第11話
稲月の家の近所を離れ、少し遠出したのは正解だったのかもしれない。稲月がよく知っている場所に行くと、彼女は寂しそうな顔をしたり、私を見ているようで見ていない不思議な目を向けてくることがある。
でも、今日はそれがなかった。
「わ、幻想的だ」
巨大な水槽で泳ぐ何匹もの金魚を見ながら、彼女は呟く。
「騒がしいとこも好きだけど、こういうのも悪くないね。静かで、綺麗な感じ」
「うん。私はこういうところの方が好き」
水の音を聞いていると、心が安らぐような感じがする。稲月の手から伝わってくる熱もあいまって、生まれる前に戻っていくかのようだった。
何も考えず、ずっとこうしていられたら幸せなのかもしれない。
館内のどこを歩いても幻想的な水槽が飾られていて、見ていると別世界に来たかのような心地になる。
私たちは何周か館内を回った後、お土産コーナーに寄った。
コップとか、ぬいぐるみとか。色々可愛いものが売られているが、今日はもう十分思い出を作ることができた。これ以上何か形に残るものを持っておく必要もないだろう、と思う。
形あるものはいつか壊れるか、捨てられてしまう。
思い出と結びついたものが消えた時、それは心に深い傷を残す。
昔両親に送った手紙が大掃除の際に捨てられていたのを見た時も、そうだった。
「これ、買ってかない?」
稲月が手に取ったのは金魚が描かれたグラスだった。私は一瞬、返答に窮した。
「稲月が欲しいなら、買おうか」
「うん。欲しい。めっちゃ欲しい。可愛いし」
彼女は愛おしむようにグラスを見ている。
今日の思い出とグラスが結びついたら、また、私の心には消えない傷が刻まれることになる。
でも、いいか。
私の心の傷なんてもう、どうでもいいと思う。慣れているし、稲月が求めているのならそれでいい。
私は、笑った。
「じゃあ、私買ってくるよ」
「いや、いいって。私に買わせて」
稲月は有無を言わさずに会計に向かってしまう。
私は稲月に何もあげられないな、と思う。
いつか私が前の時間軸の記憶を思い出したら、その時は、何かを稲月にあげられるのだろうか。
存在しないものを思い出すなんて、無理だけど。
稲月もごっこ遊びならもっといい設定を考えて欲しいと思う。私が演じやすい設定だったら、もっと……。
もっと、なんだろう。
「買ってきた。どうする? もうちょっと見てく?」
稲月は袋を持って言った。私は首を横に振った。
「ううん。出よう。もう十分見たしね」
「わかった。じゃあ、ご飯食べに行こっか」
「そうだね。朝ごはん、ちょっとしか食べれなかったし」
「朝はちゃんと食べないと体に毒だぞー?」
稲月はにやりと笑う。私は小さく息を吐いた。
「……稲月」
「ごめんごめん。お昼、好きなもの食べに行こうよ」
好きなもの、かぁ。
考えてみれば、ない。
でもこういう状況で何もないと言うのも変だ。稲月の好みに合わせようとしたらバレて怒られそうだし、どうしよう。
「じゃあ、お寿司で」
「こういうところでお寿司とは……中々やるね、彩春」
適当に答えたのは失敗だったかもしれない。私は曖昧に笑った。
「あんまり、外食しないから」
「そかそか。じゃあ、私が外食の極意を教えたげるね」
彼女はそう言って、私の手を引く。
好きなものを買って食べてくださいという書き置きと共に置かれたお金で食材を買って料理していたのは、ちょっとした反抗だったのかな、と今更思う。
一人で食卓についてご飯を食べるのは寂しかったけれど、外で食べるともっと寂しい気持ちになると私は知っていた。
スーパーで惣菜を買うのも、少し嫌だった。
顔も見たことがない人の作ったものを自分の家で食べたら、ただでさえ自分の家とは思えない空間が本当に別の人の家になってしまうような気がして、駄目だった。
「極意?」
「うむ」
彼女は偉そうに頷いた。
外食くらい当たり前にするのが普通の人間なんだよね。
稲月は家族と仲がいいようで、私にも時々両親のことを話してくれる。彼女の話に愛想笑いと気の抜けた相槌しか返せない私は、ちょっとどうかと思う。
稲月の笑顔は好きだ。好きだけど、家族の話を聞くのは、どうしても嫌だと思ってしまう。
心が狭いなと、自分でも思う。
「というわけで、行こう。善は急げってことで」
私の手を引いて前を歩く彼女の背中を、私は何度見てきただろう。
前を歩いたり、自然に肩を並べたり。隣にも前にもいつも彼女がいて、幾度となく体温を感じ、笑顔を見てきた。
その度に私は、今日も稲月は元気だとか、稲月はいい人だとか、そういうことを思ってきた。
明るくて、強引で、電波ちゃんで。稲月は今まで会ってきたどんな人とも違う、不思議な人だった。
お金を受け取ってもらえないなら、せめて稲月のためになることを何かしてあげたい、と思う。
でも、それが具体的にどういうことかわからないから、何もできない。
もどかしい。
色々な感情が数えきれないほど私の胸には渦巻いている。稲月に拾われる前と今では、心の様相は多分別物と思えるくらいに変わっているのだろう。
「……うん。よろしく、稲月」
私は手を引かれるままに歩き出した。
稲月はまた、笑った。
結局稲月に連れ出されたのは、アクアリウムと同じ施設の中にある寿司屋だった。
「彩春は回らない寿司と回る寿司どっちが好き?」
回る、寿司。
寿司が、ぐるぐる?
皿が回るのかな。いやいや、まさか。
「回転寿司のことだよ。……え、知らない?」
「知らない。どういうやつ?」
「いや、こう……レーンで寿司が来るっていうか、ねえ?」
「……?」
稲月に奢ってもらって食べる寿司は美味しい、と思う。
金銭分の罪悪感があるから少し体が重い気がするが、今更だ。私は稲月から施しを受けすぎている。
甘えすぎるのも、どうなのかな。
うーん。私に何ができるかもっと考えるべきだろう。
「時々思うけど、彩春ってどういう生活送ってきたの?」
「どういうって……うーん。勉強して、料理して、友達とちょっと遊んで、とか?」
「友達とどういう遊びするの?」
私は今一番仲がいい友達のことを思い浮かべた。彼女と遊ぶ時は……。
「家に遊びに行くことが多いかも」
「え、マジ?」
私はお茶を飲みながら頷いた。
「まじ。一番よく遊ぶ友達の妹さんが私を結構気に入ってくれてて、一緒にゲームしたりね」
「へー」
「変かな?」
「いや、変とは言わないけど……あんま高校生になって人ん家行くことってないからさ」
彼女は手慣れた所作で寿司を口に運ぶ。
やっぱり、お嬢様なだけあってこういう店には慣れているのかもしれない。私はいまいち作法がわからないまま食事を続ける。
美味しい。美味しいけれど、気が重い。
寿司だって、今までの人生でほとんど食べたことがない。困ったら好物として上げる料理だけれど、食べるのが久しぶりだからか舌が驚いている気がする。
世の中に溶け込めてないのだろうか。
一枚ガラスを隔てた向こう側に世界があるような感覚ではあるが、友達は普通にいるし、それなりの生き方をしていると思う。
思うけれど、実際どうかはわからない。自分で自分の評価はできないし、両親は私の人格や生き方を評価してはくれない。
「あ、じゃあさ。今度天川家に遊びに行っていい?」
「私の家? いいけど……本当に、何もないよ」
「それでもいいよ。彩春が住んでた家がどんな感じか、見てみたい」
住んでいた、ではなく、住んでいる、と言った方が正しい。
そのはずだけれど、わざわざ訂正する気にはなれなかった。
「わかった」
「よし。決まりね!」
稲月は楽しそうに笑う。
だから私も、笑ってみせた。
微妙に気の重い食事を済ませた後、私たちはそのまま特に目的もなく施設内を歩くことにした。食事中は離れていた手が再び繋がれると、もはや私たちの手は繋がっているのが普通な気がしてくる。
温度と時間が混ざって、私たちが元の私たちじゃなくなっていく。
何も目的がないと自然に歩調が合うことが、それを証明しているように思う。
「楽しみだなー。天川家に行くの初めて」
「前の私は、稲月のこと呼ばなかったんだ」
「家には呼んでくれなかったかな。……思えば今の彩春と前の彩春は、同じようで結構違うかも」
彼女は遠い目をして言う。
その顔を見ていると、前の時間軸の存在を信じてしまいそうになる。
「どっちも好きだけど、今の彩春は初々しくて可愛い」
「初々しい?」
「そ。擦れてないし、オーラが違う」
稲月の知っている私はそんなに擦れているのだろうか。
擦れるって、具体的にはどんなだろう。
毎日夜遊びするとか、テストの答案用紙に落書きをしてみるとか。
稲月に拾われていなかったら、今の私はどうなっていたのか。想像しようとしても、難しい。
稲月とこうして手を繋いでいる私が、他の誰でもない今の私だ。
「今の彩春のことも、もっと深く知りたい」
稲月は私をまっすぐ見つめながら言った。
今日は、私のことをちゃんと見ている。私は少し、心がざわつくのを感じた。
「うん。もっと、お互いに知ってることを増やせたらいいね」
「そのためにはもっと、一緒にいないとね」
一緒にいる。
それを言うために、私をここに連れ出したのだろうか。今この流れで家に帰ると言うのはおかしいと思う。
こうやって先延ばしにしたら、辛いのは自分だとわかっているのに。
まだ、稲月との生活を続けたいと願っている自分がいる。
本当に私は、どうしようもなく弱い。
「一通り見たらさ。帰ろうよ、私たちの家に」
稲月にとってはもう、私はあの家の住民らしい。
私の心はまだ、稲月の家を自分の家として認識することができない。
まだ、じゃない。
そう認識できるようになったら駄目だから、明日も明後日も稲月の家は稲月の家だ。私の家には、ならない。
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