第13話

「天川。あーまーかーわー」


 乱暴に肩をゆすられて、自分がぼーっとしていたことに気がついた。智星は私に訝るような目を向けている。


「朝からずっとボケてるけど、何かあったん?」


 智星は目を細めて聞いてくる。こういうときに心配そうな顔を見せないのが、彼女らしいと思う。


「ちょっとね」

「なんじゃそりゃ。天川がぽんやりなのは今に始まったこっちゃないけどさ。今日はいつも以上にひどいわ」

「何、ぽんやりって」

「ぽんやりはぽんやり。あんたの今の様子見てると、反論の余地はなしでしょ」


 智星は私の隣の席に座って、足を組んでみせる。中が見えてしまいそうだが、智星は基本そういうことを気にしない。


 細かいところをあんまり気にしたり突っ込んだりしてこないから、気が合うのかもしれない。


 私も仲良い友達はそれなりにいるのだが、その中でも今一番仲がいいのが智星だ。よく家に遊びに行くし、学校では彼女と一緒にいることが多い。


 趣味は合う気がしないが、気は合う。そんな感じだ。

 稲月とは、どうなのだろう。彼女の趣味について私は詳しく知らない。でも、多分気は合うと思う。そうでなければ、一緒にいたいとは思っていなかっただろう。


「まあ、んなことよりさ。年末暇でしょ? うち来なよ」

「え。流石に年末にお邪魔したら迷惑じゃないかな」

「迷惑とか感じる機能がうちの家族にあると思う? チビ助が連れてこいってうるさいのよ。あたしも久しぶりに彩春と遊びたいし。いいっしょ?」


 智星の妹は私を好いてくれている。それは嬉しいけれど、年末に人の家に遊びに行くというのは憚られる。


 今年は両親も忙しいらしく、年末も帰って来られるかわからないとのことだが、しかし。


「用事あんならいいけどさ」

「うーん……」


 用事は、ない。

 クリスマスは時間を作ると両親からメッセージがあったが、年末は多分、帰って来ないと思う。


 稲月も年末には流石に実家に戻るだろうから、私は一人で正月を過ごすことになる。稲月と一緒にいることに慣れてしまった私は、それに耐えられるだろうか。

 わからないから、怖い。


「わかった。行く」

「よし。オッケー。じゃあ三十日から来な」


 智星は爪を見ながら言った。

 本当にいいのかな、と少し思う。家族の団欒を邪魔するというのは気が引けるのだが、結局了承してしまっているのだから仕方がない。


 どうなんだろう。

 私ももっと大人になれば、今抱いている寂しさとか悩みの類を全部捨てて、新しい私になれるんだろうか。

 ……無理だろうなあ。


「そいやさ。天川って今ちゃんと家に帰ってんの?」


 智星は私が家出していたことを知っている。八月は何度か彼女の家に泊めてもらったり、他の友達の家に泊めてもらったりしていたのだ。


「……帰ってるよ」

「……んー。ま、いいけどさ。変な男に騙されたりとかしてない?」

「大丈夫。その辺は多分、ちゃんとしてるから」

「ならいいけど。困ったら連絡しなよ」

「うん、ありがと」


 予期せず年末の予定が埋まる。智星はそのまま駅前に新しくできた店の話とか、最近起こった面白いことについて話し始める。私はそれに耳を傾けながら、ふと廊下の方に目を向けた。


 そのとき、ちょうど私を見ていたらしい稲月と目が合った。

 彼女もまた友達と何かを話しているようだったが、私に気づくとすぐに微笑んでくる。私は一瞬固まってから、小さく笑い返した。


 別に私たちは友達同士であることを隠しているわけではない。

 ただ、話すべきことは家で話しているから、学校では学校でしか話せない友達のことを優先しているだけだ。その結果私たちはほとんど関わりがなかった頃のように、それぞれの友達とだけ話している。


 機会があれば稲月と学校でも仲良くするのかもしれない。

 でも、その必要もないのかな、と思う。


 学校では、朝話せるくらいで十分だ。稲月がどうかは、わからないけれど。


 放課後になると、私は一人で家に戻ることにした。智星は用事があるとのことで、稲月は友達と話し込んでいる様子だった。


 一人で帰るのは久しぶりかもしれない。

 特に寄りたいところもないから、まっすぐ稲月の家に向かおうとする。そのとき、後ろから忙しない足音が聞こえてくる。


「彩春っ! 待って!」


 振り返ると、稲月が走ってきていた。

 連絡をくれれば、待っていたのに。


「やっと追いついた。待っててよ、どうせ同じ家に帰るんだから」


 ぜえぜえ、はあはあ。

 稲月は頑張って息を整えている。稲月は体力があるはずだけど、そんなに急いで来たのだろうか。


 ちょっとかわいそうになって、私は近くの自販機でスポーツドリンクを買って彼女に渡した。


 冷えた飲み物を少し触っただけで手が冷たくなる。でも稲月は走ったばかりだからか、冷たい飲み物を勢い良く飲み干していた。


 どうせ同じ家に帰るのなら。こんなに必死になって追いかける必要はなかったのでは。


 そう思いながら、彼女を見つめる。

 彼女の白くて滑らかな喉が動いて、体の奥へと液体を必死に流し込もうとしているのがわかる。


 好きってほどじゃ、ないけれど。

 彼女の喉が動いているのを見るのは、少し楽しいかもしれない。前に私の喉を綺麗だと言って優しく触ってきた彼女の気持ちが、少しだけわかるような。


 喉の動きは瑞々しい生命の動きで、心臓の鼓動にも似ている気がする。

 当たり前だけど、稲月は生きている。


 私の目に前で、こんなにも生き生きと動いているんだ。

 その躍動が、妙に愛おしく思う。


「急がせて、ごめん。友達との時間は、大事かと思って」

「彩春と帰ることより大事なことなんてない」

「大袈裟だよ」


 私たちはいつも一緒に帰っているわけではない。私は時々智星と遊びに行くし、稲月だって友達に誘われて遊びに行くことがある。


 それが普通なのに、稲月は今日、ここまで必死になって私を追いかけてきた。


 なんで私のためにこんなに必死になるんだろう、と思う。

 私は少し、心が重くなるのを感じた。


「大袈裟なんかじゃない。私にとって、彩春との時間は何より大事だし。……そりゃあ、付き合いとか色々、あるけどさ」

「……そうなんだ」


 私にとって稲月は、なんなのか。

 代わりがいない存在だとは思う。


 でも。代わりがいないのは、両親も同じだ。両親に対する私の気持ちはとっくに萎んでいる。構ってもらうことも、褒めてもらうことも、無理だってわかったから。


 稲月も似たようなものなのではないかと思う。

 近づこうとしても近づけなくて、ずっと一緒にいたいと願うには、信じられるものだとか確かな繋がりが足りなくて。


 このまま一緒にいたら、両親との関係と同じように疲れて、萎んで、最後には泡のように弾けていくように思う。


 代わりがいない存在が増えれば増えるほど、心が疲れていく、ような気がする。


「だから、一緒に帰ろう」

「……うん」


 稲月はペットボトルをゴミ箱に捨てて、私に手を差し出してくる。

 彼女の手は、火傷しそうなほど熱かった。冷たい私の手とは比べ物にならない。触れていたらどっちの体温も混ざって、ぬるくなっていくような感じがする。

 それでいいのかな、と少し思う。


「彩春。クリスマスは、予定ある?」


 彼女は何かを恐れるように、私の手をそっと握る。


「うん。久しぶりに、お父さんとお母さんが帰ってくる……らしいから」

「らしい……」


 彼女は歩き出そうとしない。

 冬の寒い風が吹いて、体が震えた。それでも繋いだ手は温かくて、右手だけが私らしくない高温になっている。私の手は、本来もっと冷たいはずだ。


「彩春。家族のこと、聞いてもいい?」


 稲月はいつもとは比べ物にならないほど小さな声で呟く。

 こういう話を彼女とするのは、初めてだ。

 私の家族のことなんて話しても、どうにもならないと思うけれど。


 話しても話さなくても、どちらでもいいなら。稲月には、話してもいいのかもしれない。


「小さい頃からほとんど遊んでもらったことないから、お父さんのこともお母さんのこともよく知らない」


 言葉に出すと、なんてことはないように思える。

 実際、大人になったら一人でも生きていけるようになるのかもしれない。寂しくても、苦しくても。一人の家を自分の家と思えるようになって、自然に「ただいま」と言えるようになるのだろう。

 だからって、今の私がなくなるわけじゃないけれど。


「お盆とか、正月とか。そういう時は帰ってきてたんだけどね。最近はもっと忙しくなったみたいで、帰らないことも多いんだ」

「家出、してたのは」

「うん。まあ、恥ずかしいけど……寂しいからかな。一人の家に帰りたくない、なんて。そんな感じ」


 子供っぽいと、自分でも思う。

 別に、一人でいるくらい大したことじゃない、はずなのに。


 一人で家にいることが多かったせいか、私は大したことじゃないはずのことをひどく苦しいことに感じるようになっている。


「でも、私は幸せだと思うよ。良い成績さえ残してれば自由に遊べるし。こうやって稲月と一緒にもいられてるし。友達にも結構言われるんだ。羨ましいって」


 なんでこんなに饒舌になっているのだろう。

 話すと決めたのなら、無駄に感情を隠す必要なんてないのに。


 舌の回転を止められないのは、私自身が自分の心を直視したくないためなのかもしれない。


「一人の家に帰るなんて、別に大人になったら普通だし。だから——」


 言い終わる前に稲月に抱きしめられて、声が止まる。

 稲月は痛いくらいにぎゅっと私を抱きしめて、背中をさすってくる。


「話してくれて、ありがとう。でも、もういいよ」


 稲月は私の耳元で囁く。

 冷たい耳に、温かい声が響いた。


「帰ってきてよ、彩春」


 彼女の髪が、頬に触れる。


「クリスマスが終わったら。いつでもいい。私たちの家に、帰ってきて。ご馳走もプレゼントも、用意して待ってる」


 帰る。

 帰ると言って、いいんだろうか。

 でも。


「……うん」


 私は彼女の胸の中で小さく頷いた。

 全身で体温を感じられる相手は、稲月だけだ。それが何を意味するのかは、わからない。でも、クリスマスが終わったら彼女の家に行こうと思う私は、多分稲月と一緒にいたいと願っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る