第12話
コーヒーで温められた息は吐き出された瞬間急速に冷えて、白く染まっていく。
白い息が二つ浮かんで、すぐに消える。
「これ、写真撮った?」
稲月はキャンパスの入り口に飾られた巨大なクリスマスツリーを指差して言った。
附属高校である我が校は、大学のキャンパス内に校舎が設置されている。だから高校も大学も入り口は同じだ。
ミッション系の大学だからクリスマスシーズンになるとツリーが飾られるし、キャンパス内にはチャペルやら宗教っぽい建物が並んでいる。
「うん。……ほら」
私はつい先週撮ったばかりの写真を彼女に見せた。
スマホの画面に写っているのは私と友達とツリーだ。
「これ、羽田?」
それは友達の名前だった。
「うん。
「そりゃあ、何十年もクラスメイトなわけだし」
「仲良かったりした?」
「あんまり。私と羽田って、系統違うし」
「系統……」
私からすれば稲月も智星も似たようなものなのだが、確かに、違うと言えば違うかもしれない。
智星とは手を繋ぐことはあっても抱きしめ合ったりはしない。当然喉を触り合ったりもしないが、一緒に出かけたりお泊まり会を開いたりはする。
でも、稲月の位置に智星を置こうとすると、違和感が生じる。
二人の違いはなんだろう。系統は似ていると思うのだが、やっぱり稲月は稲月だ。手を繋いでいると落ち着いて、肩を並べて歩きたいなんて思う。
「私と稲月も、系統が全く違う気がするけど」
「まあ、そうかもだけど」
「不思議だよね。朝稲月が早く来てなかったら、多分こうして一緒にいなかったわけだし」
私はコーヒーを一口飲んだ。
稲月と一緒にハンバーガー屋で買ったコーヒーは、別に特別な味じゃないのに、どうにも美味しく感じられる。
「私も、そう思う。朝たまたま早く行ったら彩春がいて、びっくりした」
「それは、前の時間軸の話?」
稲月はツリーを見上げる。私はスマホをバッグに入れて、彼女の視線を追った。
クリスマスになると、普通の家庭ではツリーを飾ったりするらしい。そういう経験がない私には、ツリーを家で飾って何をするのか見当もつかなかった。
ツリーを囲んで食事とか、するのかな。
ちょっと怪しげな儀式っぽい。実際は、どうなんだろう。
「んー……まあ、そう。……でも。今回も、ドキドキした」
「んと……」
「もし彩春が朝早く来てなかったらって。心配で、不安で……朝早く教室に行くのが、少し怖かった」
彼女は私に目を向ける。白い息の向こうに、彼女の顔が見えた。
瞳が見えないと、私を見ているのかそうじゃないのかわからなくて、少し不安だ。
「朝早くじゃなくても、普通に話しかけるのじゃ駄目なの?」
「それじゃ、彩春が心開いてくれたかわからないから」
私は野良犬か何かなのだろうか。
……似たようなものかもしれないけれど。
「でも、今も別に、開いてくれたわけじゃないのかな」
稲月はそう言って、ハンバーガー屋の袋を私に押し付けてくる。
何をしようとしているのかと思っていると、彼女は自撮り棒とスマホをバッグから取り出して、私の肩を抱いた。
「稲月?」
「私とも撮ろう、写真。離れた時はそれ見て元気出せばいいよ」
自信過剰な発言だ。
写真を見たって、きっと元気なんて出ないと思う。余計に寂しくなって、胸が痛くなるだけだ。
でも。稲月と写真を撮るという行為自体には意味がある気がするから、抵抗せずに彼女に体を寄せる。
十二月の寒波の中でも、彼女の体は温かい。九月に初めて手を繋いだ時と体温は全く変わらなくて、それに安心する。でも、同時に、何かが変わることに期待している自分がいる。
シャッター音が響いて、肩がそっと離れる。稲月は楽しげに写真を眺めながら目を細めている。
そんなに楽しいのかな。
私はまだ仄かに温かい袋を胸に抱いた。
当たり前だけど、稲月よりはあったかくない。どれだけ温もりに飢えているのか。自分でもちょっと馬鹿馬鹿しく思うけれど、一度それを知ってしまったら、知らなかった時よりも欲してしまうようになるのは当たり前だ。
何でもいい、わけじゃなくて。
私は稲月の温もりが欲しいと思っている。
「うん。可愛く撮れた。後で彩春にも送るね」
私は小さく頷いた。
それから、私たちは教室に向かった。その途中でチャペルが目に入る。大学のチャペルでは卒業生が結婚式を挙げられるのだ。前にふらりと日曜日にキャンパスに来た時、結婚式をしているのを見たことがある。
あの時の二人は、幸せそうだった。
ウエディングドレスには感情を増幅させる効果でもあるのか、花嫁はある種の酩酊状態であるかのように幸福そうな笑みを浮かべていた。
花婿がそれを笑顔で受け止めていたのを、今でも鮮明に思い出せる。
あれは終わりじゃなくて、始まりに過ぎないのだろうけれど。
結婚したいと思えるほど好きな人がいるというのは、幸せだと思う。
ウエディングドレスを着てああいうところに立つ自分は想像できなくて、私はなんだかおかしくなった。
一人では生きていけないほど弱いのに、人を好きになるのも難しい。私はそういう人間だ。
人の何を信じれば好きになれるのか、私にはわからない。……わからないのに。
「寒いね、今日は特に」
稲月は私の一歩先を歩きながら、体を震わせた。
手を繋いでいなければ、歩調は合わない。
私は袋から稲月の分のコーヒーを取り出して、彼女に渡した。
「この状態じゃ手は貸せないけど、これくらいはするよ」
「ありがとう。気が利くね」
「稲月に色々教えてもらったから」
「そか、そか」
コーヒーを渡すときに、指先が触れる。たったそれだけのことが嬉しく思えるほど、私は稲月の体温を欲している。
欲しいのは体温だけ?
私のどこかが問いかける声に、返事をすることができない。
私はいつものように職員室で鍵を受け取って、教室に入る。まだ登校するには早い時間だから、私たち以外に誰もいない。三人目が来るのは、多分三十分後くらいだろう。
いつも数十人の人を受け入れている広い教室を、二人だけで使う。それはひどく贅沢なことのように思える。
私が自分の席に座ると、その前の席に稲月が座る。
春にはこうして二人だけで、いくらかくだらない世間話をしたっけ。もうそれが遠い昔のことのように思える。
「えっと……ソーセージエッグが稲月のだよね」
「うん。彩春はベーコンエッグね」
私は強制的にベーコンエッグを選ばされていた。
別に、好きってわけじゃないけれど。
稲月は時々変なこだわりを見せる気がする。
「彩春って、ハンバーガーは食べるの?」
「時々ね。朝食べるのは初めて」
私はハンバーガー……いや、マフィンというのだったか。それに齧り付いてみせる。
予想していた通りの味で、美味しい、と思う。
「どう?」
「美味しい、けど。なんで私にこれを選ばせたの?」
「……前、食べてたから」
彼女は小さく呟いて、もそもそと自分のマフィンを齧る。
空気が少し変わった気がする。
朝にこういうものを食べるのは初めてだ。少なくとも、私にとっては。でも、稲月にとっては違うのだろうか。
稲月の知っている私は朝にこういうものを普通に食べていたのか。稲月と、一緒に住んでいたわけでもないのに。
そこにどんな心境の変化があったのだろう。寂しさを振り切ったのか、それとも心のどこかが壊れて、全部どうでもよくなったのか。
別に何を食べたって、悪いことではない。
でも。
こういうものを一人で食べることに抵抗があるのが、今の私だ。
「何か思い出したりしない?」
稲月は変な声で聞いた。
まるで、思い出したと言ってほしくないような、そんな声だ。でも、その顔は何かに期待している。それは、私が何かを思い出すことを期待している顔ではないのか。
どっちなんだろう。
こういうときに稲月が求めているものがなんなのか、私は未だに理解することができていない。ふざけたり茶化したりすることもできない。
稲月の怪電波に侵されて、私も前の時間軸の景色が見えたりすればいいのに、と思う。
「残念だけど」
「……そっか」
沈黙が訪れる。稲月の横顔は寂しげで、ここではないどこかを見ているようだった。何度も見たことがあるその顔に、胸がざわつく。
「あ」
稲月が小さく声を上げる。
見れば、彼女はコーヒーを手にこぼしてしまっていた。
「大丈夫? 火傷とか……」
「平気平気。ちょっと手、洗ってくるわ」
彼女は包み紙とコーヒーを机に置いて、そのまま教室を出ていく。律儀に扉を閉めていったから、私は閉鎖された空間に一人残された。
稲月に話しかけられるまで、私は毎日この時間は一人だった。家にいるのが嫌で、早めに学校に来てはいたが、結局私は一人でしかなかった。
それでも制服を着ているとどこかに所属しているんだと思えて、少しだけ心が軽くなったのを覚えている。
どこに所属していても、心に巣食う寂しさが消えるわけではないのだけれど。
この時間に初めて稲月に会った時、多分嬉しかったんだと思う。
ずっと、ずっと長い時間、何年も一人で教室に居続けた自分が救われたような気がして。
……何年も?
私は首を傾げた。早く教室に来るようになったのは、高校生になってからだ。私はまだ一年なのだから、何年も一人教室に居たわけではない。
頭に微かな痛みを覚えるのと同時に、教室の扉が開く。
稲月の顔が、何かと二重写しになった。
今の稲月よりもっと明るい髪が揺れて、隠されていたピアスがちらりと見える。今より少しだけ大人びたその顔が私の方に向いて、黒い瞳が驚いたように私の姿を映した。
春の匂いがした。
葉桜の季節の風が扉の向こうから吹いてきて、私の心を揺らす。私は一瞬言葉を失って、ゆっくりと目を瞬かせた。
「稲月……だよね?」
視界が微かに歪んで、私の知っている稲月が顔を見せる。明るい茶色の髪から覗く耳に、ピアスはついていない。
「そうだけど……どうしたの?」
「……どうもして、ない。稲月は今日も綺麗だと思う」
「急に褒めんなし。照れる」
稲月はそのまま、元の席に戻る。
彼女のシャンプーの匂いが鼻腔に到達すると、幻の春の匂いが遠のく。
今のは、なんだったんだろう。
まさか稲月の電波が脳の芯まで到達して、私も変になって幻覚を見るようになったのか。いや、でも。
さっきの稲月を懐かしいと思っている自分も、どこかにいる。
ありえない。前の時間軸なんて、そんなの。
稲月と一緒にいることで心が乱れて、少し変になっていただけだ。私は自分にそう言い聞かせて、コーヒーを飲み込んだ。
苦い味が、警告のようにも思えた。
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