そして、今日①
卒業式の日。
私は天川を校舎裏に呼び出していた。
「稲月。何か用?」
彼女はいつもみたいに眠そうな顔で私を見てくる。
緊張感ない。
いや、緊張されても困るけど。
いやいや、でも私は緊張してる。
「いや、あの、さ」
これからも天川と一緒にいたい。それを言いに来たはずなのに、言葉が出なかった。
認めよう。私は天川のことを気に入っている。一緒にいると落ち着いて、飾らずに届けられる言葉がどうしようもなく心地良くて、私はいつの間にか天川のことを気に入るようになっていた。
めちゃくちゃな発言に困りながらも、嫌じゃない、と思う。
彼女の言葉に悪意はない。いつだって私の目を見て、まっすぐ好意を伝えてくれる。そう言うところが、うん。好き……なんだと思う。
彼女に対する苛立ちは、きっと。
素直に人への好意を伝えられなくなっている自分への苛立ちであり、同時に、どこか私と心の距離を置こうとしている彼女に対する苛立ちでもあるのだろう。
もっと知りたい。
白状しよう。
好きだ。
天川のことが好きだ。
今まで誰にも抱いたことがないくらいに。
……だが。
「稲月」
声が聞こえる。いつの間にか下を向いていた私の顎に指を添えて、天川が笑っていた。
枯れた木を背景にして笑う彼女は、どこか乾いているように見える。でも、何よりも綺麗だった。
「噛まないでね」
「え……」
唇が、重なる。
色の違うグロスが重なって、混ざり合っていくのを感じる。天川が私色に。私が天川色に。体温も匂いも全部混ざって、ぐちゃぐちゃになったまま私に流れ込んでくる感じがした。
唇がゆっくり離れると、彼女はにこりと笑った。
相変わらず、わざとらしい笑み。
「なんで?」
「んー。したかったから? 今日が、最後だし」
かも、じゃないのか。
いや、確かにその通りだ。私は確かに天川のことが好きだが、時間のループは止められない。
これからも一緒にいたい、はずなのに。それでも止められない。
だって、怖い。次に進むのは怖い。もし大学に行ったら天川と離れ離れになって、今までみたいに一緒にはいられなくなる。
それで天川に忘れられていって、私も天川のことを忘れていって、なんて。耐えられない。そんなの。
……いつの間にか、ループを行わない理由が天川になっている。
天川と離れたくない。
離れるくらいなら。知らない環境で彼女のことを忘れていくくらいなら。
このまま繰り返した方が、いいに決まっている。
「うん。でも、キスしてわかった。私、稲月のこと好きだったんだ」
天川はそう言って、私の横を通り抜けて歩き出した。
「私、自分の気持ちには割と嘘つくタイプみたい。でもこんな簡単なことで決壊するくらい、好きな気持ちがあったんだ」
スクールバッグに手を置いて、彼女は笑った。
「さよなら、稲月。稲月がどこを見てるのかは最後までわかんなったけど……大好きだった。考えすぎないように、ご飯はちゃんと食べて、幸せにね」
私が時間をループさせていることは、知らないはずなのに。
このまま天川とずっと一緒にいるつもりがないことは、見抜かれていたらしい。
私は何も言えなかった。
何も言えないまま、臆病な自分を変えられないまま、私はまた、時間を繰り返した。
九回目の高校生活。
私は二年生になるまで、天川に話しかけることができなかった。
今まで経験してきた全部が、天川からはなくなっている。天川からすれば私はただのクラスメイト。よく知らないクラスメイトとして話されるのが嫌で、避けていた。
全部自業自得なのに。
だが、いつまでもこうしてはいられない。
やっぱり私は、彼女と一緒にいたい。彼女の顔が見たい。彼女の声が聞きたい。私を見てほしい。
今更だ。
今更、思っていた以上に天川のことを好きになっていた自分に気がついた。
高校二年の六月。私はまた朝早くに教室に行った。
ハンバーガー屋の匂いはしなかったけど、やっぱり教室には天川がいた。
「稲月? こんな時間に来るなんて、珍しいね」
眠そうに笑いながら、天川は言う。
薄くメイクされた顔。柔らかな髪。インナーカラーは、入っていない。
でも、やっぱり天川は天川だ。私は少し泣きそうな心地になりながら、なんでもないように笑ってみせた。
「まあね。今日はここで朝食べようと思って」
私はハンバーガー屋の袋からハッシュポテトを取り出した。
「いる?」
「稲月のじゃないの?」
「私のだけど、ほしいならあげようかなって」
「……それ、美味しいの?」
「保証する」
「じゃあ、一口だけ」
思い出を再現しようとするくらいなら、時間を戻さなければよかったのに。自分でも思う。でも、止められない。
私はそっとハッシュポテトを彼女の口に運んだ。
彼女は少し驚いたような顔をしたが、何も言わずにポテトを齧る。
かつてとは立場が反対だけど、天川は変わっていないような気がする。普通、クラスメイトにあーん、なんてされても食べないと思う。
やっぱ、普通じゃない。
天川は、不思議ちゃんだ。
私と彩春の間にあるのは運命なんじゃないか。
なんて頭が茹だったようなことを思ってしまう程度に、私は浮かれている。
この時間軸で彩春に初めて話しかけてから、一年が経った。その間、私たちはかつてのように遊びに行ったり一緒にご飯を食べたりして、仲を深めた。そうして、私と彩春は互いの名前を呼び合う仲になった。
恐らく、今私は幸せの絶頂にいると思う。
「彩春、見て見て。このマグカップ、可愛くない?」
私は猫のマグカップを彩春に見せた。彼女が淡い色を好むことはこの一年で知った。だからそういう淡い色のものが多く置いてある店を探して、最近は彼女と一緒に通うようになっていた。
「ん、ほんとだ。可愛い。買っちゃおうか」
「お揃いで買おうよ。私この青いのね」
「じゃあ、私はこのピンクのやつにしようかな」
彩春とお揃いのものを買うことも、多くなってきた。彼女も私と一緒にいるのが楽しいと思ってくれているようで、二人で遊びにいくことが増えてきている。
彩春のことをもっとよく知りたい。もっと一緒にいたい、と思う。
いつの間にか私は彩春のことを前の時間軸の時よりも好きになっている。二人でいるだけで安心して、心地良くて、穏やかでいられる。
手を繋いでいるだけでドキドキするのは、彩春だけだ。
他の誰と手を繋いでも、こうはいかない。
私と彩春はどんな時間軸でも仲良くなるのが運命で、どう変わったって仲良くなれる。私はそんな確信をしていた。
「水空」
彩春と手を繋いだまま街を歩く。
幸せだと思う。その裏側に潜む恐怖に気づかないふりをして、私は彼女に笑いかけた。
「なーに?」
「私、水空に会えてよかった」
「お、おう。何、急に」
「水空が色んなとこに連れ出してくれるから、毎日楽しい。だから、お礼を言っておきたくて」
彩春はいつだって心を隠さずに伝えてくれる。
三年生でも、二年生でも、彩春は彩春だ。柔らかなその唇から発せられる言葉の破壊力は変わらなくて、私は赤面させられる。
「いや。それを言うなら私も、うん。その……彩春に会えて、よかったって思ってるし」
彩春と一緒にいると、いつも私は赤くなって、たじろいで、変になる。それも嫌ではない。
彩春の言葉は温かいから、それで困惑させられる分には構わないと思う。
「ずっと一緒にいられたらいいよね」
私が言うと、彩春は一瞬、体をこわばらせたように感じた。
「……そうだね。ずっと一緒に、いられたらいいね」
その言葉には、全く感情がこもっていない。
「そうだ。この辺で夜まで遊べる場所って、どこかある? 連れてってほしいな」
彩春は微笑んだ。
その微笑みを見て、少し安心する。
「おっけ。色々知ってるから、案内してあげる」
彩春はあまり家族と仲良くないのか、時折こうして夜まで遊ぶことを提案してくる。こういう時は、遊び回っていた経験が役に立つからいいと思う。
私は彩春の手を引いて歩き始めた。
掌に感じる彼女のひんやりした感触は、やはり前の時間軸のものと変わらない。それに安堵してしまう自分に、少し嫌悪感を抱いた。
二年という時間はあっという間に過ぎていく。
気付けばまた、卒業式を迎えていた。前の時間軸とは違い、今度は私が彩春に呼び出されて校舎裏に訪れる。
そして。
私は、また。彩春にキスをされた。
「ごめんね。キス、もらっちゃった」
いたずらっ子みたいな笑みを浮かべて、彼女は言う。彼女の瞳は相変わらず眠そうで、感情の色がほとんど見えない。
それでも、彼女が寂しがっていることだけはわかった。
私は思わず彼女に手を伸ばしたが、その体に触れることはできなかった。
「さよなら、水空。二年間楽しかった」
私は彩春の告白を断った。でも、彩春は最初から断られるのがわかっていたみたいに、いつも通りのまま私から離れていく。
唇が熱いのに、心が冷え切っていくような感じがする。
行かないでと言えたら、よかったのだろうか。
いや。どこかに行ってしまうのは彩春じゃなくて、私だ。
私が時間を戻さなければ、彩春にさよならなんて言葉を言わせずに済んだのかもしれない。
全部、私が弱いから悪いのだ。
私は、どうするつもりなのだろう。これからずっと時間を繰り返して、何度も彩春と仲良くなっては、別れて。
前の時間軸の彩春と、今の時間軸の彩春。同じ人間だから彼女の性格はほとんど変わらないが、思い出は違う。前は、朝ハッシュポテトを食べたのは私で、今は彩春になっている。
そういう細かい差異が積み重なっていって、私は今を見失っていってしまうのではないか。
それでも。
彩春さえ隣にいれば、それでいいと思う。
「彩春。ごめん。やっぱり私……」
自分が何を言おうとしているのかも、もうわからない。
本当は、彩春と恋人になりたい。でも、告白を受け入れて恋人同士になったって。
時間のループを止めなきゃ何も変わらない。ループを止める気がないのに彼女の告白を受け入れることなんて、できるはずがない。
自己嫌悪に溺れていく。
「水空。いつだって、水空は笑顔でいた方がいいよ。……その笑顔を向けてもらえるのが『私』じゃなくても。水空には、笑っててほしい」
彩春の言葉が、痛い。
笑おうとしても笑えなかった。
彩春は寂しげに笑って、どんどん私との距離を離していく。
「それだけ。じゃあね、稲月!」
前の時間軸が、重なった気がした。
手を伸ばしても、その背中には届かない。
そうしてまた、私は時間を巻き戻した。
十回目の三年間が、また始まる。
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