなくしつけの良い家庭で育ったのかもしれない。

 店主はいまのわずかなコミュニケーションで満足したのか、椅子から立ち上がってカウンターの先の店の奥に引っ込んでいってしまった。何も言わずにそうしたものだから、少年にもニキアスにもその意図がつかめなかった。突飛な行動をするようなタイプには見えないし、何か急な用事でも思い出したのかもしれない。

 待つといったほどの時間が経つ前に店主が戻ってきて、小さな革袋をカウンターの上に置いた。


「ジョーイ、こっちへおいで」


「どうしたんですか?」


「仕事をしてくれたんだから、それには対価が払われないとね」


 店主は革袋から貨幣を何枚か取り出して、仕事を済ませたばかりの子の手に握らせた。彼は予想もしていなかったのか、あわあわとしている。何度かニキアスにも視線が送られてきたが何も返ってくることはなかった。店主の言っていることは真っ当だったし、そもそもニキアスが助け舟を出すような事態でもない。それにこの頭の良い子が仕事と対価を切り離して考えているとはとても思えなかった。


「あ、いえ、もうルクレツィアさんからもらうって決まってて」


「でも私もジョーイのおかげで助かったから、それに報いたいと思ったんだ」


 どう見てもまぎれもなく小遣いだった。形式として名前を与えられただけのものだと三人ともが理解していた。しかし仕事の対価という名目は、その本質を覆い隠してしまう。そしてそのヴェールを剥がすのはとても難しい。すくなくともニキアスにはそれを剥がす方法がちっとも思いつかなかった。

 悪いことをしてしまったかもしれない、と思っているのか辺りに落ち着きなく目をやって、そうしてようやくありがとうございますとお辞儀をした。


「ジョーイ。このことは誰にも内緒だよ。ジョーイと私と、あとはこのお友達だけの秘密。お母さんにもね」


 店主はそう言うとニキアスにウインクを送った。ある程度年齢のいった男性だったが、それでもすこしチャーミングだった。ニキアスはわかったと頷いた。説明しろと言われても難しいのだが、彼もこういったことが必要だと思ったのだ。きっとこんな経験が、成長のどこかの、しかし近い段階で役割を果たすような気がしたのだ。


 外に出ても少年は店のほうをちらちらとうかがっていた。しかしその扉からは誰も出てこない。彼の手に渡されたものは彼のものだ。それをどう使うかは彼次第になった。使っても貯めても、ひどい話だが捨ててもいい。しかし返す選択肢はない。やがてそのことを理解したのか、角を曲がって店が見えなくなってから、彼は後ろを振り向かなくなった。

 実際の時間の経過と過ごした時間の感覚が、なんだか合わないような気分だった。疲れがたまっただとかそういう話ではない。濃度の問題だ、と言えばニキアスはその答えに飛びついただろう。実際、不思議な感覚ではあったのだ。バオが隣にいたなら絶対に体験できないと確信をもって言える。ニキアスはそんなふうに感じていた。

 それぞれ違った理由ですこし気が抜けていたのがやっと戻ってきた。気が抜けていたとはいっても歩くぶんには問題はないし、通行人にぶつかってもいない。言い換えれば自発的に話を始めることができる状態になったということだ。


「俺はきみをジョーイって呼んでいいのかな」


「そう呼ぶのはおじさんくらいです。ぼくはジョゼフといいます。ええと」


「ニキアスでいいよ。よろしく、ジョゼフ」


 お互いに名前を教え合うと二人は握手をした。年齢差がおおよそ倍ほど違う、とはいっても片方が八歳だから知れたものだが、二人は奇妙な店の主人を通して友人関係になった。ニキアスほどの年ごろになってくるとあらためて口にするのは気恥ずかしさが勝ったが、心の中で思うぶんには気分が良かった。

 これでニキアスはまた新しい関係を紡いだことになるが、思い返してみればそのどれもが不思議なものだった。旅をしてここに流れ着いたのが原因なのかもしれない。とりあえず言えそうなのは、村にいたころの関係づくりとはまるで違っているということだった。近い年齢の友達がまだいない。真逆とさえ言ってよさそうだ。


「ジョゼフ、これからどこ行くの?」


「商会です。ルクレツィアさんに済んだことを報告に」


「オッケー。それじゃあ行こう」


「え! まだついてきてくれるんですか!?」


「いまはとくにやることもなくて、むしろジョゼフについてったほうが有益でさ」


 芯からうれしそうな笑顔と声に照れくさくなったのか、ニキアスは顔を逸らした。街の地理を把握したい考えのある彼の口から出た言葉も、なんとなく言い訳くささが嗅ぎ取れるものになった。ウソそのものはついていないののだが。

 ルクレツィアとやらのいる商会は中心街に本拠地を構えているらしく、それだけでその権勢がよくわかる。どれほどかはわからないが、大きく優秀であることは間違いないだろう。もしかしたら孤児院の会議に参加しているかもしれない。もし仮にそうであるなら、このナウサの街にとって重要なギルドであるということだ。出席していた人物に何か悪いことをしたわけではないのだが、見張りを排除したこともあって、ニキアスも多少は気が咎めるのだった。


 二番街から中心街へと歩いて向かうと、なんとなくだが人の種類が違うな、という感覚がニキアスの頭をよぎった。それは肌の色でも髪の色でもない。二番街でも中心街でも見た目の色などさまざまなものに満ちている。しかしどこかが違う。現実的に説明のつけられない感覚に出会ったとき、自分以外がどうするのかは知らないが、ニキアスはその感覚を勘違いとせずに捨てなかった。つまり本当に何かが違うのだが、それが何かを当てられていないと考えるようにしていた。

 ジョゼフの後ろで直前よりも周囲に目をやってもその本質がつかめず、ニキアスはため息をついた。人が多いのは変わらないし、見た目も変化らしい変化はない。たしかに派手な格好をしている者もいるが、それはこれまで歩いてきたなかでも見られた範囲と割合だった。


「そのルクレツィアってひとがいる商会って、なんて名前だっけ」


「モリエール商会ですよ」


「ん、あれ?」


「どうしました?」


「いやなんでもない。たぶんこれは気のせい」


 モリエール商会という名をどこかで聞いたことがあるような気がしたが、すぐさま自分が思い出せなさそうなことを悟ったニキアスはその引っかかりを流した。それがわかったところで、聞いたことがある、と話題を盛り上げるタネくらいにしかならない。あまり大事ではないのだ。


 ジョゼフに案内されてたどりついたモリエール商会の本拠地は、もはや巨大と呼ぶのにふさわしかった。建物の外観からしてまず違う。周りと比べてひと際高く、かつ敷地が広い。それだけに収まらずデザインや装飾に力を入れていることがニキアスの目にもすぐにわかった。いびつなところのない滑らかな球形の一部が建造物の案として採用されているなど聞いたことさえない。一度見たら絶対に忘れられないほどの印象の強さだった。

 驚愕しているニキアスをにこにこしながらジョゼフは見ていて、そこから彼がこの実用性以上の点に目を向けた建物に慣れていることがよくわかった。新しい友人の新鮮な反応が面白いのだろう。ふつうなら目を奪われるべきは建物なのに、ジョゼフの目はニキアスに釘付けだった。


「……すごいな。こんな建物はじめて見た」


「大きいですよね。中心街だといちばん目立つと思います」


 そこでやっとこの街に来たばかりのころに、宿屋で少女から有名なギルドとしてモリエール商会の名前を聞かされたことをニキアスは唐突に思い出した。彼女いわく、ギルドと言われてぱっと思いつくもののひとつらしい。まさにそのとおりだ。こんなものを見せられて忘れろというほうが難しい。別に座っているわけではないが、ニキアスは膝を打ちたくなった。

 本拠地とは言いながら人の出入りはギルドメンバーだけではないらしく、扉は閉じたり開いたり働きづめのようだった。中に重鎮が控えているだけの事務所としての役割だけでなく、どうやら店として品物の販売も行っているようだ。二階や三階に執務室のようなものがあると考えれば不思議はない。仮に揉め事があっても上役がすぐに下りてこられる造りとも取れた。

 扉の真横から広く開けている設計のおかげか、想像以上に受け入れ人数や展示された品物の数が多そうな印象を受ける。入口からすべてが見えるわけではないが、広い店内にはいくつか間仕切りがあるようで、それごとに品物のイメージを変えているようだった。手前には比較的安価で手の出しやすいもの、奥には高級なものというふうに。できればそれぞれ見てみたかったニキアスだが、まずはジョゼフに付き合うのが優先だ。彼は迷いなく奥のほうに進んでいく。

 すこし進むととんでもなく巨大な幹のような柱があって、それの内側に入っていくような螺旋階段があった。その前には見るからに屈強な男性が立ち、客が立ち入れる場所でないことを示していた。通い慣れている客は目も向けない。それよりも商品を見ているほうが有益だからだ。


「こんにちは」


 ジョゼフはその門番のところにまっすぐ進んで声をかけた。ニキアスもこれには焦りを見せた。なんというか、怒られてしまうかもしれない。頭が良いのは先刻承知もいいところだが、その人生経験まではわからない。ああいった触れないことが暗黙の了解になっているところに声はかけない、ということを知らないかもしれないのだ。

 しかし状況は悪い方向には転がらず、番をしているひとは膝を折って目線を合わせてジョゼフと話をした。話題にされているのは少し離れた位置にいるニキアスのようだった。ジョゼフが振り返って手で指し示しながら門番に何かを話している。


「ニキアスさん、こちらです!」


「え、うん」


「こちらの方がニキアスさんです。ぼくの、友達です」


「……どうぞ」


 何が何だかわからないうちに通されて、ニキアスは螺旋階段を上がっていた。ちょうど幹の内側を半周すると二階に出た。採光性の高いフロアで、建物の中であることを忘れそうになる解放感だった。それは本来は壁であるべきところの多くがガラスで出来ているおかげだった。しかしそんな大きなガラス板を壁かつ窓に使うなどニキアスは見たことがない。きっと技術的に優れたことがなされているのだろう。その意味と価値は推し量ることさえできないが。

 階段を抜けたすぐ脇にも門番がいた。可能性の低そうな話だが、何かの間違いで下から来てしまった人を彼が返すのだろう。


「ルクレツィアさん!」


 そう明るい声でジョゼフが駆け出していった先は正面からはすこし左で、そこにはティータイムに使うのにぴったりの丸テーブルと椅子があった。座っているのは年齢のよくわからない物憂げな女性だった。きっと呼ばれたからなのだろう、振り向きはしたのだが、どうしてかその動作からはとろんとした印象を受ける。

 彼女はジョゼフの姿を認めるとふわっと笑んだ。何千何万と繰り返された滑らかさのある笑みだった。誰に見られることをも気にしない、完全に個人的な笑み。たかが表情ひとつにここまでのことを感じることなど、ニキアスには初めての経験だった。ルクレツィアの外見的な美しさの影響もたしかにあるだろう。けれども彼女のそれは一般的なものの域を出ない。それが不思議だった。


「ええ、ジョゼフ、いらっしゃい」


「頼まれてたお仕事、やってきました!」


「あら、はりきったのね。じゃあ前に私がいた部屋、わかる? あそこにこわい顔のおじさんがいるから、そのおじさんからお仕事の代金を受け取って来て」


「はい!」


 元気よく返事をしてジョゼフはまた駆け出した。すこし態度が明るくなったように見える。はしゃいでいるというか、彼女の言うようにはりきっているというか、子犬っぽいと思わないでもない。なんにせよこのルクレツィアという女性に信を置いていることには間違いがなさそうだ。

 ジョゼフが行ってしまうと、残されたのがニキアスとルクレツィアになるのは必然であった。二人はお互いに相手をジョゼフに紐づいた人物と認識しているから、彼がいなくなると急に宙ぶらりんの関係性になった。

 気まずいとは違う、どうしたものか、だけがニキアスの頭の中に渦巻いた。


「あなたは?」


「俺はジョゼフの友達でついてきただけ。何もしてないよ」


「そう。あの子が大丈夫と思ったのならいいわ。でも剣は下ろしてもらっていい?」


 そう言うとルクレツィアは立ち上がって手を伸ばした。さきほど振り向いたときと同様に、その動作には滑らかさともうひとつ似たような何かの成分が混じっていた。

 言われてみればここは大きなギルドの本拠であり、害意の有無とは別に武器は置くべき場所である。誤解を買っても面倒だ。ニキアスは素直に背負った剣を下ろした。そしてそれを伸ばされた手に渡すと、彼女は鞘をずらして刃の部分を眺めた。


「手入れが行き届いてるわね。慣れてるの?」


「ずっとやってるから。そういうのはおろそかにしちゃダメだって叩き込まれてる」


「優秀。これを売ってくれっていうのはわがままかしら」


「悪いけど断るよ。そういうのじゃないんだ」


 そうよね、とルクレツィアは軽く笑った。言葉の調子からも本気でなかったことは窺えたが、少しでも可能性を見せたらぐいぐい攻め込んできていたような気がした。彼女は少しだけ名残惜しそうに鞘を閉めて、丁重に階段のそばにいる門番のところに持って行った。きっと帰るときに返してもらえるのだろう。彼らにはここで不義を働く意味がない。信頼や信用を失うと閑古鳥の似合う商会になってしまうからだ。


「あんたはジョゼフとは?」


「あの子は私の親友の子なの。だからついつい甘やかしたくなっちゃって」


 場を離れたジョゼフの後を追う穏やかな目が、ただ慈しみから来るものだと直感がニキアスにそう告げた。彼は慈しみなんて感情を言葉として使ったことさえないが、しかしそうであることを理解した。これを何と呼ぶでしょう、という問題ではなく、答えを目の前に突き付けられたような感覚だった。

 直感に教わるという衝撃から立ち直るのに二秒かかり、見るという主体的な動作が彼の手に返って来たとき、ルクレツィアはすでに視線をニキアスに戻していた。


「聞いているかしら、あの子、弟か妹ができるの」


「え、あ、そうだったんだ」


 あんなに小さな子が頑張る理由がここでつながった。家族のために頑張っていたのだ。きっと、ただ漫然と過ごしてはいられなかったのだろう。年齢に不釣り合いな覚悟に悲壮感が漂っていなかった理由はこれだ。やがて来る新しい家族への期待に胸を膨らませていたからだ。ニキアスには急にジョゼフの振る舞いがかわいらしいものに感じられてきた。彼は、お兄さんになるのだ。

 ニキアスがその話を知らなかった反応を見せると、知っているものと思い込んでいたのか、ルクレツィアは眉根を寄せて決まり悪げに苦笑した。


「え、やだ、話してもらったときは知らない体で聞いてあげてね」


「わかった」


 ジョゼフがすぐに帰ってこないことに、ニキアスは不安や違和感を覚えなかった。おそらく彼は訪ねた先でまた丁寧にお礼を述べたりしているのだろう。もしかしたらすでに何度もここに通っていて、それで離してもらえないほどの人気者なのかもしれない。

 二人でいることによる気まずさがあるわけではないが、ニキアスはなんとなくルクレツィアに視線を送った。お互い様ではあるのだが、ほとんど情報がない。ギルドのなかでもとくに大きいモリエール商会の本店の二階で、こうして気だるげにしていられる人物と見ると大物のような気がしてくる。仕草も鷹揚で、立場がその振る舞いを作っているのかもしれない。

 窓の外を眺めていた彼女がニキアスの視線に気づいたのか、振り向くと安心させるようにふわっと笑顔を浮かべた。


「大丈夫よ、私にモリエールの血は流れていないから」


「ごめんなさい、すこし意味が」


「上のほうでガシガシやってないってこと」


「ああ、親族経営?」


 いつの間にかルクレツィアの口元を手が隠していた。すさまじい俊敏性ではなく、本当に気が付けば手がそこにあった。先ほどまでとは違ったくすくす笑いでさえ品を失わない。


「そう、そうよね。いまの言い方だとそう聞こえるわね。ふふ、いえ別に間違っているわけではないんだけれど」


 ニキアスには自分の言ったことのどこに笑えるポイントがあったのかがわからなかった。けれど人が笑っているのに悪い気はしない。もしかしたらバオが話好きなのもこういったことが理由なのかもしれない。だとしたら納得だ。成功体験を重ねれば、どんどん楽しくなってしまうのに違いない。

 彼には、ニキアスにはすこし単純なところがあるのかもしれない。ルクレツィアに対して、すでにはじめよりも話しやすい人という印象を抱き始めていた。

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