長寿ギルドの作り方
箱女
01 胡散臭い女
「少年、嘘をついてもいいかな」
「別にいいんじゃない?」
「おいおい冷たいな、会話のきっかけになりやすいだろうと思って言ってみたのに」
「俺が知らないことなら確かめる手段はないし、それなら無視したほうが早い」
つれない態度と言葉を残してずんずん獣道を歩いていく少年の後ろで、背の高い女はやれやれと首を振った。両手を左右に伸ばすのも忘れない。右手には先がうずまき状に巻いた古めかしい杖も握られている。少年はばさばさと足元の草を剣の納められた鞘で払っている。後ろの女に対して本当に興味を抱いていないらしく、ちっとも振り向かない。いっそ隙だらけと言ってもいいくらいで、いたずら心が芽生えたら何かを仕掛けてみたくなるような背中だった。
足元は人間が使うには劣悪で、一歩ごとに注意をする必要があった。草も石も木の根も好き勝手に場所を取っている。サイズもばらばらだ。間違っても肌は出せない。人の手の入っていない自然には危険が多い。草で皮膚が切れてしまうのは序の口で、名前すらわからない虫や動物が毒を持っていることもある。とはいえどのレベルでもそんなことは承知の上であって、少年も女も準備はじゅうぶんだった。
「しかし参加してはみたものの、思っていたより大規模みたいだね」
「猛獣が住み着いたっていうならどうにかしなきゃでしょ、人里が近いんだから」
「言うとおりだね。でもこの辺一帯だろ? 広いよなあ」
面倒くさそうにため息をつきながら、少年の真似をするように適当に杖でそこらの草を払うフリをする。ときおり意図しないところで杖の先が木の枝を折っている。山には他の音がないせいで、それががさがさとうるさかった。野生動物のフンと緑の匂いが立ち込めており、目で見なくても人の住む領域でないことがすぐにわかる。この環境を楽しめる人は多くはなさそうだ。
「山狩り。そんなこと言ってらんないよ」
「お詳しいようで」
馬鹿にされたと思ったのか、は、と少年は短く息を切った。あまり仲の良い会話には見えない。その判断は人によって基準が違うかもしれないが、気心の知れた仲だと思う人も少ないものと推量できそうだ。とすると彼らは出会って間もないのかもしれない。不思議な組み合わせだ。まだ心身の成長の終わりを迎えていない少年と、背の高い女。どこで出会うのだろうか。いまのところ手掛かりになるのは、山狩り、という言葉だけだ。
「それにしても蒸すなあ。本当に厄介だ。帽子から垂れてるこの網みたいなのも外せないんだろう?」
「オススメはできないね」
「虫ねえ。うっとうしいのはそうだけど」
「顔がボコボコに腫れてもいいなら外せば? ついでに首元から服の中にも侵入してくるからそっちも酷いことになるよ」
「……いい警告だ。支給された服に文句を言う気がなくなった」
女はため息をついて首元の服をぱたぱたと扇いだ。声も顔もうんざりした様子を隠すつもりはないらしい。こんな場所に来たことを後悔しているのかもしれない。山、獣道、周囲はうっそうと茂る森。そろそろ緑色と茶色以外の色を見たいところだ。木々にはつるも絡み、統一性という観念などが存在する前の野放図がそのまま眼前に展開されている。これをこそ自然と呼ぶのだと言う人もいるのかもしれないが、ある意味そのとおりだ。人の人らしい自由はなかなか利きにくい。
少年が足を止め、そして足元の草を払う手を止めた。左右に視線を配って何かを気にしている。音がぴたりと止んだ。風がないのは気候としてあり得る話で、草木が鳴らないのはそのせいだ。もうひとつがおかしい。警戒していたはずの虫の声と、この状況では癒しとなる鳥の声がしない。いつもの森の条件であればそんなことにはならないはずなのに。
「アンタ、こんなに静かなのどう思う?」
「少なくともいい兆候じゃあないね。何か大物の巣の近くだ。運がなあい」
口調からはちっとも言葉の印象は聴取できない。顔は適当なほうを向いているし、言葉遣いはぞんざいだ。しかし事実なのだろうことは妙に察せられる。見たこともないものを話す調子や、嘘をついているようにはとても聞こえない。少なくとも近しい経験は積んでいると踏めそうだ。
「さて、少年はわかってそうだから言ってしまおうか。我々が引かされたクジはおそらくアタリだし、そのゴールも近い。きみは何がいると思う?」
「良くてイノシシ、悪けりゃ熊」
「同じ意見だ。にしても依頼主もヒトが悪い」
そう言って帽子を近くの草地の上に放った後で女はざっと足元の草を蹴った。もう虫は近寄って来ないと見たのだろうか。つり目気味の冷ややかな目元がわずかに細まった。彼らの立っている獣道は名前の通り均されてはいない。ただその一方で道幅は広く、往復している動物の大きさが窺える。ゴール。女の言葉をそのまま受け取れば大型動物の巣が近いということだ。山の中なのに坂の傾斜がゆるいのは、移動をするのにラクということなのだろう。野生生物もそういった習性がない限りは厳しい道など選ばないものだ。
探してやっとときおり青空が見えるほど頭上に木々が枝を伸ばしており、湿った感じと陰気臭さの原因になっている。ゴールまでの道が曲がりくねっているのも合わさって視界の悪さが目立つ。ふたりがそれほど苦もなく前に進んでいることができているのはひとえに経験によるものだろう。
すこしずつ空気の中にこれまでなかった成分が混じり始める。していないはずの細い音がぴいんと聞こえる。わずかに足を踏み出す速度が遅くなり、それぞれの得物の握り方が実用的なものに近づいていく。
また獣道が角度を変えたところで、突然岩壁かと思うような山肌が現れた。
「洞窟。いや、ほら穴? めずらしい」
穴自体は大きくはない。とはいえ背の高い男性が真上に腕を伸ばして、やっと縁に触れられる程度の高さはある。その代わりなのかどうかはわからないが、中は異様なほど暗い。木のせいで日差しが遮られるのと、そもそも方角の問題で光は差し込まない。そこには暗闇がこんもりと存在していた。ただ暗いのではなく、黒い粒子が舞っているようにしか見えない。誰であっても悪いイメージのよぎる、中に入るのに尻込みしたくなるような空間だった。
それほど期待を寄せていない様子で女がこつこつと山肌をノックした。しかしとても崩れそうもない。それができれば想定される大物と向かい合うことなく仕事を済ませることもできそうだったのだが、どうやらそれは難しそうだ。そのためには第一に大物が中で寝ていることも条件になってくる。考えれば考えるだけラクのできない要素が浮かんでくる。
「どうしようか少年、なにかアイデアはあるかな」
「ここの家主がどこにいるのかが知りたい。まずは中にいるかどうか」
「火つけた何か放り込む?」
「冗談言うなよ、下手したら山火事だぞ」
「まあまあ、気の張り過ぎはいけないってことで。さて実際に私たちがやれることは多くない。というか私には待つか侵入かしか思いつかない。少年にはなにか他の案はあったりする?」
「中にいるなら指笛で気が引ける。蛇なんかじゃない限りは」
少年は視線を岩壁の穴に向けたまま、手袋を外してひらひらと左手を振った。意識の向け方から女に気を払うつもりはないらしい。
山に迷い込んだ人が一晩をどうにか明かせるくらいのほら穴に向かい合う二人の姿は自然体で、目の前にあるのが仮に食堂であったとしてもわかりやすい違和感は山用の服装と指笛を吹くという意思表示だけだ。良く言えば慣れている、悪く言えば緊張感がないと表現できた。これから猛獣狩りに行くところだと言われてもからかわれていると思う人が多いだろう。
「後ろに音行かないようにはするけど、耳塞いだほうがいいよ」
そう言って少年は暗闇の粒子のなかに一歩踏み込んで息を吸い込み始めた。す、す、す、とゆっくりにしても心配になるほど時間をかけて空気を肺の中に取り込んでいく。呼吸器官に大きな負担がかかるのは疑いようのないところだが、それを使うということは特別に内臓が頑丈なのかもしれない。
女は少年の言葉を聞いて素直に両耳をそれぞれ手のひらで抑えた。持っていた杖は胸に立てかけて体からは離さない。その姿勢を保ったまま少年の指笛を待っていた。
ピイイ! と鳴り響いた音はほとんど文字では表現できないほど高く大きく辺りを支配した。音のルールから考えれば、耳をつんざくようなそれが呼吸する暗闇から跳ね返ってきたものだとはとても思えなかった。岩壁そのものが本当に震えたことを確かめたくなるほどだ。実際問題として洞穴のなかでぱらぱらとちいさな粒が崩れ落ちている様子が見て取れた。
言われたまま耳を塞いでいた女はその防御を貫いて届いてきた音に目を大きくしていた。何かが爆発したり人間とはくらべものにならないような大きなものが落ちた音とは違ってびりびりした迫力は感じない。空気の震え方が細かくて、手という障害物を簡単に貫通して鼓膜へ響く。耳の奥の脳に近いところで鈴が鳴り続けている。女はどうやって姿勢を維持したまま立っているのだろうか。そんな疑問が浮かぶほど経験のない強烈な音だった。
指笛の音が止んで、二秒、三秒と経過すると今度は大型の動物にしか出せない怒りの鳴き声が暗闇の奥から響いてきた。それは地面を揺るがすような、指笛とは真逆の迫力を持った、聞く者の身を震わせるタイプの大声だった。
「少年! 熊だ、このぶんだと大きいぞ!」
「わかってる! アンタができることは!?」
洞窟の穴から飛び出してきた少年はすでに剣を抜いていた。先ほどとはうってかわって命のやり取りのときの緊張感が感じ取れる。気を抜けば死にかねない。口になど出す必要はなく、気の張り方がそれを如実に物語っている。荷物になってしまった鞘を邪魔にならなさそうな位置に投げる動作からもそれが読み取れた。
「見ての通り私の武器は杖だ、毛皮の厚い動物は相性が悪い。アシストがせいぜいと思ってくれ」
「わかった、それでいい」
口早に情報のやり取りをして熊が出てくるのに備えると、二人は構えを固定した。太陽の光の届かない薄暗い森の奥に突然現れた岩壁。そこにぽっかりと空いた穴の深部から重たい足音が聞こえてくる。それは返ってきた咆哮とは違って怒りに狂ったものではなく、敵対する生物を正確に狩るための慎重さを備えたものだ。そういった意味で野生生物は敏感で狡猾だ。まず油断をしない。
まず鼻先だけが暗いところから出てきて、右に左に向きを変え、わずかに覗いた鼻をひくひくと動かしている。それが止まると鼻梁がもう少し見えてきた。おそらくこちらの人数を把握して、また一つ歩を進めたのだろう。
「ホラグマだ!」
少年が叫んだ。熊の種類を伝えたのだろうが、そう判断するためのヒントは少ない。少しだけ見えている鼻先と、あとは周囲の環境くらいだろうか。
「特徴は?」
「立体的に動く。木に登れるし飛び移れる。体が柔らかいんだ」
「他に気を付けることはあるかい」
「爪も牙も武器として成立してる。筋力で競える相手じゃない」
少年が言い終わるのと同じタイミングでホラグマが顔を見せた。一般的な熊と違って鼻が長い。その根元にあるのは野生の目だ。人間と違って白目がない。その造りを見ていると、自然で生まれ落ちた存在のはずなのになぜか無機質さを連想させる。そう感じるのは、人間の感情というものに慣れ過ぎてしまったせいだろうか。
巨きい。体毛は黒く、ツヤなんてものは忘れたようにばさばさの毛並みになっている。前足が後ろ足に比べてわずかに長く、しかしそれ以上に太さに目が行く。毛のせいで実際の体格はわからないが、それでも四つ足での体高が少年の身長と差がないのを見ると強靭なのは疑えないだろう。大きく重い体を支えるのは強い筋肉に他ならないからだ。
大型の野生生物と対峙する場合、人間のほうから攻め立てることは多くない。よほどの威力を備えた攻撃手段がない限りは自ら危険に飛び込んでいくようなものだからだ。だからそれに臨む戦士たちはまず初動を相手に任せなければならない。相手を動かして隙を見つけて弱点を叩く。それからすべてが始まるし、それですべてが終わる。違うのはそのあいだにどちらが致命傷を負うのかだけだ。
ホラグマの一歩に合わせて少年と女も一歩後ずさる。歩幅の差だけ距離が縮まり、三人を結んで形成される三角形の二辺が短くなる。もう威嚇ではすまない。怒りの源は瞬発力を発揮するために呼吸をひそやかなものにしていく。解放まで時間はなさそうだ。
ただ体を伸ばしただけに見える飛び掛かりは、女から見て遠近感を狂わせるものだった。力をためるために屈めた身が想定以上に伸びる。ただひとつの正解は横に飛んで避けることだけで、女は瞬間的にそれを選ぶことに成功した。転がり姿勢を立て直して飛び掛かってきた相手の姿を確認しようとすると、あってほしい場所にホラグマの姿はなかった。巨体に似合わぬ身軽さ、登ったであろう木が折れていないところを見るに知性なのか本能なのかバランス感覚を備えていることが読み取れる。簡単な相手ではない。向かい合ってやり合うならたいていの人間よりよほど厄介だ。
しかし樹上で音を完全に消すのは不可能であり、その足を踏み出すごとに枝が軋み葉がこすれていることがわかる。黒い体毛が見えなくともどこにいるのかははっきりとつかめた。ただ問題は姿を見せていないところから飛び込まれることにある。どうしたって反応は遅れるし気は張り続けなければならない。ゲリラや暗殺者を相手にしているようだ、と木を背にした女は内心で毒づいた。
バキ、と弾けるような音がして、黒い塊が突っ込んできた。ほとんど反射に近い反応速度で飛び上がった。運が良いと言い換えることもできそうなくらいその回避には余裕がなかった。空中から眺める討伐対象の背中は本当に大きかった。少年がふたり縦に寝転べるくらいだった。これを仕留めるには一撃必殺が最善の選択肢だろう。ちまちま削ってもこちらの体力が保つとは思えない。
「少年! 任せるって言ったけど時間かけない算段はあるかい!?」
「大丈夫!」
女が着地した枝が急激に傾いて、少年に向けていた視線を真下に戻すとそこには草と苔と土の混じりあった地面があった。ホラグマはいない。それどころか木の幹もない。耳にバキバキと太い繊維が折れていく音が届き続けている。何かに気が付いたように女は下を見たまま振り向いた。乗っている木の根元にホラグマの頭が突っ込んでいる。若木と呼べるほど樹齢の浅くない幹とはいえ、樹木を平然とへし折る突進と、それでびくともしない頭骨および首。あらためて打撃への耐性は高そうだ。少年にわずかなあいだ視線を送って、女は別の枝に飛び移った。
野生生物の隙を見抜くのは難しい。型らしい型もなければ出力も違う。人間と同じ扱いをしようとするとまず見誤る。それならばどうするか。女は杖を握ってゆっくり息を吐いた。
少年は最初の狙いが女に向かった時点でホラグマからはある程度の距離を保ちつつ戦況を見ていた。それでも攻撃に移るための構えを崩していないのは、そのままの意味だ。その距離がないと必要な威力に届かないと見ているのだ。
ホラグマが前足を振るのを木の後ろに回り込むことで避けると直後に耳慣れない音がした。前足の長さ、位置、軌道を見るにぴったり木に直撃しているように思われたがそれは振り抜かれて最終的には空を切った。女はそのまま止まるわけにはいかず、後ろに飛びすさって距離を取る。ホラグマもついてきて距離を詰めようとするがその動きは直線的だ。速度自体は驚異的なものだが二度三度と回避できたものをいまさら女が失敗することはない。右に動いていなしてから前足の振りを避ける前の木にもう一度回り込む。ぞっとするような三本の線が幹にくっきりと刻まれている。爪がこんなにも鋭いものとは思ってもみなかった。前足が止まらなかったのも木が倒れなかったのもこのせいだ。自分たちがいままで森と認識していたものが実はバターだったんじゃないかと思うほど爪の通りがいい。ましてや人の肉など考えるまでもない。淡雪との差がどこにあるだろう。
速度、筋力ともに相手が上。人間がそれに立ち向かうには頭を使った予測とそれを活かすための機敏さ、そして武器だけ。一度まともにもらえば大打撃のところを女は避け続けていた。もう距離は組み手に近い。ホラグマが前足しか使えないとはいえ、一方的な攻撃を捌き続けるのは難しく、そして精神的に厳しい。杖による打撃も前足の振りの軌道を変える程度で有効打にはならない。不利な拮抗が続く。
「準備ィ!」
突然、女が叫んだ。六分間もの猛攻を凌いだ後である。手数など数える気にもならない。しかしそんな時間をみごと抜けたのだ。そして彼女によれば勝負のタイミングは近い。少年はそれを聞いてわずかに膝を曲げた。
女はホラグマの大きな一振りを避けると大きく後ろに飛び、そこからさらに二つ三つと後退した。これまでの動きとは違ったものだった。彼女が近距離で戦い続けたのは、距離を取ると突進の余地を与えてしまうからだ。勢いは強力なエネルギーであり、そんなものは避けるべき以外の何物でもない。ミスとしか思われなかった。
当然というべきか自然というべきか、ホラグマは女へ向けて一直線に走り出した。助走距離はじゅうぶん、巨体がみるみる加速して襲い掛かる。最悪の事態が想定されたところで、奇妙な現象が起きた。明らかに地面を蹴ったとは思えない不自然な速度と姿勢で女が空中を移動した。足元に花が咲いていたのだろう、その花びらが空中をひらひらと、間近の激闘など知らぬげに舞っている。少年が花びらに奪われた目を女へと戻す。やはり違和感の塊でしかない彼女の姿勢は、よく見てみると杖を思い切り振るためのそれだった。
飛び掛かってくるホラグマに対して位置をずらし、着地と同時に半身に構え、間を置かずに始動する。肩幅よりわずかに開かれた足をより前に踏み出して、空中にあるホラグマの体をくぐるような軌道のスイングを始める。体重を後ろの軸足に残したまま体を回転させることでその軌道に遠心力を生み、さらに体を後ろに倒すことでかち上げるようなスイングに矯正した。
「どおおおおっせえええええい!!」
ホラグマの加速度は頂点に近い。エネルギーの最大量のことを考えるならここが最適なタイミングだ。しかしダメージのためにそれを有効にするためには相応の力が必要だ。体重差およそ十倍にも届きそうな二者。端的に言って女にそれを実現するのは不可能だった。だから彼女はスイングの軌道を変えた。強烈なスイングはホラグマの後ろ足に下から当たり、ばふんと柔らかな音を立てた。毛皮に当たった音だ。ただそれは重要なことではない。後ろ足が彼女の杖によってかち上げられ、頭が下に来たことが重要だった。空中でホラグマがまったく力を入れることのできない時間が生まれた。いま四肢を動かしても空を切るだけだ。大きな一撃を叩き込むのなら、無防備に首を晒しているここしかない。少年はすでに動き出していた。
軽い音が小気味よく続く。強烈な足の回転だ。頸椎を正面に捉えるために弧を描いて走る。見えない何かに引きずられるように、進むべき経路があらかじめ敷かれているかのようにぐいぐい攻撃までの道筋を駆け抜ける。足の速さに任せるからこそできる芸当だった。少年の出せる最高速。勢いを殺さぬようにステップで調整しながら体を回し、その回転と腕の振りを合わせて遠心力がちょうど最大になるところで手にした剣をホラグマの首に叩き込んだ。日常生活では、いやそれどころか大半の人は生涯において聞かないだろう音がした。
いちど勢いよく噴き出したあとは滾々と流れ出るだけだった。切られた箇所からあふれる血は生命があったことを示している。どれだけ生命力に満ち溢れていたとしても、文字通り生命線が集まる首を深く切られてしまえば即死だ。少年は短いあいだ痛みを堪えるような表情を浮かべて、すぐにそれをしまって今度は荷物の中から紙を取り出して刃を拭った。山狩りは終わったのだ。
ホラグマの後ろ足を打ち払ってそのまま座り込んでいたのか、女は後ろ手をついたまま死体を眺めている。これだけの大物をたったふたりで仕留めたのだからある種の感動に浸っていてもおかしくはない。
女がホラグマを挟んで向こうにいる少年に声をかけた。
「おおい、少年。いまさらだけど名前を聞いていいかな」
「……ニキアス」
「ニキアスか、いい名前をもらったね」
「あんたは?」
「バオと呼んでくれ」
わかった、と少年はつぶやいた。
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