20 城壁の思い出

「立派な、攻めにくそうな城だった。城と言われてぱっと思いつくような左右対称の造りじゃないんだ。そもそも城郭で街を囲ってるくせに、それとは別に街の内側に城壁を建てていた。王という存在の重要性を強く認識していたんだろう」


 背中を丸めて、膝の上に腕を置いてバオは話を始めた。姿勢だけを見れば懺悔でもしているのかと思いたくなる。しかし彼女にはアナトリアに向けて懺悔することなど何もない。彼女のいつもの相手を見据えた話し方とは違った物静かな語り口は、声に出して話すことで記憶を指でなぞり、そうしてより鮮明に語っていくといった印象を受ける。静かに、深く深く潜っていく。


「城壁は細かい傷だらけだったな、石なんて年月が経てばそれだけ知らないうちに浅い傷がついていくものだから。場所によってはツタも伸びていたっけ」


 すこしずつ、バオが昔にいた街ができあがっていく。石造りが中心で、それだけに街のいたるところに花壇が作られた綺麗な街。ちょうど街の真ん中あたりでそろえたような角度で三つに分岐する川がある。道を行けば鎧を着込んだ巡回の兵士にすぐに出会う。子どもたちのあいだで兵士に出会わずに目的地にたどりつけるか、という遊びが生まれるほどよく出会うのだ。そのおかげで酔っぱらって道端で朝を迎えるような人物はまずいなかった。

 バオが王都の説明をしているあいだ、アナトリアは短い相槌だけを打った。機械的にすべての言葉の区切りに打つのではなく、彼女が適切と思うタイミングでのみその相槌は入れられた。それによって独白に近いバオの王都の描写は滑らかになった。


「いま思い返せば全体として古い街だったのかもしれない。石造りは造り替えや建て直しの手間がかかるものだし」


「昔のまま維持しているのもすごいことよ」


「かもしれないね。役割を果たし続けるのは簡単じゃないものな」


 言われて気が付いたように肯定する。ほとんど当たり前のことなのだが、バオにはどうしてかこのことが頭から抜け落ちていたようだった。彼女は身を起こして得心がいったように二度三度とうなずく。


「ねえシンシア、あなたはそこでどんなことに出会ったのかしら」


 今日はシンシアだったことをバオは思い出す。表情も変えずに、ただ頭の中で受け入れる。別に難しいことではなかった。そう呼ばれることを否定しなければいいだけの話だ。

 足を組んで背すじを伸ばす。アナトリアはバオの目に触れていなくとも姿勢をきれいに保っていたようだ。あごをわずかに引いた、訓練によってしか達成されないものだ。ある意味で言えば人間の文化の結晶と言えるかもしれない。人間という価値観の外ではまったくの無意味な人工の花だ。


「……驚いた。すぐに出てくる思い出は楽しいものとは限らないみたいだ」


「イヤなことがあったのね?」


「そうだね。ひとくくりにしたくはないけど、結局はそういうことだ」


 バオはほんの短いあいだに自省を済ませて頭を振った。そうすることで余計な考えが遠くへ飛んでいくと知っているような動きだった。もう一度アナトリアに視線を戻す。奥の窓が目に入った。雲はもう一段厚くなっていた。


 その城壁は画一的に切り出された石材をずらして積み、あいだをモルタルが埋める工法が採用されていた。城壁を手掛けた人物からすれば違うのだろうが、この工法の優れた点は、切り出しサイズのミスによる石の抜けが発生しないことだとバオは考えていた。

 彼女は何日かかけて城壁の周りをぐるぐる回って諦めた。言葉の使い方としてはおかしいが、この城に正攻法で忍び込むのは無理だと判断したのだ。高さも身長の何倍あるかも測りにくいほどあるし、軽く叩いてみても隙のある感じがしない。さらには夜通しで見回りがうろついているせいで、かなりの準備をしても見つかる公算が大きい。バオはため息をついて回れ右をした。紅茶を飲むつもりだった。


 城は大きく、それなりに離れたかと思ったカフェからでもその姿が望めた。ほかにこれといってやろうと決めていたことがなかったバオは、王都の最大の存在感へ向けて思いをはせる。それは憧れとは違った、子どものようなただ大きいものに対する興味でしかなかった。この興味は目標が達成されればすぐに失われる種類のもので、先のないものだった。

 花束を机に置いて、ティーカップを片手に城のほうをじっと眺めていた。人によってはそれをロマンチックなものと捉えたかもしれない。カフェのウェイトレスがそんなひとりだった。


「恋人がお城にお勤めなんですか?」


 ぼんやりしていたバオは、はじめ自身が声をかけられたと気付かなかった。女性の声が聞こえたのには気が付いて、それがもしかしたら自分に向けられたものかもしれないと思い至るまでに三秒かかった。ウェイトレスの視線がはっきりと自身に向けられているのを見て、バオはさっきのセリフが誰へのものかを確信した。


「え、ああ。うん、どう言ったものかな……」


 とっさのことに頭は回らず、誤魔化すような言い方になったことを彼女は悔いた。カッコがつかない。これでは恋人という単語が出てあわててしまったように見えるに決まっている。そんな年ごろでもなかろうに、と頭のなかでため息をつく。歯切れの悪さがウェイトレスの琴線に触れてしまったのか、すこし調子が変わった。


「あ! もしかして口説かれたとかだったり」


「ええ?」


「だってほら、花束。プレゼントですよね」


 そう見えてしまったのだからバオから言えることは何もない。私物だと事実を言っても受け入れてはもらえないだろう。他の客への接客を言い訳に追い払おうと考えたが、運の悪いことに客はバオひとりだ。どうやったらあの城に入れるか、という問題を静かに考えたかったから人のいない店を選んだのだが、それが見事に裏目に出た。

 実際はいくらでもカフェからの脱出方法はあったが、相手にしている城が想定以上に強敵で、ここからさらに逃げる手段を考えるのが面倒になってしまっていた。別に時間がないわけでもないのだ。バオは適当に相手にするほうを選んだ。


「これは、その、祈りのようなものなんだ」


「祈り、ですか?」


「ほら、城壁の上が花壇になっているところがあるだろう?」


 これは本当のことである。城壁からすこし離れたところから眺めると、花の咲いている一角があることがわかる。実際に城壁のところに花壇が設置されているのか、それとも多少は離れた位置にあるのかまではわからないが、それはたしかにある。先日バオが見たときには侍女が水をやっているところだった。


「ありますね。たしか白い花が咲いていたような気がします」


「そうそうそれ。たまたま私がそこを見たときに兵士のひとりが通りがかったんだ。一瞬だよ、横顔だけ」


「いいですねいいですね! そういうの好物です!」


 そこでバオはわざとらしく机の上の花束に目を落とした。偶然であることに違いはないのだが、そこにはちょうど白い花が横たわっている。

 ウェイトレスが花とバオの顔を交互に見比べた。一往復するごとに彼女の中で間違った推論が強固に組みあがっていくのがわかる。部品の音が聞こえそうなくらいだった。最終的には両手で口を押さえてちいさく飛び上がった。


「それで、それで祈りなんですね! 健気です!」


 一通り勝手に楽しむと、彼女は店の奥に引っ込んでいってしまった。客と話し込むことがこの店でどう扱われているかはわからないが、長すぎれはさすがにカミナリが落ちるのだろう。

 これでもうこの店には来られないな、とバオは息をつく。ここでは彼女は一方的な片思いが叶うことを夢に見る健気な女になってしまったのだ。さっきのウェイトレスひとりならまだ動き方次第でなんとかなるかもしれないが、彼女がほかの店員に噂を広めないという姿が想像できなかった。おもちゃになる趣味のないバオは、心の中で店にさよならを告げた。


 ざっと記憶を浚ってみると本当にどうにも忍び込むのが難しそうで、さてどうしたものかと歩きながらため息をつく。忍び込んだ先の目的などないのだから断念しても困ることはないのだが、変なところで子供っぽさの残る彼女は諦めるつもりなど微塵もなかった。

 あらためて城壁周りのことを思い出してみる。まずは正面だ。城門があって、当然そこには門番がいる。ここは時間交代で常に複数の人間が見張っており、突破を考えてはいけない場所だ。ちなみにこの城は城壁がいくつかの層によって構成されているうえに道をぐにゃぐにゃに曲げて作っているらしく、城門の前に立っただけでは前庭からその先が見えない。先の話に出た花壇のことを思うとどんな構成になっているのかはなはだ疑問だが、いまのところそれを解決する手段はない。正面の門に行っても時間の無駄だろうとは思うが、とりあえずあとで門番と話をしてみるだけしてみようかとバオは考えた。

 次に正面から向かって右。壁に沿って歩き続けると行き止まりにぶつかるのだが、そこまでに敷地内に入るための通路が二つ開いている。しかしそれらは鉄柵が下りているせいで人間味と可能性がない。もちろん壊すのはよろしくない。最悪が重なると国家全体を巻き込んだ大騒動にまでつながってしまいかねない。無茶は避けるのが正解だ。当然、彼女のアイデアの中にその選択肢は入っていなかった。

 正面から向かって左も似たようなもので、行き止まりの壁に当たるまでの距離がおよそ倍になっており、敷地内への通路が三つに増えただけだった。つまりはるか上空を飛ぶ鳥から見ると、王都の城は円形から成り、その円から伸びた一本の城壁が街を包む城郭まで続いていることになる。城が街の端に位置取っているのはこの事情による。意識せずに歩を進めていた足を止めて、引っかかった部分を手繰り寄せる。


(……いや待てよ、ちょっと調べてもいいかもしれないな)


 最初に通り過ぎたときには流してしまったことが、もしかすると可能性につながるかもしれないと思い直す。正門があれだけ守りを固めているのなら、という見てきた事実からの仮説。あれだけ情報を制限するような、正門からの眺めさえ遮断するような徹底ぶりならば、その根拠のひとつとして使ってもいいかもしれない。

 バオが足を向けたのは左回りにある敷地内への通路の三つめだった。とりあえずの感覚で彼女がぐるりと回ったときにはそこにも門番がいたのだ。バオはそれを見かけたときには偶然だろうと考えた。たまたま本当に通路として使っている場面に出くわしたのだと。

 しかし引っかかるのは鉄柵のことだ。あれは簡単に上げ下げできる代物ではなく、またできてはいけない。


(城の造りを見せたくないのなら、外からの訪問客専用の通路および応接室が必要になってくるはずだ)


 街路の壁に背中を預けて青空を見上げる。バオは何も確証がないのに決めつけた。おおよその論理が通ればそれは是だ。楽観論が過ぎるように見えるかもしれないが、失敗したところでとくに害はないのだから問題はない。せいぜいが通路のあるところからとぼとぼと肩を落として帰るだけだ。

 バオが決めつけたのは三つ目の通路には鉄柵が設置されていない、もしくは常には下りていないこと、また門番がつきっきりで見張りに立っていることだ。これならば入れなければならない客が来たときにも対応ができて、なおかつ城内を見せないことも可能だ。ならば崩すべきはここだ。いちばん脆い。そこまで導いた直後には彼女の足はもう動いていた。


 二時間後、その通路の脇でバオはうなだれていた。作戦らしい作戦を立てなかったことが直接の敗因なのだが、その根本のところは何が何でも実行するという本気さが欠けていることによる。


「なあ兵士どの、なんとか通してくれないものかな」


「何度も言っているだろう。ダメだ」


 城壁を背にしゃがみこんでうなだれているせいで、いつもよりもぐっと小さく見える。前へ向けて放り投げられた手の先で、花束がこれまた下を向いていた。帰ろうとしていないのを見るに、まだ粘ろうとしているらしい。

 兵士はバオに視線も向けずに懇願を切って落とす。様子からするとすでに何度かは頼まれているようだ。


「だいたいだな、ウソから入ってきたあやしい奴を城に通す馬鹿がいるか」


「道理だ。そんなことをしたら兵士どのはあやしい奴を手引きした国賊になる」


 兵士が言うつもりのなかったことまで補ってバオは彼を肯定した。招かれてもいないのに城に侵入しようとしたのだから非はすべて彼女にある。兵士は任された仕事を忠実にこなしただけだ。だからどんな言い方をしても兵士に罪悪感は生まれなかったし、バオもそんなことは期待していなかった。彼女が求めたのは立場の確定だった。


「それなら帰ったらどうだ、もうお前の望みは叶わんのだぞ」


「まあまあ落ち着いてくれよ。私のそれは知的好奇心から来るものでね、信じてもらう必要はないけど、ただ中がどんな造りになってるか見たかっただけなんだ」


 バオは勝手な都合を話した。しかし彼はそれを止めなかった。


「……だからなんだ」


「聞きたいのさ、城のこと。別に構造のことを話せってんじゃない。機密なんだろ? どうせ」


 兵士の手間を省けば間に挟まる無意味なやりとりを省略できる、とばかりに相手の事情を斟酌する。ここまでの会話で兵士の態度が急に軟化しないことはわかる。それなら狙いは絞って話したほうが建設的だ。これから話を聞こうという相手にうっとうしがられては分が悪い。

 バオの態度は軽いもので、真剣に頼むだとかお願いをするといったものではない。友達に聞いてみよう、ぐらいのものだ。断られたって文句が出てこないような種類の関係性を思わせる。この場にいるのは初対面の二人だが。


「聞いてどうしようというんだ」


「何もしない。聞きたいだけ知りたいだけなんだよ、知ったところでその情報をどう使うかなんて思いつかないし」


「……はあ。食堂が三つある。これでいいか?」


 兵士はバラしてもいい情報を選びに選んで口にした。というかこの程度の情報なら知っている人間は街にもいるはずだ。城勤めの人間と知り合いであれば聞いていてもおかしくない。教えてもらっても、だからなんだ、で済まされる話だ。

 バオのうなだれていた頭が、前を見られるくらいには持ち上がってきた。


「いいね、面白い。それぞれメニューは違うのかな?」


 すこし元気の出てきたバオに対して兵士はため息をつく。はじめに考えていたよりも厄介な人間だと思ったのかもしれない。しかし自分から食堂の話をしてしまった以上、ここで話を打ち切るのも妙だ。当たり前のことだが、その話はまったく機密にはあたらない。


「違う」


「当ててあげようか。食堂によって年齢層がわかれているだろう」


「残念だがハズレだ。どの食堂にも偏りはない」


 予想が外れたのにバオはにやついていた。姿勢は座り込んだままのコンパクトなものだったが、さっきと比べてなにか活気のようなものがある。理由はさっきの彼女の発言を思えばたしかに納得はいく。たしかに彼女は知りたいと言ったのだ。食堂ごとの年齢層など興味のあるひとは少ないだろうが、しかしこれも彼女にとっては新たな情報ではある。


「人気のメニューはあるのかい? 順当に肉かな?」


「さあな、そうなんじゃないか。気にしたこともない」


「冷めてるなあ。もっと仲間内でくだらない話をしなよ」


 まるで人生の先輩のように諭してくる不審人物にイラッと来たものの、兵士はそれまでにとどめた。何も知らないくせに、と思う。口には出さない。

 バオは兵士のほうをちらっと見てみるが、彼の視線はまっすぐ前に向けられたままであり、言葉のやりとりはできても対話にはまだ距離があった。街の外れということもあって人影はない。さびしいところだ。民家でさえもうすこし戻らないと見当たらないのだ。周囲にあるのは背にある城壁と、腰くらいの高さの石垣だった。


「なあ兵士どの、これ、この壁。いったいいつからあるんだい」


「およそ六百年だ」


「丈夫だねえ」


 こつこつと手の甲で軽く叩く。バオのその仕草は確認しているようにも見えたし、軽くバカにしているようにも見えた。音は乾いていて、年月の経過を思わせた。時間が水分を吸ってしまったのだろう。


「建て直しは? この街が戦争を経験してるかは知らないけど」


「ない。この城壁は常に絶対であり続けている。すべてを跳ねのけてここにある」


 言い切り方は毅然としていて、まるでその六百年を見てきたような言い草だった。しかし当然だがそれは常識的ではない。最大の問題は寿命だが、仮にそれを無視しても同じところに六百年もいるとすればいっそ偏執的だ。したがって彼のその自信の源は別にあることになる。バオの心中には予想されるものがふたつ想定されており、そのひとつは彼女の胸を期待で膨らませたが、もう一方は失望を呼んでいた。


「ふうん。なんでこの壁はそんなに頑強なんだろう。理由は知ってる?」


「又聞きだが、優れた頭脳の生んだ天才的な設計思想がそれを成立させたらしい」


 それを聞いてバオは片眉を上げた。もしかしたら面白い話が聞けるかもしれない。ついに顔だけだがしっかり兵士のほうを向いた。兵士は相も変わらずの直立不動で、石像もかくやの姿勢を維持している。そこを見ると面白い話をしてくれそうな気配を感じ取ることはできないが、バオはとにかく期待するしかない。それにしても一歩も動かないし肩も首も回さない。つらくないのだろうか。


「おそろしいまでの設計思想と技術だ。やは――」


「しかしそんなものは理由であっても小さなものだ。この壁が、王城が永年に渡ってそびえ続けているのは、歴史と伝統の力なのだ」


 彼女は誰にも見られていないことを意識しただろうか。期待が滲んで口角さえ上がっていたバオの表情は、一瞬にしてゼロへと戻った。ひとつの関心も興味も引かないものを無理やりに見せられているときの、すべての感情から距離を取っているそれ。怒っても悲しんでもいない。どうでもいいとさえ思っていない。

 バオはすっと立ち上がった。うなだれてしゃがみ込んでいたのが演技でもあったかのように。そしてすぐに歩き出す。


「ありがとう、もういいよ。とてもつまらなかった」


 声がすこし低いから、より無機質に聞こえた。振り向きもせずに、それこそ男女の決定的な別れのような声掛けだった。足取りは早い。さっさと離れたいと思っていることは明らかだった。兵士は何も言葉を返せない。王城の栄光の伝統と歴史について語ってやろうと思っていたところでこの仕打ちだった。

 彼女はもう帰ってこなかった。


 王都での思い出を語り終えたバオはひとつ息をついた。彼女自身としては面白くない話だったが、話し終えてみると意外とすっきりしていることに気が付いた。苦痛に思うほどのものではないし、抱え込むほど重大なものでもない。思い出を探してみて見つかった程度のものだ。それでも誰かに聞かせると肩が軽くなったような気がするのだから不思議な話だ。

 気付けばまた下へと外していた視線をアナトリアに戻すと、彼女は変わらず視線をバオへ向けていた。すこし照れくさくなったが、すぐにどうでもいいと思い直した。彼女がどんな存在であるかを思い出したからだ。


「ねえシンシア、あなたってそんなにこだわりのある知りたがりだったかしら?」


「違うよ。気まぐれなんだ。そのときは知りたかったってだけ」


「あなたはそんな人だった気がする。でもこだわってはいるわ。歴史や伝統って言葉が出ると機嫌を悪くしているもの」


 記憶に問題があって死期の近い人間の返す言葉だろうか、とバオはため息をつく。優秀なのだろう。そんな人間がいなくなるのは惜しいことだ。アナトリアに対してはどんな感情も抱くつもりはないが、優秀な人について思いを馳せざるを得なくなる。


「……そうだね。だってその言葉を間違って使っているんだから」


「間違って?」


「前に誰かにこの話をしたらわかってもらえなかった経験があるんだ。だから内緒。考え方の違いがあるって思ってくれたらいい」


 アナトリアはきっと質問を重ねたかっただろう。しかし彼女はそれを選択しなかった。それはなんとなくの勘という、直接的でありながら直接的ではない不確かなものを根拠にしていた。これは聞かないほうがいいな、というただの感覚がアナトリアの行動を決定した。

 バオの言う楽しくない話は最後の部分に力点があったのには間違いないが、しかしそれがどうして思い出として残ったのかという不思議が残った。すこし経てば忘れてしまっておかしくない内容だ。王都での思い出を語れと言われて最初に出てくるものではない。そのことがアナトリアには引っかかる。そういうひともいるのだ、と言われてしまえば反論は難しいが、目の前の彼女がそういうタイプには見えないのだ。


「王都での話はそれくらいしかないの?」


「ないわけじゃないけど、どれもくだらないよ」


「いろんなところを旅するのって、もっと楽しいものだと思っていたけど」


「たくさん旅をすれば当たり外れはどうしても出てくる。王都はたまたまそっちだっただけのことだよ」


 アナトリアにそう返してバオは笑いかけた。あまり力の入っていないもので、心配をかけないようにするには足りない。間に合わせのものにも見える笑顔が話の終わりの合図かのようにバオは立ち上がる。区切りとしては頷けるが、後味としてはあまりいいものではない。それでもアナトリアにはバオを止めることはできない。なぜなら彼女にそんなことは言えたものではないからだ。

 窓の向こうではまだ空はぎりぎりのところで持ちこたえているように見えた。


 話を打ち切って部屋を出る。結局は今日の話も何にもならないとバオは理解していた。短いあいだアナトリアは落ち込むかもしれないが、明日には忘れているだろう。そしてバオ自身もどの種類の感情も持たない。残るものは何もない。明日ここに用意されているのはまっさらな白い紙。彼女が任されていることは海に向かって石を投げているのと大差はない。

 後ろ手に扉を閉めると、くぐもったせき込む声がバオの耳に届いた。しかし彼女は振り返らなかった。

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