13.5 空がとても青いから

 名残惜しそうに、一度だけ後ろを振り返る。

 そこにあったのは、村だ。ニキアスの育った村。のどかで温かで、よく作物の採れる村だった。村の名前を記した看板の向こうにはいくつもの見知った顔が普段通りの日常を送っている。誰も村の外にいるニキアスを見ない。彼が離れていくことを知らない。それはそうだ、なぜなら彼がそうなるようにしたからだ。誰にも知られぬようにこっそりと村を出たからだ。

 思い出ばかりが次々とあふれてくるのをニキアスは疑いもしなかった。ずっといた村なのだから。同年代の友人といっしょにいたずらをして怒られもした。何も考えずに山に入っては大人たちに心配をかけて怒られた。畑の野菜を勝手にもいで食べて怒られた。思い出してみれば怒られてばかりだ。けれどそれよりも面白いが勝っていたのだから仕方がない。あとは剣を教わった記憶ばかり残っている。自分から習いに行ったくせに文句ばかり垂れていたなあ、とニキアスは自嘲する。それほど大変だったのだ。

 そんな過去がこれまでの自分であり、土台だ。あの村を出てからそれほど、具体的には三か月も経っていないのに懐かしく感じられるのはなぜだろう。彼にはその答えがわからない。ぼんやりと、ただその静かに湧く感情に身を浸すことしかできない。不思議な感覚だった。胸の内にある物理的なかたちを持たないなにかが引っ張られて泣きそうになる。悲しくはないのに、戻ろうとも思わないのに、不定形のぐにぐにとしたものが絞められる感じがある。

 郷愁のような後ろ髪を引かれる思いはあるが、それでも決してニキアスは戻ることを選ばない。それは彼自身を裏切ることになるからだ。

 歩き出す。もう前には過去になかった景色だけが広がっている。ナウサの街がこの向こうに待っている。バオが道端で退屈そうにあくびをしていた。なんだか気が抜けてしまいそうになる。しかし彼は構わない。ニキアスはこちらの道を選んだのだ。


 ぼ、と音がした。


 とっさに振り返ると、後ろに火の手があがっている。パチパチと木が小さく爆ぜる音がして、すでに空中には火の粉が上がっていた。躍るように揺れて、目覚ましいほどに鮮やかに火は村を包んでいる。看板が焼けて、書いてあるはずの村の名前が見えなくなっている。この村はいったいどこだろう。あの村では見たことのない大きな木が、知らない家が、あかあかと燃えている。急激な温度の上昇で、何かが爆発する音がときおり聞こえてくる。

 これはなんだろう、とニキアスは思った。彼はまだその短い生涯で火事に出会った経験がないはずだった。話は聞いたことがあるし、想像もできる。しかし実際には見たことがない。なのにいま、彼の目の前では村が焼けている。変な臭いと押し寄せる熱い空気が近づくことを拒む。煤が舞って目が痛む。経験してきた日常とはまったく違った色が、わざと印象付けるようにうねっている。

 行かなきゃ、と決断した瞬間に彼は奇妙なことに気が付いた。足が動かない。いやそれどころか指のひとつも、視線でさえも動かせない。ずっと、村が燃えている様を見せつけられている。いますぐ駆けつけて村のみんなを救い出さないとならないのに体は言うことを聞かない。あまりのもどかしさに叫びたくなるが、それすらも叶わない。ただただ心が萎れていく。どうしてあの穏やかな村が、どうしてか彼の記憶とは違ったところがある村だが、その理由はわからない。火事に見舞われなければならないのか。これ以上同じ光景を見続ければ壊れてしまう、といったところで、火の向こうに人影が見えた。

 そこで目が覚めた。


「……最悪」


 見えた景色は新しい自分の部屋で、まだろくろく物も置いていない。カーテンの隙間からまだ若々しい朝日が忍び込んできていた。光が射して、そこにあった影がものすごい速さで退いていくように、悪夢の内容はニキアスから遠ざかってしまった。残ったのは後味だけで、それが余計に気分を悪くした。

 おそろしいほどの喪失感と焦燥感を抱えて起床したのは彼にとって生まれて初めてのことで、軽い混乱に襲われていた。頭を二回たたいて大きく首を振った。わずかに気分の悪さがやわらいだ。とりあえずベッドから降りてカーテンを開ける。窓の外はすっきりした水色で、ニキアスが見上げると向かいの家屋と窓枠のあいだの空を鳥が横切っていった。雨の予想は難しそうだ。窓を上げて外の空気を取り入れる。なんとなくだが息苦しさが抜けていくような気がした。


 階段を降りている途中でいい匂いがニキアスの鼻に届いた。じゅうじゅうといい音もしている。ひとつ納得したように頷いて、漂ってくる匂いを満足そうに味わった。知らず知らずのうちに止めていた足をまた動かして匂いと音のもとへと歩いていく。

 開きっぱなしになっていた扉の向こうには、想像していたとおりにフライパンの上でベーコンを焼いているバオの姿があった。ちょっとぎょっとしたのは彼女がエプロンと三角巾をしていたからで、まあなんともその姿は似合っていなかった。


「やあニキアス、おはよう」


「おはよう。バオって料理するんだね」


「そりゃあするさ、しないと食べられないもの。だってここ自分の家なんだから」


 ニキアスの言葉をどう受け取ったのか、彼女は鼻高々といった感じでフライパンに目を落としていた。手元を見るとすでに皿は二枚用意されている。露骨に変な手順ということもなさそうで、本当に普通に料理ができるらしい。彼の個人的な印象では、派手に失敗しておいて大きく笑っているというような姿がしっくりくるのだが、人は見た目であるとか受けた印象そのままの人間性をしているわけではないらしい。

 キッチンに置いてあった布巾を取ってテーブルを拭く。掃除ほど気合を入れていることもないが、いちおう花瓶を持ち上げてその下も拭いておく。ほどなくベーコンも焼きあがりそうだ。棚にしまってあるバゲットの入ったカゴを出せばニキアスのできる準備は終わりだ。あとはバオを待てばいい。サラダの皿もあったのをさっき確認している。


 三分も経たないうちに食事の用意は終わって、三角巾を外したバオも席についた。どちらも軽く手を合わせて食事を始めた。塩の効いた厚切りのベーコンはほどよく脂が乗っていて、次がバゲットでもサラダでも食が進む。そうやって口の中の味を静かにすると、またあのビビッドに口に残る味が欲しくなる。味覚とはよくできたもので、これこそ生命の根幹を成すものだと驚かずにはいられない。もしすべてが、そうまでいかなくとも多くのものを不味く感じるような器官なら、人の数はもっと少なかったのに違いない。

 あごを動かすことで、ニキアスはよりはっきり覚醒の状態に移行してきた。やっと普段の頭の働きに追いついたと言い換えてもいい。朝は強いほうだと言ってもいいのだが、それでも違いはたしかにある。


「今日はギルドの申請に行くんだっけ」


「そうだよ。まあ私たちはギルドとしての活動はそれほど考えてないからね、これは儀礼的なものくらいの認識でいいさ」


「儀礼的、ってどういう意味?」


「本来の使い方とはちょっと違うけど、この場合は形だけ、ポーズぐらいの意味」


 それなら、とニキアスは納得した。彼らはすでにイザベルに雇われているため、ギルドとして稼ぐ必要も名を上げる必要もない。ただギルドを作っておけば変な疑いを持たれずに済む。


「どれぐらいに出る? 先に行くところある?」


「お昼前くらいにしようか。それ終わったら外でご飯にしよう」


「わかった。ちょっと前になったら呼んで。それまで近くでトレーニングしてる」


 久しぶりにぽっかりと空いた時間をどう使おうかと昨日の寝る前から考えて、彼は最後の結論にトレーニングを導いた。近いところで実戦を経験したが、それとは別に剣技の練習や肉体的な強度の上昇を欠かしてはいけない。ここのところそれが満足にできていなかったから、ニキアスはいまかなり前向きな精神状態だった。

 開いた窓からときおり風が吹き込んで、知らない街の匂いを運んできた。宿屋での生活だとそんなことには気も向かなかった。宿という、ある種の定住とは最も離れた位置にある施設のせいかもしれない。ただ意識の持ちようが変わっただけなのだが、それが大きな影響になるのだから面白いものだ。

 家主の持っていた陶器とは程遠い木のコップから水を飲んでいると、急にバオがいたずらっぽい笑みを浮かべた。あまりろくなことを言わない顔だった。


「そうだ、洗濯もしてあげようか?」


「明日から自分でやるよ。これまでも別でやってたでしょ」


「いやなに、正式にいっしょに住むわけだからそれくらいやってもいいかなって」


「謎の気の遣い方しないでよ、怖いよ」


 それを聞くとバオは大きく口を開けて楽しそうに笑った。いっそ下品な笑い方だった。しかしニキアスはそれに対して何も思わなかった。彼はこれまで品の良い笑い方を見たことがなかった。ふつうか、ちょっと下品かのどっちかだった。そのどちらを見ても何か違うと思ったことがなかった。もしもバオが口元に手をやって控えめに静かに笑ったら、彼はきっと心配するだろう。快活なほうが健康そうだ。


 彼らの住む家は二番街のはずれにある。それは街の外縁部に近いという意味ではなく、隣の三番街に接する通りに並んでいると解するのが正しい。地図で確認するなら中心街から見ておよそ真北に位置している。ナウサの街は中心街と東西南北の四つに分かれた区、そして外縁部の六つの区域に分類される。区には一番街から十六番街までの通りがあって、四つの通りごとに区が設定されている。ふたりが住んでいる家は北区であり、他の区と比較すると住宅街の印象が強い。穏やかで住みよい区だが、反面なにかをしようと思うと中心街や他の区に出向く必要がある位置でもある。

 隣の家を一軒はさんだところにすこしだけ開けたスポットがあって、そこは休憩が目的とされているのか、それなりの木が一本だけ植わった空間だった。剣の素振りをするにはじゅうぶんな程度には広く、朝の早い段階であれば利用者もいない。初めてこの家に訪れて、帰るときに見かけた場所だ。ニキアスは準備を終えると、さっさとその空地へと繰り出した。

 ニキアスはただ立っただけの姿勢から、背負った鞘付きの剣を可能な限り早く構えた。傍目にも洗練された、使い込まれた所作にも近い動作だ。その姿勢は戦闘のためのもので、向かい合った相手を打ち倒すことを念頭に置いていた。そこから型の復習に移るのかと思いきや、彼は構えたあとに剣を振ることもせずにまた背中に戻して、そうしてもう一度やはりスピードを気にしながら構えた。その動作は何度も何度も繰り返された。その光景は外から見れば奇妙なものにしか見えなかった。練習している内容は見ればわかる。それがもたらす効果もわかる。しかしなんでそんなことを、と言われてもおかしくない練習を続けている様ははっきり言って変だった。

 そんな動作を丁寧に一時間ほど続けると、ニキアスは今さらになって準備運動を始めた。手と足をぐいぐいとのばして体内により血を巡らせる。順番で言えばなんだかちぐはぐだった。しかしそんな彼の姿など誰も見ておらず、したがってその疑問を口にする人物もいない。決められた準備運動を終えるとニキアスは走り出した。

 わざと知らない道を選んだおかげで景色はいつまでも新鮮だった。まだまだ人々が動き出すには早い時間だが、それでも外に姿を見せている人はいた。横目にそれらを見ながらニキアスは朝日の中を走った。

 知らない曲がり角をまた曲がった先に、変なシルエットが見えた。


 軽く水浴びをしてさっぱりしたニキアスは、服も取り換えて出発の準備を整えた。さすがに汗だくのまま出かけられるほどの無配慮ではない。たとえばバオの立場に自身が立ったとしたらあまり良い気分はしないだろう、と考えることくらいはできるのだ。そのバオはニキアスの準備のあいだ、ただぼんやり待っていたらしい。ダイニングのテーブルに頬杖をついて静かにしていた。


「バオ、用意できたよ。行こう」


「ようし行こうか。場所どこだか知ってる?」


「中心街ってだけ」


「まあ行けばわかるか」


 そんな会話をしてふたりはドアのカギを閉めた。

 ニキアスが起きたときと変わらず空はすっきり晴れ渡っており、暇なら散歩でもしようかと多くの人が思うだろう日柄だった。サンドイッチのように持ち運べる食事を選んで外で食べるのもよさそうだ。子どもの一団が近くで遊んでいるのか、はしゃぐ声が聞こえてくる。走り回るだけで楽しいのだろう。大きな街の小さな利点だ。

 やがて中心街が近づくにつれて人の数も次第に増えてきた。名前の通りに活動する人が最も多い区であり、店舗や事務所を構えることが一種のステータスにさえなっている。街の長およびその下の機関がないのに公的な役所があるという一種の異常事態に住民は気付いていないらしい。適切に申し出れば適切に処理される不思議な当たり前がその状況を成立させていた。

 中心街では大人も走り回っていた。もちろん意味は違う。概して活発でのびのびした街だが、それでも忙しくなる人はいる。緊急の依頼が入ったギルドだとか、商品を時間までに届けないとならない商人だとか。隅から隅まで見たわけではないが、この街をそういうものだとニキアスは認識しつつあった。


「そういえばこの街に来ていくらか経つけど、どうだい、好きになれそうかい?」


「いまのところは好きになるとかよりも前に、単純にまだ驚いてるかな。前に言ったでしょ。かなり田舎から出てきたからさ、俺」


「ま、時間はたくさんあるしゆっくり慣れるといい」


「そうする。っていうかその言い方だとバオはもう慣れたの?」


「意外と私は大きな街にいたからね、驚く時期は過ぎちゃったかな」


 左の口の端だけを上げた表情は彼女には珍しい種類の笑顔だった。どこか冷笑的なものが含まれているような気がする。目もニキアスに焦点をあてているというよりは彼を透かして何かを見ている感じがする。普段がよく大きく動く表情だからこそ、ニキアスにはその静かな変化が印象深かった。


「どこ? 俺も知ってる街?」


「王都だよ」


「ははは、ご冗談」


「きみ変な返し方知ってるねえ」


 結局は適当にぶらついて探しても目的の建物は見つからず、人に聞いてギルド管理所にたどり着くのだった。


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