08 不思議な家の話
「どうする? すぐ借りに行く?」
多くの人が昼食を終えて、休憩に入る時間。初めての邂逅とは反対に、太陽が高いところで満足げに輝いている。あの深夜の帰り道とまったく同じ通りなのに、印象がまるで違う。こんなに色鮮やかだったのかとわざわざ口に出したくなるほどだった。太陽が真南の高いところにあるせいで影は短く、濃かった。
ニキアスの問いは単純なもので、イザベルに提示された場所にさっさと行ってしまおうという意図のものだ。昨日の今日で孤児院を訪れたのは住処とする場所の話を聞けるからで、もちろんイザベルは約束を違えなかった。
「んん、ニキアスの言うことにも一理はある。でもなあ」
「疲れた?」
「それは大丈夫。まあ、歩きながら話そうか」
ニキアスは首を傾げた。最近は首を傾げてばかりだ。いつしかそれがクセになってしまいそうな気さえする。わからないことがあるのは当たり前だし仕方のないことだが、そんなことばかりだとうんざりしてしまう。彼はまだ、ひとりの人間など無知であることを受け入れる段階には達していない。
住宅地をゆっくり歩く。店らしい店はもっと中心街のほうへ行かないと見つからない。真昼の人出は少なかった。バオの手の先の花束から花びらが一枚落ちた。
「イザベルがさっきどんなふうに言ったか思い出してごらん」
「えーっと、二番街の端のほうにいい貸し家があった気がしますね、って手書きの地図までくれた」
「一言一句ぴったりその通り。さて、実はここで考えないといけないことがある」
言葉で尋ねる代わりに視線をバオに固定することでニキアスは続きを促した。
「この場合はイザベルにしろ孤児院にしろ、どちらにせよ彼らはバレたくない立場の人間だ。そんな彼らが孤児院以外に物件を持つのって考えにくいのはわかるかい?」
「正直よくわからない」
ニキアスの表情は悲しそうでさえあった。バオは肩を軽く叩いてそれを励ました。こういうのは考え方だ、いずれきっと吸収できるさ、と。その調子が真剣でないことがニキアスにとってはありがたかった。軽い言葉のほうが人に効く事例など世の中にいくらでもある。大事なのは時と場合を外さないことだ。
少年は視線を外すことなく聞く姿勢を続けた。
「なんで孤児院が他に物件を持っているんだ? と疑われたくないのさ。イザベルたちはほんの少しでも目を向けられたくない。悪いことはしてないけどね」
「じゃあ俺らに勧めたその物件って何?」
「孤児院の持ち物じゃない、でも私たちに渡せる。その条件だよ、ニキアス」
「……あまりいい予想が出て来ないけど」
「私もそう思う。でもまあ試験くらいのイメージでしょ。あるいは挑発かな」
あまり穏やかでない結論に行きついて、ニキアスは少なくとも気分を良くはしなかったらしい。嫌というよりは面倒そうな感情が目に表れていた。その一方でバオにはまるで変化はない。天気の話、店先での雑談、道を聞かれたのと表情に違いを見つけられない。いつものように背が高くて、美人と評される顔をしていた。
すでに自身の中で答えを導いているらしいバオは、隣でいろいろ考えをまとめるニキアスを横目に静かに歩いていた。
「ねえバオ、これって仕事ってこと?」
「それでいいんじゃない? ちょっと規模が見えないけど」
「……もしかしてイザベルさんってけっこう性格悪かったりするのかな」
ははは、とバオは楽しそうに笑った。
やはりまだ人の少ない真昼の住宅街で、ふたりは大雑把な行動計画を立てた。まずふたりのあいだで共有されたのが、その物件にはおそらく人がいること。そのうえで調査を進めることとなった。今回は急務でこそないが、早く済めば済むほどふたりの宿代が浮く。別に余裕がないわけでもないのだが、節約になることもあって彼らはさっさと取り組むことに決めた。
乱雑な情報を手に入れるには無作為に人がいる場所がいいと相場が決まっていて、バオとニキアスは夕食時に酒場を訪れていた。左から大きな笑い声がしたかと思えば右から怒声が飛んできた。雑多という言葉がこれほど似合う場所もそうそうない。五感のうちの触覚以外のすべてがうるさかった。
ふたりはカウンター席に座ってただゆっくりと食事をした。自分たちから前に出て情報を集めてもよかったのだが、いきなり他人に話しかけて聞きたいことを投げかけると厄介なことになりかねない。なにせここにいるのは多くが酔客だ。声をかけただけでケンカを売られたと勘違いするほどに仕上がった連中が両手では数えきれないほどにいる。そんなのを相手にするくらいなら、話しかけてきた人物を相手にするほうがよほどラクなのだ。出身が違ってもバオとニキアスのあいだにはそんな共通認識があった。もしかしたら世界的なものなのかもしれない。
金髪の少年と背の高い美女の組み合わせはどうしようもなく目立った。街でだって視線を集めてはいたが、今ほどではない。ふたりは移動せずにその場に留まっているのだ、眺めるのにこれ以上の好条件はなかった。そして酒の入った客は恥じらいだとかそういった心の動きが鈍っていた。
「ようねえちゃん! やってるかい!」
肉質の固そうな体格のいい男がジョッキを傾ける仕草をしながら声をかけた。酒場と港がよく似合う感じだ。できあがっているかはわからないが頬は赤い。すこしは回っているようだった。
「いいや。悪いね、まだ口をつけてすらいないんだ」
「なんだいメシを食うのにそれじゃあ物足りねえだろう、さ、頼みな頼みな」
「まいったな、オゴると言われちゃ無視もできないじゃないか。旦那! エール大ジョッキふたつ! こちらの男前がご馳走してくれるってさ!」
間髪入れずに注文を入れて男に視線を投げて、軽く片目をつぶれば出来上がりだ。ズルでもなんでもない、ただのサービス。先払いでお代を受け取っただけのこと。たしかに男にも油断はあった。しかし迷いなく勝手に注文するのは手癖が悪いとしか言いようがない。
まんざらでもないのか余計な支払いが増えてしょんぼりしているのかそれとも別の表情なのか、よくわからない感情が顔に浮かんだ男はこう返すしかなかった。
「おいおいおいおい、上手いなねえちゃん。ちぇっ、カカアに怒られちまう」
「ふふん、楽しくいこう。なに、あなたはこの街で初めて私にオゴってくれた人なんだから誇りに思えばいいのさ。私は恩は覚えているほうだぞ?」
「やめなよ、口説くつもりは欠片もねえさ。アンタみてえのはもっといいのとよろしくやってりゃいい」
そりゃそうだ、とバオが明るく言った途端にどっと場が湧いた。指笛まで聞こえてくる。ただ近づいて話しかけただけなのにオゴらされたうえにフラれた扱いを受けた彼には同情を禁じ得ない。こういった雰囲気を見るに常連客が多いのだろうか。もしそうであればこうして空間に受け入れられたことは大事なことだ。
あらためて店内を見渡してみるとひとつひとつのテーブルが大きい。カウンター席でなくても知らない人が隣に来ることは珍しくなさそうだ。そのわりにどこも騒がしくしているのを見るとおおまかな地域性がわかってくる。
やっつけられた男、この表現は正しいだろうか、は先ほどのやり取りを気にせずにまた声をかけてきた。
「ところでアンタ、この街で初めてっつったよな。ヨソから来たのかい?」
「そうなんだ。ちょっと長旅でね」
「長旅ねえ、大変だったろう。遠いトコじゃいろいろあるって噂も聞くしなあ」
「噂?」
「どっかの国の王様が狂っちまったとか、洞窟だか遺跡だか知らねえけどその調査隊が帰ってこないとか、あとは魔女が逃げたとかよ」
「魔女? 所在の割れてる魔女がいるんだ?」
「いやさすがに魔女は嘘だと思うけどよ。全部聞いた話さ」
「まあそうか、誰に聞いても答えが出るわけもないし」
「そうさ、それよりアンタも旅の間に何かに巻き込まれなかったか? 大丈夫か?」
「……うーん、幸いどれも初めて聞いたよ」
「ならいいのさ。ロクでもないことに関わったっていいことなんてねえしよ」
やれやれとかぶりを振ってため息をついた。男の言うことに間違いはない。危ないもの、面倒くさいもの、そういったものには近づかないほうが賢いのだ。この感じだと彼はロクでもないものに関わって苦労した思い出があるのだろう。
こういう場では当たり前の、それどころか半ば儀礼的な質問をバオは飛ばした。
「そういう遠くの噂って誰から聞くのかな」
「ここは港町だからな、船旅で来たやつとかだよ。旅商人もいるし、いろいろだ」
ああなるほど、とバオはジョッキを傾けた。たしかに船を経由すれば遠い国の話も入ってくる。噂なんてどれも正確性はあてにならないが、量と範囲の広さには違いが出てくる。もちろんバオとニキアスが来たように陸路もある。情報の集積という意味では思っていたよりも面白い街なのかもしれない。
いくらかジョッキを呷って話をした。街に来てそれほど経っていない、といつものように言えば、判で押したように彼らはこの街についていろいろ話してくれた。その流れが欲しかったものになり、バオはしたかった質問を投げた。
「実はこのあたりに家があればいいなと思って探してるんだけど、いいのある?」
家、という単語が出た瞬間に男の顔がこわばった。まずいと思ったのか無理をして表情を修正しようとして、そしてすぐにそれが手遅れだと理解してすぐに白状した。
「あー、あんまり大声じゃ言えねえからよ、内緒で頼むぜ。実はよ、空き家のはずなのに人がいるっぽい家があるんだよ。二番街の端にな。お化け屋敷なら冗談で済ましちまうんだが、どうもそうじゃないらしくてな」
「なんだか微妙な物言いに聞こえるね」
続きを促す言葉に男はほんのわずかなあいだためらって、視線をカウンターに落としてから話を続けた。ジョッキを握る手には力が入っている。バオはまた喉にエールを滑らせた。男とバオにはなんだか温度差が見える。
「いやなに、家なんだからカギがあるだろ。その空き家の持ち主がカギを持ち出すどころか触れもしてないのに、その家でがさごそ何かしてるような音が聞こえることがあったらしくてな。一回カギ開けて確かめてみたんだけど誰もいなかったんだ」
「じゃあ結局人なんていなかったわけだ」
「違うんだ、わかるだろ、こう、人がいたなってわかる雰囲気っつうか匂いつうか。そいつがあるんだよ。影みたいにぴったりくっついてるんだ、家の中に」
「ふうん。じゃあそれは疑えないね」
「おいねえちゃん、自分で言っといてなんだが、嘘くさい話だとは思うぜ?」
眉一つ動かすことなく、何を当たり前のことを、というふうにバオは返す。
「そりゃ善意の言葉だからだよ。空き家はあるにはあるけどなんだか変な感じだから忠告のつもりで教えてくれたんだろう?」
「……はあ、あんた」
「いい女だ、って? 残念ながら私は条件を満たしてないんだ。憧れはあるのにね」
まだ残っていた皿の上のゆで卵のスライスを口に入れて、またジョッキを呷った。ペース早くぐいぐいと飲むタイプではないらしい。調味料はない。素材の味を楽しもうという主義なのかもしれないし、今日はそういう気分なだけなのかもしれない。
返ってきた言葉に呆気に取られた男は間抜けな顔をしたまま、ただバオの横顔を眺めていた。変な言い方だが、まだ何も言っていないのに評価を奪い取られて、さらに否定まで食らってしまった。冗談で言うのならまだしも、事実についてそのままのことを述べたような具合だった。当然のことだが、男はこんなことを言う人間に出会ったことがなかった。周囲は周囲で、もう好き勝手に騒いでいるなかでのことだったから、彼が耳にした言葉が本当に存在したことを知っているのはその場にいた彼だけである。彼はこの先の人生で、このヘンテコな会話のことを幾度か友人たちに語って聞かせるのだが、誰にも信じてもらえずに生涯を閉じることになる。別にそのことで誰も不幸になることはないし、総じて男の人生は死の際でもまあいいかと言えるほどのものだった。それでもこのシーンは彼の頭に最後まで焼き付いていた。
夜の風は涼しく、酒場の熱気にあてられたふたりの頬に心地よかった。バオは話を聞き終わったあともなかなか楽しくやっていたらしい。もしかしたら飲み友達ができたかもしれないね、などと上機嫌だ。一方でニキアスはひどく疲れた様子だった。それのそのはず、年上の女性に絡まれまくっていたのだ。まだ少年らしさの残る顔立ちなんて、ああいった明るい雰囲気の酒場の女性陣が放っておくわけがない。年齢幅こそ広かったもののお姉さまがたに囲まれて、ニキアスは左右の区別もつかなくなるほど大変だったのだ。情報収集などできるわけもない。むしろ情報を取られた側ですらあったくらいだ。
意味合いの違うため息が同時にふたつ。意味があろうがなかろうが、どちらも空気にさっと溶けていった。腰を据えてこれからの行動を決めたかったから、ふたりは並んで宿に帰ることにした。あまりに温度差があるものだから彼らは帰り道では一言も話さなかった。
ロビーのソファに並んで座って一息ついて、そうして話し合いが始まるところだった。ニキアスの疲労もだいぶ取れたらしい。顔の向きはまっすぐ前に戻っていた。
「さてニキアス、どういう手段あるいは順序で取り組むべきだと思う?」
「家主さんに話を通すのが最善だと思うけど。無断はまずいでしょ」
「同じ認識みたいだね。うまくやれば安く借りられるかもしれないし」
多少はふたりのあいだでメリットデメリットの配分が違っていそうではあったが、大筋での考え方は共通しているらしかった。そして細かいところは一致させる必要のない部分だ。断りを入れずに空き家で暴れたらどう見ても事件性のある問題行動である。そんなことをしてしまえば絶対に家は借りられない。悪くすれば噂が広がってナウサの街に借りられる物件がなくなってしまうかもしれない。想像力。社会生活を営んでいくうえで重要な能力だ。
座っているふたりの前には脚の短いテーブルがあってバスケットに花がこんもりと飾られている。季節の花なのか色とりどりで綺麗だ。バオもやはりいつも通り花束を持っていて、いまは膝の上にそれを置いている。色合いの問題なのか、比べて見ると膝の上の花束のほうが褪せているような印象があった。
「じゃあ明日さっそく家主さんとこ行こう」
「うん、それがいい。ふつうに家を借りたいんだけど、って感じで」
「交渉はバオに任せるよ、俺まだ周囲の事情とか考えてそういうの回せない」
「そうかい? そう言うなら私がやるけど」
バオはティーカップを口に運んだ。ニキアスはお手上げという意味なのか、軽く両手を上げた。
カップを傾けている途中でぴたっと止まって、バオはそれをゆっくりテーブルの上に戻した。どこか細工じみた動きだった。
「そういえば、酒場じゃモテモテだったみたいだね、あまり見られなかったけど」
「あれ大変だったんだ本当に。酒入ってるからみんなイケイケで来るんだよ」
「キレイなお姉さま方に囲まれて楽しかっただろうに。もったいない」
「誰が何言ってるかわかんない状態が楽しいと思う?」
「ああいう場はそういうもんさ。なんだ、意外と理屈屋さんなのかな」
首を傾げながらのバオにニキアスはじとっとした目を向けている。感性がはっきりと違うらしい。たしかにこれまで酒場の経験は浅い。行ったことはあっても隅っこのテーブルでひっそりと食事をしただけだ。ニキアスからすれば今日のような誇張されたと言ってもいいほどの酒場的体験は初めてだった。びっくりするのは自然だし、最初からその波を乗りこなすのにはちょっと特殊な能力がいる。彼が大変だったとこぼすのは当然だった。
バオは隣で楽しそうに笑っていた。軽い苛立ちくらいならもういいや、と多くの人が思ってしまうくらいのからっとした嫌味のない笑い方だった。この人はずいぶんと多くの笑い方を持っているな、とニキアスは思った。彼にはそんなことは想像もつかないが、もしかしたらバオの中には棚みたいなものがあって、そこには名前のつけられた笑顔がいくつも陳列されているのかもしれない。
「でも俺、理屈は大事だって教わったよ」
「そうだね、私も大事だと思う」
「え、じゃあなんでいま」
「きみがそういうタイプのひとなんだって認識しただけ。理屈屋もいいものだ」
「バオってもしかして嫌いな人いなかったりする?」
「そんなことはないさ、いるよ。前にもやっかむ人が嫌いだって言ったし。他にも、でも、こう、すごく説明が難しくはある」
難しいことを説明するときによくするように、バオは胸の前あたりで人の頭ほどの大きさの球体を持つような感じで両手を出したが、すぐに降ろして諦めた。個人名を出してもニキアスには伝わらない。
その辺りで話はやめにして、ふたりはそれぞれの部屋に戻ることにした。バオは朝の日課があるから早く寝られるならそのほうがいいらしい。
酒場で聞いた空き家の家主は、貸し家を持っているからといって自身が豪勢な家に住んでいるわけではなかった。特別なところのない二階建て。すこし中心街に近いから立地は良い。事前に約束を取り付けているわけではないのに、あるいはだからこそふたりはその家の呼び鈴を鳴らした。
わずかに間があって、カギの音がして扉が開いた。その向こうには穏やかな雰囲気の老人がいて、そしてくぐもった声を出して一歩下がった。バオの身長に驚いたのだろう、ちょっと背の高い成人男性よりも頭の位置が高いのだ。
「失敬、老台。あなたが二番街の端にある空き家の持ち主だと聞いてね。話を伺いたくこちらまで来た」
「え、あ、ああ。あそこか……。とりあえず中に入りなさい。お茶を出すよ」
「お言葉に甘えて」
玄関先でのやり取りはよどみなく、ふたりは家主の家へと通された。バオの手にはいつものように花束が、ニキアスの手にはまだ外が明るいのにカンテラがあった。
中は掃除の手が行き届いており、正しい意味での生活感が満ちていた。底の浅いカゴには果物まで盛られている。あるいはバオとニキアスのように彼に話を聞きに来る人が多いのかもしれない。だとすれば貸し家をいくつも抱えているのだろうか。
きっと家主がふだんから使っているのだろうダイニングテーブルにふたりが座る。お茶を出すと言ったこの家の主人は台所にティーポットを取りに行った。自然、バオもニキアスも手持ち無沙汰になって周囲を見回した。古いというよりは使い込まれて年季が入っていると表現したほうがより適切だ。大きな家具もこまごましたものも、どれも手入れが行き届いている。この人が管理をしているのなら、なるほど貸し家の人気が高いのものうなずける。来客が多そうなことに合点のいくものだった。
すこしあってティーセットをトレイに載せた家主が戻って来た。カップに不思議な香りのする温かい液体を注ぐ。
「マジョラムを使ったハーブティーですか、なかなか趣味人でいらっしゃる」
「はあ、すぐにわかるものかね」
「なに、たまたま縁がありまして」
一礼して香りを楽しむ。もう飲まなくてもいいのでは、と思えるほどに満足そうな表情を浮かべている。これまで見たバオの顔の中でもとびっきりのものだ。しかし残念ながらニキアスにはそのニュアンスはわからない。いい香りだとは思っても、その中での細かい色合いに区別をつけられない。名前も意味も与えられない。背伸びをする趣味のないニキアスは、味のほうが気になった。
話をしに来たのに最初から全員が静かにしている不思議な時間があった。目の前のカップに集中している。ニキアスにはそれがあまりに不可解に見えて、なにか儀式でも行っているのかと錯覚しそうになった。これは気のせいだろうが、時間の流れがわずかにゆるやかになった感覚さえあった。
「それで、きみたちはあの外れの家を借りたいとのことだが」
「外れとはいっても二番街です。立地はいい。むしろ空いているなら狙い目ですよ」
「それはそうかもしれないが、しかし、あそこは……」
「聞き及んでいます。いわくつきとまではいかなくとも、妙な気配があるとか」
言いよどんだ家主の言葉を補うように、バオは続けた。彼女の口調はいつものように変わらない。そもそも事前に噂を聞いてきて、それでもなおここに契約の話をしにきているのだから当たり前といえばその通りではある。しかしそれにしてもあまりに平然としすぎではないか、という頭の端のほうにひっかかるものはある。
そう返された家主も驚いたようで、二度三度と瞬きを繰り返した。一般的な考えでいえば、変な噂のついた物件に住みたがる人間はほぼいない。そういうのを好む例外的人間や、やむにやまれぬ事情を抱えた人間くらいだ。その枠の人間に出会えば、それは家主としては驚くし、そうでないのに借りに来たのならもっと驚く。
「いや、だから貸せんという話なんだが」
「何かがあるならどうせ原因があるものです。どうでしょう、その調査をさせてくれませんか。そしてそれを取り除いたら報酬として家を貸してもらう契約というのは」
「……それは、依頼主と請負の立場が逆になっているような」
「私たちが家を借りたい。これがスタートですから」
すくなくともフラットな交渉とは呼べない不思議な提案に家主は戸惑った。彼からすれば頭の痛い問題の解決に手を貸してくれるうえに、その物件を借りてもらえるのだ。有利な条件しかない。仮に訪ねてきたふたりが何の役に立たなかったところで失うのは時間だけだ。それもちょっとだけ。しかし提案の根を見てみると、たしかに彼女の言うように彼らふたりがすべてを請け負うのが正当に思えるのだ。
しかし、それならいいじゃないか、とよく考えもせずに提案を呑んでしまうような人はあまりいないだろう。家主もその一人のようで、彼なりに想定できる不安な点を投げかけた。
「危険なことにならない保証は?」
「おそらく人が相手である以上、まったくの安全は保証できません。とはいえ心配はいらないでしょう。大丈夫ですよ」
「……その調査には私も同行させてもらうが、構わないかね」
「ああ、まあ自作自演の心配はありますか。ではご同行をお願いします」
こうして一行は二番街の端の、件の空き家へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます