09 水路を行く

 ああなるほど、というのがニキアスの第一感だった。間違いなくここには人の影がある。住んでいるかはわからない。というよりは酒場での情報を総合すると住んではいないのだろう。しかし、というところだ。前に住んでいた人が置いていった家具のほかには目につくもののない、がらんとした空間。空き家らしい空き家だ。それでも明らかにここには人の痕跡がある。しかもそれを隠そうともしていない。

 家主もバオも扉を開けた玄関のところでさまざまなところに視線を飛ばしている。生きた人の匂いが誰にでもわかるのだ。ただそれと比べて音がない。


「おそらく誰もいないでしょうが、老台、上の階から見ましょう」


「あ、ああ。玄関に見張りはいらないんだね?」


「逃げるなら追えばすぐです。音も立ちますし、問題はどこにも」


 ぎ、と階段の踏板が軋んだ。日常生活ではあまりに身近すぎて耳に残らない音だ。それが家の調査という任務になって途端に目立つ。誰も口を開かない。神経を張っている。階段の途中の壁の窓にはカーテンがかかっているが、太陽の光を完全には遮断できずに屋内は薄暗い程度の明るさになっている。ぎ、とまた足元で音がする。

 二階は部屋が三つあるシンプルなものだった。家族で暮らすなら三人か四人が適切だろうか。それ以上を考えるなら、夫婦が同室なのはいいとして、兄弟が同じ部屋となるとケンカになってしまうかもしれない。

 ドアはそれぞれ開いていて、どれも入るのに困らなかった。同じ備え付けの家具が置いてあって、向きこそ違うが同じクローゼットがついている。敷地と建物の構造の関係で、ひとつだけ部屋がすこし大きかった。予想通り誰もいない。クローゼットの中に隠れている怪しい人物が見つかるということもなかった。


「では一階へ」


 ダイニングとキッチン、リビングルーム、もうひとつの部屋。お風呂場とトイレが別にあってこの家の全体像だ。全体を軽く調べたがおかしなところは見つからない。バオもニキアスも当然と思っているようなそぶりだった。立ち止まって考えることもしない。本当に人がいないことだけを確かめているといった動きだった。

 家主が定期的に手入れをしていると言うだけあって、たったいまから使おうとしても簡単な掃除くらいでじゅうぶんな室内だった。バオは無遠慮にテーブルに花束を放って椅子に腰を下ろした。そこで初めて動きを止める。


「ニキアス。きみはどこだと思う?」


「あっちの部屋のタンスかな。動かせて隠せるのあれぐらいでしょ」


「ん? 何の話を?」


 急に話を進め始めたふたりに家主が質問を飛ばした。彼はまだこの家に人が現れるという前提に立ち切ってはいない。勘違いの可能性を捨てていない。そのせいで彼らの実際的な考え方と判断に出遅れた。


「この家のどこかに地下に通じる縦穴があるはずです。その場所の話ですね」


「いや、しかし」


「ここに人が来ていたのは確実です。でも外からじゃ入りようがない。ドアも窓もカギが閉まってる。じゃあそれ以外となれば地下しかない。どこかに穴あけたんでしょうね。どうやったのかは知りませんが」


 それだけ言うとバオはさっと立ち上がって花束を手に取った。ニキアスが先導する部屋に向かって歩いていくのを、家主は少しのあいだぼんやり見ていた。

 三人が入った部屋にはタンスとクローゼットのほかには何もない。誰も住んでいないのだから当たり前のことなのだが、殺風景で、取り残された感じがあった。用途が決まるのは、住む人が決まってから先の話だった。時間が停まっていた。

 しかしバオとニキアスにはこの部屋が何かに使われているものとして映っていた。できる限り床を傷つけないように頑張ってタンスを動かすと、果たしてそこには何もなかった。日に当たっていないぶん劣化していない床があるだけだった。


「あれ、ここじゃないんだ。私もそうだと思ってたのに」


「あとどこだろ、床に穴あけて気付かれにくいの」


「さてねえ、いたずらを働く連中の考えなんてよくわからないもんだよ?」


「そうだけどさ、……って、あ、バオ、あそこ、クローゼットの床板」


 ぴたっとニキアスの顔がある地点で止まってバオを呼んだ。視線の先を追ってみると、たしかにクローゼットの向こうの板がその仕切りの部分に乗っかっている。備え付けのものなのだから施工ミスでもなければこうはならない。家主は不思議そうな表情を浮かべている。


「おうおうちょっと浮いてるじゃないか。ははあ、怠けたな?」


「どうしたの、どういうテンション?」


「いやなに、なんだか不穏な噂の立っている家であやしいところを見つけられてアガってるんだよ」


「そ。で、怠けたってどういう意味?」


「誰もここまで調べないと思ってタカをくくったんだろう。たぶん床板をぴったりもとに戻すとまた開けるのが手間なんじゃないかな」


 ずかずか近づいて本当は動かせないはずの床板を持ち上げる。もちろんその下には家の基礎の土台があって、この家のそれは石材らしい。本当ならそれで済むはずのものが、しかし見逃せないものがそこにある。石材に取っ手がふたつついている。どう考えても家としての機能からすれば必要のないものだ。家主はそれを後ろから見て、これは、などとつぶやいている。

 バオは一度右手で軽く上げようとして、さすがに片手では無理だと判断したのか、花束を部屋の床へ放り投げた。そしてためらいなど見せずに取っ手を両手でしっかり持って踏ん張った。


「……んん! あれこれめっちゃ重い。私無理だ。ごめんニキアス、代わって」


 クローゼットの中が広いわけもなく、取り組めるのは一人だけだ。蓋の役目をしているのだろうその石の奥には、おそらく人が余裕で通れる円筒状の縦穴が口を開けている。したがって円形の石蓋の直径もそれなりに大きく、厚み次第ではけっこうな重さになりかねない。ニキアスが引っ張り上げるための取っ手をつかんだ瞬間、これはなかなか苦労しそうだな、という直感が走った。

 上にまっすぐ持ち上げなければ引っかかってしまうせいで、かなり力の入れ方が難しい。蓋は両足でまたぐようにしないと腰を壊してしまいそうなほどの重量を主張している。

 ごりごりごり、と重たく粗くこすれる音がする。合間にはニキアスの息と声が漏れていた。腕だけでなくこめかみや額にまで血管が浮き上がっている。一度でも諦めて下ろしてしまえば二度目はなさそうだ。体力的にも精神的にも。


 わずか一分にも満たない戦いではあったが、しかしニキアスの消耗は強烈だった。分厚い石の上蓋を外すと、立ってなんていられないと言わんばかりに床に転がった。荒い呼吸は肩の上下をともなって、ぜえはあと胸を膨らませては縮ませている。

 蓋の奥の穴からは湿った匂いが立ち上ってきた。光の当たらないところにしか発生しない、触感に近い匂い。


「この穴の先に誰かがいるわけだ。ありがと、ニキアス。しかし臭いねえ」


「あのさ、はあ、げほ、覗いた感じ、どう?」


「何も見えない。明かり持ってかないとダメだね」


「深い?」


「ふむ。なにか落としてみようか」


 座ってゆっくり呼吸を整えるニキアスをそのままに、バオは小さくて硬いものを探し始めた。小石くらいがちょうどいい、とぶつぶつつぶやきながら室内を見回していたが、誰も住んでいない家には条件にあてはまるものがないようだった。そうとわかると彼女はすぐに玄関から出て小石を取りに行った。

 迷うことなくぽんぽんと行動に移るバオとは違って、ニキアスと家主は石蓋のある部屋にいた。ひとりは体力の回復、もうひとりは何かをする前に次々と状況が展開していって置いていかれてしまったかたちだ。小石を取りに行った背の高い女としか話をしてこなかった家主は、そこでようやく起き上がった少年に話しかけた。


「きみは、あの女性の弟なのかな」


「え? あ、いや、違います。ちょっと前に規模の大きな請負い仕事に参加したときに偶然に組まされて。それからずっと」


「なにか決め手のようなものはあったのかね、こう、組もうと決めた理由というか」


 質問を受けてから五秒ほど間があってから眉根が寄った。


「……あれ? ないかも。なんとなくの流れで来てる気がする」


 ニキアスのその言葉に家主が何かを返そうとしたところでバオが帰ってきた。石を拾うのに時間はかからない。彼女はさっさと縦穴のところに行って、持ってきた石をひとつ落とした。一秒と二秒のあいだでかつんと軽い音が聞こえた。つまり下は柔らかくない材質の床だ。音のイメージは石床に近い。この穴も合わせて人の手が入っていることは疑いようがなくなった。

 ニキアス、と呼ばれて彼はすっと手を伸ばしてカンテラをバオに渡した。真昼間からこんなものを持ち歩いていたのはこのためである。少年があまりにも当たり前のように持っていたものだから、家主も疑問に上げられなかったものだ。


「よしよし、そうだね」


 バオが縦穴のふちを調べ始めるとすぐに満足そうに頷いた。


「何かあったの?」


「はしごだよ、はしご。埋め込んでる。相手がびっくり人間って線は消せそうかな」


「まあまあ深さありそうなのにはしごがなかったらマズいでしょ。飛べる知り合いでもいるの?」


「冗談だって。さて、さっさと下行ってみようか。私が先でいい?」


 聞くが早いかカンテラで片手を埋めたまま彼女は穴の手前側についているはしごを降り始めた。クローゼットの外から見ているだけだとわからないが、音で判断するとどうやらはしごは金属でできているらしい。それにしてもずいぶんはしごを使い慣れた人間のテンポだ。カンテラで下を確認しながらの速度ではない。

 その不均一なリズムを立ったままでなんとなく聞き続けて少し経つと、ニキアスははっと我に返った。このままでは彼自身は下に降りられないのだ。


「家主さん! ごめんなさい、カンテラって持ってますか!?」


 迫力に押されたのか、家主はおずおずとうなずいた。


 はしごを降りきったそこでまず目についたのは水路だった。音もなく静かに流れるそれは、カンテラの明かりを反射させることでやっと確認することができた。海へと流れていくのが結論ではあるのだろうが、上手がどこにつながっているのかはわからない。興味深いのは街中にある井戸とは深さの地点が違うことだ。穴があの家につながっている時点で決まっていることだが、壁面と天井を見ても人工物であることは動かせない。意図があるのだ。それが何かはわからないが。

 周囲を明かりで照らしてみると、水路は街路のように道が枝分かれしている。そうなるとまず思いつくのが排水路だ。しかし、とバオは思う。労力と見合うだろうか。そもそもこのナウサの街はむちゃくちゃな大きさだ。計画的に設計されたというよりも、人口増加にあわせて外縁を拡げてきたはずの街だ。かみ合わないところがある。

 バオは首を振って注目するポイントを下げた。足元には露骨なまでに足跡がついており、それはまずは下流のほうへと向かっていた。


「ニキアス、こっち側。足跡がある。先頭お願い」


「オーケー。じゃあ後ろお願い」


 家主をあいだに挟んで三人は歩き始めた。歩くのに合わせてカンテラが揺れて、それに合わせて影が大きく伸び縮みする。光源がそれしかないから、影は地上で生まれるものよりもずっと強い色をしていた。いっそ薄い真っ黒な膜のようなものと説明したほうが近いかもしれない。光が当たっていないところは何も見えなかった。

 音を立てるものがほかに何もないせいで、彼らが立てる音はくっきりと際立った。反響して、彼らより先に別の水路へと折れていった。こんな特殊な状況に出くわすことはあまりない。ときおり脳をぱしんと軽くはたかれるような変な感覚に襲われた。


 不思議なもので、時間の経過がわからなくなった。手元に明かりがあるとはいえ、彼らを囲むのは完全な暗闇で、それがそんな影響を与えているとしか思えなかった。夜とはまったく違う。これは経験のない領域だった。救いといえば足跡がそこにあることくらいだった。目的地と道筋があることは大きなことだ。これがなければ、悪くすれば発狂してしまっていたかもしれない。

 水路にはときおり橋がかかっており、それで川向こうとの行き来が前提とされていることが推測された。足跡は一度も橋を渡ってはいなかったから、三人も渡っていない。冗談でも足跡を見失うわけにはいかないのだ。街路並みに複雑で全貌のわかっていないこの水路で迷えば、帰れなくなるだろう。そんなくだらない死に方は誰もしたくなかった。


「ここ、ねえバオ、足跡が二手に分かれてる」


「ということは別の人間が私の家に来ているのか……」


「かもしれませんね。もしくは同じ人間が別の場所から来ているか、でしょう」


 家主の言葉は本音だろう。自分が関知していない人間が自分の持ち家に当たり前のように、それも何度も訪れているとなれば負の方向に驚くのも無理はない。バオは補足に慰めの意図を持たせてはおらず、どちらかといえば追い打ちになっていた。だが彼女はそんなことは歯牙にもかけない。


「曲がるか橋を渡るか、ねえ。わからない以上どっちでもいいけど……」


「じゃあ曲がろう。考える意味がないなら適当でいいよ」


「それもそうだ」


 いちど止まっていた影がまた動き始めた。前と足元に注意を払うニキアス、不安そうにさまざまなところに目を配る家主、ときおり後ろを振り返れるほど平静な感情を保つバオと三者三様だった。

 この環境で起きるすべての感覚のずれは暗さに原因を置いてしまえた。時間感覚がつぶれたのはすでに降りかかってしまったことであり、今度はそれに付随して距離のイメージがつかめなくなった。どれだけ歩いたのか確信が持てない。歩数を数えればいいと言う人があるかもしれない。しかしそれに割ける脳と精神の余裕はない。

 足跡を追ってしばらく、それが折れた二回目の曲がり角があった。橋を渡ってもいない。ニキアスがそちらのほうを顔だけ出して確認すると、なんと天井からまっすぐ光が射していた。地上へ続く穴だ。ニキアスは後ろへ手を向けて続く二人を制した。ここで騒いではいけない。周りに誰もいない環境で小声が響く。


「あそこだ、出口」


「地上で言うどこだろうね。でも蓋が開いてるってことはたぶん屋内だろう」


「あ、そっか。バレない場所なのか」


 ニキアスとバオのやり取りの隣で、家主が呆然としていた。これまでの過程でまず間違いのない推測であったものが、目の前で事実に変わった。そのふたつに違いはほとんどない。ごくごくわずかな、それこそ紙一重の差だった。しかしそれは決定的なものだった。事実でなければまだ奇跡的な言い訳が成り立つ可能性はあったのだ。事実とは、そのかすかな可能性の入り込む隙間を塗りつぶす。


「ほんとうに、つながっていたのか……」


「老台、失礼ですがこの曲がり角から顔を出さないよう待っていていただけますか」


「え? あ、ああ、そうか……。人がいるんだね……」


 声をかけられてやっと思考らしい思考が戻ってきたようだった。その返事は奇妙に弱弱しく、彼が老人だということを強調した。すこし小さく見えた。

 ふたりはわずかな言葉と動作で手短に作戦を決め、じりじりと、これまで以上に慎重に音を立てないように上から射す光のもとへと寄っていった。

 カンテラを足元に置いて、先にニキアスが静かにはしごに手をかけた。地上の状況はわからない。すぐそばに犯人がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。単独犯か複数犯かもわからない。ひとつはっきりしているのは近くで騒いでいないことだけだ。こちら側に音が届いてきていない。


 頭の先が出るより前に動きを止めて、見える範囲を確認する。どうやら入ってきたときと同じようにクローゼットの中に出るらしい。戸が閉まっていないから断言するのは難しいが、穴の真上がそんな感じの木材だ。ひとつ段を上がるとより部屋が見えてくる。もうひとつ上がる。部屋の中に人の姿はない。たしかに誰だって地下水路につながる部屋に、それも蓋を開けたままで常駐したいかと聞かれれば、したくないと答えるだろう。好都合だった。

 するすると猫のような身のこなしではしごを上がり切る。そこはやはり無音であり薄暗かったが、地下水路よりははるかに人間らしい空間だった。ニキアスが大丈夫だと下にいるバオへとサインを送ると、バオは家主をはしごのそばに呼んだ。

 室内にはテーブルがひとつあるだけで、他には椅子もない。窓にカーテンがかけてあるだけで、ここに住んでいる人間はこの部屋に部屋としての機能を求めていないらしいことが窺える。ニキアスが一階を、バオが二階を探索することを三秒も経たずに決める。閉められたドアを開けた。


 ドアの先はもちろん廊下で、すぐ真正面にドア。右を見ると階段があった。左にもドアがあるが、すこし重い感じのものだ。玄関だろう。バオはさっさと階段を上がっていった。ニキアスもドアノブに手をかけた。ひねって押す。開いた。

 ソファに座ったスキンヘッドの男が、家族に対してそうするように、肩越しに誰が来たのかを確認した。そしてニキアスの姿を認めると顔の向きを変えずに体のほうを回して殴りかかってきた。


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