ベーコンエッグな彼女②

 高校の屋上と違って、大学の校舎の屋上は開かれている。

 大学の第一校舎の屋上。そのベンチに、そいつはいた。


「天川」


 返事はない。

 天川はベンチに寝転がって、顔にブランケットなんてかけている。


 それを剥ぎ取ると、ムカつくくらいに綺麗な寝顔が現れる。私は形のいい鼻を摘んで、口を塞いだ。

 反応がない。


 なんだ、死んでいるのか。

 いやいや。そんなわけ。

 考えているうちに、奴の目が開く。


「おはよう、稲月」


 彼女は私の手をどかして言った。


「おはようじゃないから。何サボってんの」


 毎週金曜日、天川は授業をサボってどこかに行く。私は彼女がいつもどこに行っているのか探し続け、今日ようやく見つけることができた。

 授業をサボるくらいなら、学校になんて来なければいいのにと思うけど。


「こんなに天気がいいんだから、寝ないと損だよ」

「あんた学校に寝に来てんの?」

「当たらずといえども遠からず。どうせ授業受けなくてもいい点取れるからね」

「うわー、すごいムカつく。あんたほんとなんなの」


 私はベンチの端に座った。天川は眠そうに目を擦りながら、空を見上げている。


 最近彼女によく話しかけているのだが、話していても目が合うことはあまりない。それがまた、私をイライラさせる。

 こっち、見ろし。


「さあ。私がなんなのかなんて、私も知らないよ」


 天川はそう言って、枕にしていたスクールバッグを肩にかけた。


「稲月もお昼寝していけば?」


 立ち上がりながら、天川は呟いた。

 私も慌てて立ち上がる。


「どこ行くつもり?」

「静かなとこ。稲月も来る?」

「……行く」


 こいつを困らせるために、私はわざわざ時間を使って付き纏っているのだ。ここで引いたら意味がない。

 何度も何度も振り回されてたまるか、と思う。

 私は振り返らずに歩き始めた天川の背を追って歩き始めた。



 静かなところというのは、水族館らしい。

 天川は年間パスポートなんて持っていて、私がせっせとお金を払っている間にさっさと入館してしまった。


 協調性がない。思いやりもない。学校ではそれなりに友達と話しているところを見かけるけど、友達にもこんなに自分勝手な振る舞いを見せているんだろうか。


「天川! ちょっとくらい待っててよ」

「……あ。稲月。そっか。いたんだっけ」


 殴ってもいいかな。いいよね。だってムカつくもの。

 手を振り上げそうになった時、天川は口を開いた。


「ごめん。ここに来る時っていつも一人だから。置いてかないように、手でも繋ごうか」


 あーんとか、手を繋ぐとか。子供じゃあるまいし。

 だが、ここで断ったら負けな気がする。


「……いいよ。繋ごうよ」


 天川は差し出した手をきゅっと握ってくる。

 彼女の顔はやっぱり、思いがけないほど穏やかで優しい。


 なんだ。なんなんだ、その顔は。見ていると何も言えなくなるから、やめてほしい。


「ほら、見て稲月。鰯の大群だよ」

「そーね」

「面白いよね。本能に従ってるのに、綺麗にぐるぐるーって」


 面白いと言いつつ、天川は真顔だ。

 本当に、人形みたいだと思う。


 彼女の手はひんやりしていて、生きているのかどうか疑わしく思う。手が冷たい人は心が温かいと言うけど、絶対嘘だ。


 こんなめちゃくちゃな人間の心が温かいはずがない。何を考えているのかも、わからないし。


 しかし、生きているのは確かなんだよな、と思う。

 彼女の薄い唇は確かに呼吸の音を発していて、時折茶色の虹彩が私を映してくる。

 私、何してんだろ。

 こんな奴と二人で、学校サボって水族館とか。


「あんたさ。いっつもここ来てんの?」

「毎週来てるよ」

「一人で?」

「うん」


 天川は水槽をぼんやり眺めている。深海みたいな瞳が魚を映すと、本当にその瞳の中で魚が泳いでいるかのように見える。

 見ていたら、こっちが溺れてしまいそうだった。


「寂しすぎでしょ。友達いないわけじゃないんでしょ?」

「まあ、そうだね。でも、心を静かにする瞬間が、私には必要だから」


 ぐるぐる回る鰯の群れを見ながら、天川は小さな声で言った。

 心を静かにする瞬間。


 それは、私にも必要かもしれない。未来のこととか、臆病な自分のこととか、全部忘れられたら。


「喧騒に身を置いたって、心がざわめくばかりだから。静けさに溶けて、無にならないと苦しくなる。そういう時、稲月にはない?」

「ある、けど」


 最近はずっと、そういう感じな気もする。

 恐れとか、自己嫌悪とか。全部抜きにして生きられたらどれだけ幸せだろう、なんて。全部自業自得だとわかっているけど、それでも、怖いものは怖い。


 しかし。前に進みたいという気持ちが、ないわけじゃないのだ。

 心がぐちゃぐちゃになっている。

 全部忘れたいと願ってしまうほどに。


「稲月。今日は私がいないと思って、好きに回りなよ。きっと、心が静かになるよ」


 天川は私を見ているんだか見ていないんだかわからない顔で言った。

 んなこといきなり言われても、困る。


 困るけど、困らせられたままではいられない。こうなったら好き勝手に館内を回りまくって、天川に音を上げさせてやろう。

 そう思って歩き始めると、天川は少し笑った気がした。



 天川は本当に何も言わなかった。

 三回館内を見て回っても、十分以上ずっとアザラシを眺めてみても、ペンギンにきゃーきゃー言ってみても。次第に私も天川がいることを忘れていき、ただ無心で海洋生物たちを眺めた。


 確かに、無になるかもしれない。

 全てを忘れて、本能のままに生きる動物たちを見ていると、自分の心が海に帰っていくような感じがする。


 静かで、心地良くて、どこか温かいような。

 ふと気づく。


 天川の体温が、意外なまでにすんなりと私の体に取り込まれていることに。


 抵抗がない。そこにいることに、違和感がない。なんなんだろう。わからないけれど、天川が隣にいても不快じゃない。


 いや、何も話したりしてないんだから不快も何もないと思うけど。

 けど、なんか、なんだろう。

 落ち着く。


 天川の隣にいて、その吐息の音を聞きながら、手を繋いでいると。それが自然になって、私の一部になって、馴染んでいくような。


 んな、馬鹿な。

 この不思議ちゃんが私の一部に、なんて。ありえない。

 ありえないってのに。


「天川。もう、喋っていいよ」

「……そう? どうだった。一人で回る水族館は」

「確かに、ハマるかもだけど。一人とは思えなかった」

「じゃあ、今度は本当に一人で来てみるといいよ」


 一人で水族館に来ることなんて、ないと思う。

 天川がいなけりゃ、ぼんやりと水族館を回って心を無にするなんて、考えもしなかった。


 ……ムカつく。

 全然駄目だ、こんなんじゃ。結局天川に振り回されているじゃないか。


「来ない。あんたみたいに不思議ちゃんじゃないから」

「そっか。まあ、いいと思うけど。いつもよりスッキリした顔してるよ、稲月」


 だから。

 こいつはなんでこんなにど直球な言葉をぶつけてくるのか。

 遠慮とか、恥とか、そういうのがないのか。


「な……なんなの」

「今の方が可愛いよ。あんまり考えすぎないようにね」


 天川は微笑んだ。

 何、その顔。


 私が絶句していると、天川は手を離して、そのままふらふらと出口の方に歩いて行ってしまう。

 あっと思った時には、彼女はどこかに消えていた。


「……あー、もう! なんなのほんと!」


 意味わかんない。わけわかんない。なんであんな顔で私を見るんだ。

 不思議ちゃん。電波。意味不明。馬鹿。

 ほんと、ムカつく。



 本当に不本意だけど、私と天川は相性がいいらしい。互いに互いが邪魔にならないというか、一緒にいて抵抗がない。


 傍にいるのが普通みたいな感じで、体温も、息遣いも、自然に受け入れられる。彼女の言動を受け入れられているとは、言い難いけど。


「天川。もう勉強やめにして、どっか行かない?」


 夏休み。天川と出会って三ヶ月が経ち、私たちは頻繁に遊ぶ仲になっていた。


 今日は学校の図書館で勉強をしている。というより、させられている。何を言っても天川が勉強を止めようとしないので、仕方なく付き合っているのだ。


「行かない。今日は勉強の日って決めてるから。稲月、行っていいよ」

「あのさぁ。一人で行ってもしょうがないでしょーよ」

「友達誘えばいいよ」

「私はあんたを誘ってんの」


 いや。私もなんで、天川を誘っているんだろう。

 別に趣味が合うというわけではない。ただ一緒にいて違和感がないってだけで、別に遊ぶと楽しいとかそういうのじゃない。


 むしろムカつくことの方が多い。

 こいつはいつも飾らない言葉で私のことを褒めたりとかしてくるから、その度に困惑させられて、心を乱される。


 今までこんなタイプとは出会ったことがない。

 だから、もっと知りたいというのはちょっとだけ、本当にわずかばかりあるかもしれない。


 だが、何よりも不公平だと思う。

 私が困惑した分、天川も困惑しないと駄目だ。

 私と同じくらい、照れて困惑してムカつけばいい。


「天川ー」


 天川の横顔を見る。

 ふわふわした髪が、手の動きに合わせて揺れる。私はそれを指でくるくると巻いた。柔らかくて、触り心地がいい。


 ちょっとは照れたかと思ったけど、なんの反応もない。

 ムカつく。


「天川って、可愛いよね」

「稲月の方が、可愛いよ」


 反射してきた可愛いという言葉でやられる。

 なんだなんだ。なんなんだ。


「最近はもっと、可愛くなったと思う」


 天川はペンを置いて、私を見た。

 深海みたいな瞳。

 綺麗で、少し怖くて、でも、吸い込まれそうな感じ。


「そういう顔してた方がいいよ。そっちの方が、好き」


 好き。

 人にそんな言葉を言われるのはいつぶりだろう。小さい頃はしょっちゅう会話に登場していた言葉だが、私はすっかりそれを忘れていた。


 ずるい。この歳だと言いづらいはずの言葉を、天川は平然と言えてしまうのだ。私には無理だ。面と向かって天川に好きなんて言えるわけがない。


 いや、違う。

 そもそも私は別に、天川のことなんて好きじゃない。

 変化に怯えるようになった私が新しい関係を築いてしまうほどに、彼女と相性がいいのは確かだ。しかし、好きじゃない。


 好きなわけあるか、こんなやつ。

 いつも飾らずに恥ずかしい言葉を発してきて、驚かせたり困惑させたり、顔を熱くさせてきたりする。こんな奴と一緒にいたら、私はおかしくなってしまう。

 とか思いつつ、一緒にいるんだけど。


「そういうって、何よ」

「生き生きした顔。瑞々しくて、綺麗で、可愛いと思う。稲月は表情がいいよね。顔の形ってより、作られる表情が可愛い」


 なんだこいつ。

 いや、マジで。


「知らんし、そんなの」

「そっか。でも、知らないくらいでいいと思うよ。自分でもわからないうちにいい表情ができるくらいが、一番幸せだから」


 天川は、微笑む。

 わざとらしい。


 天川の顔に笑うという機能はついているのだろうか。彼女の笑みは笑っているように見えないから不思議だ。

 思えば私は、天川のことをあまりよく知らない。


「よし。行こうか」

「は?」


 天川は急に立ち上がった。


「考えてみたら、稲月とこうしているのも今日が最後かもしれないし。遊ぼう」


 誰も今日でお別れとかそんなこと言っていないのに、天川はそれが確定しているみたいな口調で言う。


 そういうところは、本当に腹が立つ。

 別に、明日だって明後日だってその先だって、一緒に……。

 一緒にいてやったって、いいんだから。


「勝手に決めないで」

「そう? じゃあ、勉強を——」

「そーじゃなくて。別に、今日が最後なんて誰も言ってないでしょ。明日だって一緒にいるかもしれないんだから」

「……あはは、そうだね」


 天川は眠そうな顔で笑う。

 私はイライラしながら彼女の手を取った。


「稲月。まだ教科書とかしまってない」

「知らんし。後で落とし物として届けられたの、取りにいきゃいいじゃん」

「まあ、いいけど」


 いいけどじゃない。

 何も良くない。


 なんで天川と接していると、こんなにイライラするんだろう。なんでこんなに、落ち着くんだろう。


 めちゃくちゃだ。心がじわじわ温かくなって、落ち着いて、でもすごくイライラする。この気持ちをなんて呼べばいいのかわからない。


 わからないから、もっとイライラする。

 ああもう。

 ほんとに、ムカつく。

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