24 雨が上がれば

 初めから決めていたことのように、ニキアスは目覚めた瞬間に思い出した。今日があの一家と出会ってちょうど二週間経った日であり、もしかしたら出産の日にあたるかもしれないことを。たしかにニキアスとジョゼフたちは深いつながりを持ったわけではない。それこそ昼食をいただいた程度の関係から大きく動いたとは言えないだろう。しかしニキアスは彼らの祝い事に立ち会いたかった。ただそれだけの、深い考えなどない単純な思いだった。

 いつものように一通りの鍛錬をこなして、そうしてから彼は家を出た。弱い雨が降っていてうっとうしい。傘はほとんどの場合で邪魔にしかならないから好きにはなれなかったが、雨が降るのなら仕方がない。傘を片手にニキアスは歩き始めた。


 弱いとはいえ雨のせいで人出ははっきりと少なかった。明確に目的を持っている人以外は屋内で静かにしているのだろう。普段を知っているだけにその落差に驚いてしまう。その光景はむしろアリだった。どこか特別な感じがある。飛び跳ねる気にこそなれないが、ニキアスはうきうきしていた。

 一番街と二番街は区画で言えば隣り合ってはいるのだが、ニキアスとバオの住んでいる家も二番街とはいえ三番街にすぐ近い通りにある。したがって単純に考えるよりは距離が離れていた。通りを抜ける細道ももちろんあるが、そもそも直線距離にしたってそれなりにあるのだ。それにニキアスはまだそういった細かい道を把握はできていない。確実にジョゼフ一家のところにたどり着くには、いちど中心街に出てから向かうのが良いと本人も理解していた。知らない道に入って知らないところに出たら笑えない迷い方をする人間も少なくない。


 バオと生活をしている影響で、ニキアスも知らず知らずのうちに花があれば視線を奪われるようになっていた。足を止めてじっくりと眺めるのではなく、ああ咲いているな、と思う程度ではあるが。

 ニキアスがこの日見つけたのはやわらかい雨に濡れた、朱色の花だった。石畳と家屋のすきまのところに生えたたくましいものだった。もちろん彼には花の名前などわからない。花弁や根によって種類の分け方があることも知らない。だからニキアスはそれを大きな括りの花としてだけ認識した。ちょうど夜空を見上げて瞬くすべてを星と呼ぶように。

 雨のせいで目に映る景色の色調が落ちてしまったなかで、その朱色の花は不思議なほど浮いていた。街の中には系統としては似たような色があったのにもかかわらず、ニキアスの目にはそうは見えなかった。今回もいつものように、ただ咲いているのを確認しただけだ。なにか感想を持ったわけではない。自身にとって強烈な存在感を放っていたことにさえ気付いていなかった。


 やがてニキアスはジョゼフ一家の住居がある通りに着いた。ここも二番街や中心街と同じく、人の出は減っている。街並みが違うから趣も異なっている。より静かな感じがした。


「ニキアスさん!」


 目的地へ向かう途中で声をかけられた。聞き覚えのある声に振り向いてみると、カフェの窓からジョゼフが手を振っていた。向かいの席にはヤコブも座っている。彼は軽く手をあげた。相変わらず無口であるらしい。

 ジョゼフのもとへ寄っていくと、彼はうれしそうに大きく手を振った。もう声をかけたのだから、と無粋なことはニキアスもヤコブも言わなかった。


「ジョゼフ、元気だった? ヤコブさんもどうも」


「はい、元気でした。ニキアスさんも一緒にどうですか?」


 傘の下から見る店内は、明るくて暖かそうだった。賑わってもいる。家にいるのも飽きたけれど雨が降るなかをうろうろしたくもないといった人には最適なのだろう。専門家による温かい飲み物と穏やかなスペースは、さまざまな選択肢を用意してくれる。誰かと話をしてもいい。本を読むのに集中してもいい。ただ気を抜いてぼーっとしているだけでもいい。そうなると雨が素敵な背景効果になるのだから、物事は考えようだ。

 ニキアスはジョゼフの誘いに乗ってカフェに入店することにした。店内の客がすべて自分のことに集中していて、こちらに意識を向けないのが気楽だった。ジョゼフたちのテーブルは入り口からは離れた窓際のところにあった。

 ニキアスはココアを注文した。


「今日はこんなところでどうしたの?」


「実は、今日かもしれないんです」


「それってもしかして……」


 ニキアスが言いかけると、それ以上は待ちきれないとばかりにジョゼフが頷いた。さっきよりもよほどうれしそうで、彼の内側から気持ちが暴れて飛び出て来そうなほどだった。つまり、ラケルが言っていた二週間後というのがぴたりと当たったということらしい。

 ニキアスはうずうずが収まらないらしいジョゼフに両の手のひらを向けた。するとジョゼフは迷いなく自分の手のひらでニキアスの手を叩いた。何かを表現しないとならないのだが、まだ彼にはそのための能力が備わっていないらしい。いくら頭が良いとはいえ、まだ八歳の少年だ。知能と理性とは別物だ。これから複雑に分化していく感情を受け入れながら順番に獲得しなくてはいけないものがある。

 ヤコブも穏やかな顔でそのほほえましいやり取りを見ていた。まったく関係のない難癖だが、彼の筋肉質な身体はあまりカフェには似合っていなかった。

 ひとしきりジョゼフの喜びを分かち合ったあとで、ニキアスは疑問を抱いた。


「あれ、じゃあ二人はどうしてここに」


「出産のときに役に立たないから、と追い出されたんだ。俺とジョゼフは」


 カップを傾けてなんでもないようにヤコブは言った。すっかり落ち着き払った様子で、他の選択肢がないことをすっかり受け入れているようだった。よほどすさまじい追い出され方をしたのかもしれない。しかしそうは言ってもニキアスも反論はできそうになかった。自分が出産の場に立ち会ったところで何ができるとも思えない。場所を取るだけ邪魔というものだ。おそらくジョゼフもヤコブに似たようなことを優しく諭されてここに連れてこられたのだろう。

 注文したココアが届いて口をつける。ニキアスは温かいココアが好きだった。甘さもそうだが、家では作ることができない特別感がそれを後押ししている。材料やレシピがあれば作ることはもちろんできるのだろうが、自分で作ってココアに幻滅したくない。そんな考えが彼を店で注文するだけに留まらせていた。


「いまどんな感じなの?」


「産婆さんとその手伝いが四、五人詰めている。もう二時間になる」


「父様が急いで呼びに行ったんです。母様がつらいって言ったらすぐに」


 ジョゼフはヤコブのある意味でなんでもないような行動を、とても大事なことのように付け加えた。少年はずっとうれしそうな笑顔のままだった。いま彼の目に映るすべてが光り輝いているだろうことを誰も疑えない。そしてそのことがニキアスにもヤコブにも眩しくて、その眩しく思えることがうれしかった。

 ときおり飲み物に手をつけて、窓の外を見たり店内に目を向けたりした。それぞれ緊張の度合いと意味は違っても、落ち着かないのは三人ともだった。外には見えないくらいの細い雨が続いている。店内はテーブルごとに空気が違っている。

 新しいことが起きないままで話が続くわけもなく、いつしか三人はただ待つだけの時間を迎えることになった。決して雰囲気は重苦しいわけではない。素晴らしいことが待っていることはわかっている。それでもただ待つだけというのは難しいことだった。


 そういった光景をはじめて見たわけではない。育った村で何度となく目にしたことはある。しかしどうしてかニキアスにはこの日のことが強く印象に残った。

 まっしろな布に包まれた、まだ目も開いていない赤ん坊が、なんだかまだ同じ人間とは思えないようなかたちをした新しい命が、母親に抱かれている。父親が安心した心とうれしさがあふれて混じったような、説明の難しい顔で母親の肩に手をやっていた。揺らしてはいけないからきっと添えるだけにしているのだろう。兄になった少年は母親のベッドのそばを右へ左へと落ち着きなく飛び跳ねている。出産という大仕事を手伝った女性たちが次々に声を掛け合って、まだ終わっていないと動き出していた。

 ニキアスはそれをすこし離れたところで呆然と見ていることしかできなかった。よく知らない奇妙な臭いが立ち込めるなか、彼はただ放心していたのだ。なにか様々な思いが頭に浮かんだような気がするのだが、そのすべてが痕跡すら残さずに通り過ぎていってしまった。ばたばたと走り回る産婆とその手伝いの邪魔にならないように、ニキアスは廊下の壁にぴたりとくっついていた。どの人が何度往復したかなんて数える気にもなれなかった。


「よかった。頑張ったな……」


 ヤコブがラケルに額を寄せた。大仕事を終えて消耗していることが一目でわかる顔で、ラケルは笑ってみせた。ニキアスはこれも見たことがある。一般的な論理の中にない種類の強い表情だ。それは決まってニキアスを動揺させた。いつだって予想外のタイミングで現れるのだ。憧れではなく、ただただ巨大な何かを見ているような気分にさせられる。悪い感覚ではない。彼はまだその言葉を日常的に使ったことがなかったが、畏怖、という感情に近しいものだった。

 家庭の幸福と生命のための奔走が同時に成立している混沌とした空間は、異世界のようにも見えた。違う言語で、知らないルールで、それでも立派に時間が進んでいくのだから。ニキアスだけがぽんと放り出されていた。彼はそれに文句を言うつもりはちっとも起きなかった。むしろ自分からガラスの向こうの商品を眺めるような態度を取るくらいだった。


(こういうところにいると、まだまだ俺は足りないってよくわかる)


 ため息をつくでも残念そうにするでもなく、ニキアスは自分の前にある事実をただ確認した。時間限定の、歩いて行ける異世界に触れることでニキアスは自分自身の現在のかたちをぼんやりと感じることができた。理想とするものが具体的にどのような姿をしているのかさえわかっていなかったが、それは大きな問題ではなかった。彼はまだ十六歳でしかないのだから。


 やがて産婆たちが去ったジョゼフたちの家は同じ場所かと疑いたくなるほど静かになっていた。台風が過ぎたあとと様子がそっくりだった。新しく自分がいることを主張するように泣き叫んでいた赤ん坊も、いまではタオルの海に沈んで寝息を立てている。ラケルはゆりかごを隣に置いたベッドで眠りに落ちていた。息遣いがよく聞こえる。起こさないようにと足音にさえ注意を払っている親子のおかげだ。彼らは産婆に教えられたとおりに準備を進めていた。赤ん坊はすぐに目覚めるから、いつ起きてもいいように食事の準備を、とはいえ育児用ミルクを溶かす湯の準備だが、していた。

 さすがに今だけは他のことに気を回す余裕はないらしく、しばらくニキアスは放っておかれた。一声かけて帰るべきだったのかもしれないが、彼にはそれがどうしてもできなかった。


 重ねるべき準備を終えたヤコブとジョゼフがテーブルに戻って来た。さっきと同じく足音には気を付けながら。こっそり息をついて、親子の二人は目を合わせて幸せそうに笑った。そうしてジョゼフはゆっくりと椅子の背もたれに身を預けた。ゆっくり視線を上げるとその先でニキアスがなんとも言えない顔でひらひら手を振っている。少年は、あ、と目を見開いた。


「ご、ごめんなさいニキアスさん! すっかり違うことに集中してて……」


 勢いのある小声という器用な芸を披露しながら謝るジョゼフを、ニキアスは手で制した。そもそも彼は頭を下げてはいけない立場にある。最優先にすべきものを理解して、そのうえ行動にまで移れたのだから称賛されるべきなのだ。むしろニキアスがこの場に留まっているのは彼のわがままなのだから逆転もいいところだった。


「おめでとう、ヤコブさん。ジョゼフ。どうしてもこれが言いたくて」


「ありがとう。なんだろう、うまく言えないが、君がいてくれて助かった気がする」


「そんなことないよ。何もしてない」


「誰かがいてくれるだけで気分や雰囲気や、目に見えない大事なものがうまく転がったり変わったりすることがある。そういうことなんだと思う」


 自分に確認するように、ヤコブは手元を見つめて言葉を選びながらそう言った。たしかに上手い言い回しではなかったが、彼の言わんとすることはニキアスにもわかるような気がした。これはきっと細かい砂のようなものだ。どれだけ上手に手で掬ったつもりでも、どこかの隙間から零れ落ちてしまう。だから完全な理解は望むべくもなくて、なんとなくで良しとしなければならない意味合いのことなのだ。

 さすがにジョゼフであってもこの手の経験が要求される物言いは理解が及ばなかったらしく、きょとんとしていた。ニキアスも伝えてあげたいのだがそれは難しく、なんとももどかしいものだった。どうにか説明しようとして、言葉を重ねて脱線するのが目に見える。こういうときの誤魔化しは卑怯なのだろうか。結論の出せそうな問題にはとても思えなかった。


「じゃあ俺そろそろ帰るよ、あと、大変だろうからしばらくは寄らないでおくね」


「気を遣ってくれて助かる」


「外で会ったらよろしく。ここのみんなに会えてよかったよ、俺」


「はい! またよろしくお願いします!」


 ジョゼフは元気よく返事をしたあとに、あわてて口を押さえた。寝ている人が起きてもおかしくない声量だったが、振り返って確認してみると母親も赤ん坊も眠ったままだった。生まれたばかりの子はもしかしたら大物なのかもしれない。三人は同時にほっと安堵の息をもらした。起こしてはいけないわけではないのだろうが、余計な負担を与えるべきではないのは当然のことだ。

 ニキアスは立ち上がって、軽く手を振って別れを告げた。ジョゼフとヤコブは玄関まで見送りに来てくれた。扉のところで振り返って彼らの家のほうを見ると、不思議なほどにどうしようもなく名残惜しくなった。何に対してかはわからない。去ることだろうか。それとも他の何かに対してなのだろうか。頭の整理がつかなかったから、別れのあいさつに何を言ったのかをニキアスは覚えていなかった。

 雨が上がっていた。


 ほとんど水たまりのできない雨は、面影だけを残していなくなっていた。濡らした地面だけがその証明になっていた。雲の切れ間から光さえ射し込んでいた。そのことに気付いた人たちがすこしずつ外へ出始めている。傘を持って歩いていたときの特別感はなくなってしまっていたが、人の姿が見えるのもまた悪くない。雲がだんだんと晴れていく様子も含めて祝福のように見えたからだ。ニキアスはとりあえず中心街へ足を向けた。そのまま帰ってもいいかと考えていた。

 中心街にたどり着くころには人出もおおよそ回復していた。雨のせいで閉じ込められていたぶん、いつもより活気が出ていたかもしれない。誰かが鼻歌を歌っていた。


「あら、ニキアス」


 彼の前を歩いていた人がすっと横に避けると、ルクレツィアがそこにいた。彼女を外で見かけるのは初めてだった。ジョゼフを酷使した店にいっしょに向かったことはあるが、それとは状況が違う。どんな天気にせよ、あまり空が似合わない人だ。周囲よりも歩くテンポが遅いらしく、彼女の後ろから来る人はみんな右へ左へ足の向きを変えていた。


「ルクレツィア。どうしたの」


「とても大雑把に言えば仕事よ」


「知り合いが言ってたよ、忙しい人は優秀な場合が多いって」


「ありがとう。でもわりにそんな人ばかりよ、みんな忙しい」


「それって忙しそうにしてる人じゃない? そこも違うんだって聞いたけど」


「なかなか辛辣な意見ね」


 そう言ってルクレツィアは口元を隠してくつくつと笑った。

 笑いが収まると彼女は右手の人差し指と中指をくっつけて立てて、それを肩の辺りに持ってきた。急な動作にニキアスは驚いたが、やがてそれがハンドサインであることに思い至った。指している意味内容は別にして。

 するとルクレツィアはほんの短いあいだニキアスの目を見て、そうしてから周囲をざっと眺めたあとで歩き出した。何も言われていないのに、ついていくことにニキアスは疑いを持てなかった。知らない種類のコミュニケーションだった。

 ついていった先は外にテーブルを出しているタイプの飲食店で、カフェと言うには出している料理のメニューが充実し過ぎていた。席についてみると歩いていたときよりも街の様子がよく見えた。空にはきれいな水色の部分が広がり始めている。


「ついてきちゃったけど、いいの? 仕事中でしょ?」


「一分一秒を争うものじゃないわ。明日でもいいし、明後日でもいいやつだから」


「ふうん。それならいいけど」


「誰かに出くわさないとこうやってお茶しようとも思わないから、そういう意味ではズバリって感じだったわ。あなた緊張しなくて済むし」


 注文した品を待ちながらそんなことを話した。彼女が言うには、これといって話しておきたいことがあるわけではないらしい。実際そうなのだろうとニキアスは彼女の言葉を信頼した。そもそも彼にはそんな話を思いつけない。

 届いたのはどちらも紅茶だった。好きなものを注文しなさいと勧められたが、そんな気分ではないとニキアスは固辞した。食べるのは好きだが、彼にも気分が乗らないことがあるらしい。


「そういえばルクレツィア、ジョゼフのところ、産まれたよ」


「あら、よかった。頑張ったのね、ラケル」


「現場にはいなかったけどすごく頑張ってたんじゃないかな、いまは眠り込んでる」


「ん? ついさっきまでラケルのところにいたように聞こえるわ」


「うん。たまたま寄ったんだ」


 ルクレツィアは左手の人差し指を自分の顎に当てて、視線を上に飛ばした。そしてまあいいかとでも言うように手と視線を下ろした。彼女はその動作にしっかり時間をかけたが、それを目にしていたニキアスはひとつもそんなことを思わなかった。彼女も自身のために時間を使うことに何も思っていないようだった。また話を始める前にティーカップをゆっくり口元に運んだ。口をつける前にすこし香りを楽しんだ。


「ねえニキアス、ひとつ聞いていい?」


「なに?」


「あなた、うちのギルドに興味ない?」


 今日の夕食をどうしようかと尋ねるように出てきた言葉に、さすがのニキアスも驚いた。冗談を言っている様子はない。またそのように使っていい話題でもない。ぎょっとしてルクレツィアの顔を見てみると、そこには平然とした表情がある。

 ニキアスはどう答えたものかと考えざるを得なかった。巨大なギルドであるという意味においてはたしかに興味はある。しかしこの聞かれ方はそれとは明確に違う。口にしてしまえば決定的になりかねない言葉というものがある。それを聞いた相手からの認識もそうだが、自分自身の意識に根付いてしまうことがある。だから返し方に注意を払うべき場面が存在する。勘でしかないが、ニキアスはこの場このタイミングでの言葉がそれになってしまう可能性があるような気がしていた。


「俺もうギルド入ってるよ」


「え、あなたこの街に来てそんなに経ってないって言ってなかったかしら」


「まあ、だいたい一か月ぐらいかな」


 意外そうなルクレツィアの確認をニキアスは肯定した。


「そういうのって入るところはもっとしっかり探すものかと思ってたんだけど」


「入ったっていうよりは作ったんだ。いま組んでる人と」


「いま作ったって大変でしょう。新しいギルドがやっていく余地なんてあるの?」


 当然の疑問であり心配だった。街の現状を見るに、新規参入はかなり気合を入れて腰を据えないとどうにもならない。何年粘らないとならないかも不透明で、そのうちどれほどの期間を食いつなげるかもわからない。条件を見れば不利も不利だ。それがルクレツィアにもわかっているのだろう。彼女がいるのは巨大な組織で、言い換えれば同業を圧迫している立場なのだから。

 しゃべってはいけない事情を隠したまま彼女を納得させる言い回しがニキアスには思いつかなかった。ギルド名であるビハインド・オルファネージの名前は出しても問題ないだろうが、そこから先が不安だ。活動内容や先々の計画、その他さまざまなことを追及されたらとても対応できない。ニキアスの大丈夫だという言葉で引き下がってくれればいいが、それはただの祈りだった。


「大丈夫だと思うよ、登録前だったけど一仕事は経験できてるし」


「うーん、引き抜きでうちに来ない? そのほうが私はいいと思うわ」


「ありがたいことだと思うけど、遠慮する。俺たち二人しかいないし」


 それを聞くと、失敗したぁ、とルクレツィアが小声でつぶやいた。表情も渋いものになっている。それを見るに本当に引き抜こうと考えていたらしいことが窺える。やはり冗談ではなかったと知って、ニキアスは軽口を叩かなかった自分を褒めた。もし軽率なことを口走ってしまえばあれよあれよと言う間に手続きなり何なりが進められて、言い訳のできない状況に追い込まれていたことだろう。別にルクレツィアのいるモリエール商会が悪いのではなく、彼はバオと組んでこの街にやってきたのだから、彼女の関知しないところで話が進むのは筋が通らないと思ったのだ。それにバオとも確認したことだが、ニキアスは自分に店番なんてできないと思っていた。


「それにほら、俺なんてお店でできることないでしょ」


「警備とか護衛だったらうってつけでしょう、あなた」


 そういえば彼女にはそういった人物がついているらしい、とニキアスはそこで思い出した。おそらくいまも姿の見えないところで目を光らせていることだろう。

 たしかに店番よりはそちらのほうが向いているだろう。しかしそこに自身の必要性をニキアスは感じなかった。ほんの少し詰めて考えれば、彼である必要はない。そして彼がいま置かれている状況は、いくつかの事情が絡まって彼でなければならないというものだ。それが前向きな事情かどうかは判断の難しいところだが、とにかくそうなっている。それは意外なほど大事なことだった。


「そうかも。でもやっぱりダメかな」


 ニキアスはきっぱりと断った。モリエール商会で護衛をする自分がどうにも想像できなかったのだ。それよりはバオといっしょにイザベルからの依頼をこなしているほうがイメージがついた。可能性としては低そうだが、もしこの街にニキアスが一人で流れ着いていたのならそんな未来があったのかもしれない。そうなるとすべての歯車が違った動き方をするだろうから、そもそもとして出会うことができたかどうかすらが不透明になってしまうが。

 本当に惜しいと思ったのか、ルクレツィアは長めのため息をひとつついた。しかしそれが終わるとすぐに切り替えていつもの余裕を取り戻した。


「まあいいわ。気が変わったらその話はいつでも受け付けるから」


「ありがとう。ルクレツィアもなにか依頼があったら言ってよ、荒事とか」


「考えておくわ」


 二人は時間をかけて紅茶を飲んで、どちらが何を言うともなく立ち上がって、そして別れた。ルクレツィアはもともとの用事へ。ニキアスは結局帰ることにした。

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