覚悟と誓い②
私が証明したいのは、今みたいな日常が続くということだ。
チャペルに行かなくても、ドレスを着なくても、その証明はきっとできるはずだった。
いや、むしろ。
変わらない日常の中でそれを誓うことにこそ意味があると思う。
だから私は家に帰った後、いつもと同じように彩春に「ただいま」といって、同じように風呂に入り、夕飯を食べた。
いつもと違うことがあるとすれば、念入りに体を洗ったこと、くらいだろうか。
「稲月はホットミルクに何入れる? ハチミツと普通の砂糖と黒糖があるよ」
風呂上がりでいつも以上にふわふわした髪を揺らしながら、彩春は私に聞いてくる。思わず抱きしめそうになりながらも、私は平静を装った。
「えっと……じゃ、ハチミツで」
「わかった」
彩春は楽しそうにホットミルクをくるくるかき混ぜている。
最近は彩春が楽しそうにすることが多くなった、ような気がする。
私のおかげって自惚れてもいいのかな。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
私は彩春の入れてくれたホットミルクを飲んだ。
温かくて、甘い。
それは彩春そのもののような気がした。彼女から与えられるものはいつも温かくて甘やかで、私を幸せにしてくれる。
こんなにも人を好きになるのは初めてだ。
そして、最後でもあるだろう。彩春以外を好きになる自分の姿は、想像できそうになかった。
「隣、座るね」
彩春は私の隣に座って、同じようにホットミルクを口にする。
白く彩られたその唇に無意識のうちに吸い込まれて、私は気付けば彼女と唇を重ねていた。
いつもより少し熱くて甘い唇を味わうように啄んで、その奥に侵入する。自分の命を預けてくれているみたいに抵抗なく舌が受け入れられると、私はいつも喜びの絶頂につれていかれ、降りて来られなくなる。
味や香りや、温度。その全てを味わい尽くすためにゆっくりと舌を絡ませると、彩春はそれに応じて柔らかく私の舌を撫でるかのように舌を動かしてくれる。そういう行動の一つ一つが私を喜ばせ、幸福にさせ、興奮させる。
柔らかい髪に両手を添えて、もっと深くまで貪るように舌を絡ませていく。
内頬の弾力。上顎や歯茎の形。ある種機械的なものを感じさせる歯の硬さに、私を受け入れてくれている彩春の温度。
そういうものを感じるために、探るように舌を口内にぴたりと這わせていく。
それが終わると舌に戻って、少し強めに吸ってみる。
生命の反射的な強張りが彼女の舌に訪れた後、私を受け入れるために柔らかさを取り戻すというその一連の流れが、私をどうしようもなく幸福にさせた。
口を離すと、夢中になりすぎて視野が狭くなっていた私の視界に、彩春の顔がしっかりと映るようになる。
髪と同じ栗色の瞳はとろけ、私の姿をぼんやりと映し出している。まるでその瞳の中で、もう一人の私が溺れているかのようだった。
「もう一回、してもいい?」
私は彼女の髪を撫でながら聞いた。
指の隙間から、柔らかな髪がこぼれる。
「聞かなくても、いいよ。稲月がしたいようにして」
「後悔、しないでよ」
私はそのまま、何度も彼女の唇を貪った。
一度たがが外れてしまったら以前と同じようには戻れないみたいで、私は何度でも彼女とキスがしたいと思うようになっている。
キスがこんなにも幸せで気持ちがいいものだなんて、私は知らなかったのだ。
互いのことを思い合い、気持ちを絡めてキスをするというのは、この上なく幸せだった。別れと結びついていたキスが、嘘であるかのように。
「稲月。稲月、好き」
うわごとのように、彼女は熱のこもった声で私を呼ぶ。
私は何度も彼女の頭を撫でて、抱きしめた。
「私も、好き」
今の時間軸になって、何度キスをしただろう。
何度こうして、好きと言い合っただろう。
もう数えることもできないくらいに繰り返されているのに、ちっとも飽きないし、声に込められた熱や感情が薄れることもない。
それを確認する度に、この感情が永続するものだという確信を深める。
誓うものではないのかもしれないが、私は永遠を誓いたいと思った。
「彩春。私の部屋、来て」
「うん、わかった」
私は胸の中で渦巻く熱い感情を抑えずに、彼女の手を握った。
彩春はやっぱり、抵抗しなかった。
「ベッド、座って」
私は自分のベッドに彼女を座らせて、その隣に腰をかけた。
永遠を誓うための手段は色々考えた。考えたが、結局単純な手段で誓い合うことにした。
私は大きく深呼吸をして、彼女の瞳を見つめた。私も彼女も、瞳には互いの姿しか映っていない。
「私に、永遠を信じさせてほしい」
「どうすればいい?」
彩春は間髪を容れずに聞いてくる。
そういうところが、好き。
「心に、誓ってほしい。私の心に傷をつけて、永遠を刻みつけてほしい」
私はパジャマのボタンを外した。いつもは着るのも脱ぐのも面倒だからボタンのついた服を着ないが、今日は特別だ。
前を開けると、エアコンが発している風が肌を撫でてきて、少し寒くなる。私は自分の胸の中心に人差し指を当てた。
「心がどこにあるのかはわからないけど。でも、一番ドキドキさせられてるのは、ここだから。きっとここが、心に一番近い場所だと思う。……だから」
大人にはもっと、違う誓いがあるのだと思う。
これは何十年も高校生であり続け、人生における次のステージに進めなかった私の、拙くて人には理解し難いであろう誓い方だ。
「だから。思い切り、ここを噛んでほしい。痛くて、ずっと忘れられないくらいに」
心に一番近い場所に彼女から強い何かを与えられたら、何もかも全部、信じられるような気がした。
心の中は彼女で一杯で。でも、心の表面には、心の外郭には傷一つついておらず、以前の私と変わらない。なら、心の外側に傷をつけて貰えば、以前とは変わらない私になれる、と思う。
それはきっと、私にしか効果のない誓いだ。しかし。だからこそ、いいものだと思う。問題は、彩春がそれを受け入れてくれるか、だけど。
「どれくらいの力で噛めばいいの?」
「血が出るくらい強く」
「……わかった。それで、誓えるなら」
彩春の顔が胸に近づく。
普通、こういうシチュエーションはもっと甘くドキドするものなのだと思う。
今の私の胸にあるドキドキは、意味が違う。
熱い吐息が皮膚を撫でる。それは、注射前の消毒に少し似ていた。怖いような、早くしてほしいような。
ためらいと共に吐き出された息。その少し後に、鋭い痛みが胸に走った。
焼けるように熱くて、痛い。さっき舌で確認した彼女の歯が柔らかい皮膚に食い込み、心にまでその痛みが到達していくような感じがする。
じわじわと食い込み、痛みが増していき、同時に何よりも心地良くなる。
胸に染み込んでいた不安が痛みと共にこぼれ落ちていくように感じる。恐怖や不安、寂しさが欠けて隙間ができた心に、彩春の唾液と一緒に温かい感情が流れ込んでくる。そうして新しく出来上がっていく私の心に、痛みが刻みつけられる。
彼女の顔が離れていくと、私は今までの私とは違う存在になったような気がした。
胸に視線を下げる。
血は出ていないが、くっきりと跡がついている。体育で着替えるとき少し困りそうだなんて、場違いな感想と一緒に胸に浮かんだのは確かな満足感だった。
愛おしくなって、歯形をなぞる。
へこんだ皮膚の形。残る痛み、彼女の熱。全てが心地良かった。
「どう? 稲月の心に、誓えた?」
「うん。ばっちり。ありがとう、彩春」
「どういたしまして。じゃあ……」
彩春は当然のようにパジャマを脱いで、私に胸を差し出してくる。
下着はつけているとはいえ、彼女はほとんど生まれたままの姿に近い。そうなると私の視線も自然と、彼女の胸に吸い寄せられる。
「私のことも、噛んでいいよ」
「え。……痛いよ?」
「うん、それでいい。痛い方がいい。それで私も、稲月のことをもっと深く感じたい」
「……今日も彩春は、直球だ」
「稲月が言葉を受け止めてくれるからだよ」
「……そっか」
私は彼女の背中に手を回して、胸に顔を埋めた。
彩春の匂いがする。甘くて、優しくて、ずっと嗅いでいたくなるような匂い。
心臓の近くに噛み付く。飴玉を噛み砕く時みたいに歯を食い込ませると、生命らしい弾力が歯に伝わってくる。
ぎりぎりと力をこめていくと、彩春に頭を撫でられる。
これ、考えてみればすごい恥ずかしいし倒錯的だ。
人に見られたら、頭がおかしいと思われそう。
それでもいい、と思う。
誰が見てもおかしいというような行為でも、彩春がそれを受け入れてくれるのなら。私たちの間に流れる永遠をカタチにできるのなら。
最後に思い切り彼女の肌に噛みついて、口を離す。
当たり前だけど、私の胸についた噛み跡と彼女の胸についた噛み跡は違う。それでも、同じようにくっきりと残っている。
私たちはしばらくその噛み跡を互いに指でなぞり合った。
永遠を確かめるように。
「夏じゃなくて、よかったね」
彩春が言う。
「水着になったら、見えちゃうから」
「私は見せつけてもいいけどね」
「私はやだ。こういうのは、他人には見せたくない。私たちだけのものにしたい」
「……確かに。私も、そっちの方がいいかも」
私たちは自然と手を繋ぎ、そのまま静かな時を過ごした。
胸に残る痛みが、私から不安を奪い去っていた。
明日も、明後日も、その先も。彩春となら永遠を一緒に過ごせるという確信が胸にある。
時間を巻き戻さなくても、彩春となら一緒に生きられる。彩春もきっと、同じことを思ってくれているはずだ。
「彩春、好きだよ」
「うん。私も、稲月のことが好き」
「知ってる。でも、私の方がきっと、もっと好き」
「そうかな。私の方が、好きだと思う」
「譲らないね」
「この気持ちだけは、誰にも譲りたくないから」
彩春はそう言って、笑った。
なぜか。彼女の笑顔を、初めて見たような気がした。
それを見て私は、思わず彼女にキスをした。
唇を離すと、彼女はまた、幸せそうな笑みを見せた。
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