ベーコンエッグな彼女①

 自分に時を巻き戻す力があることを知ったのは、今から大体三十年ほど前のこと。


 きっかけは、なんだっただろう。卒業式の日、まだ高校生でいたいと願ったのが始まりだったと思う。


 その次の日。

 次の日って、言っていいのかな。

 とにかく、卒業式の日に寝たら私は入学式の日に戻っていた。


 あの日、私は人生で一番驚いたと思う。今までの全部夢だったのかー、とか、私にはすごい力があるんだーとか、そんなことを思った記憶がある。


 その後私はまた、三年間を全力で楽しんだ。友達とお祭りに行ったり、海に行ったり、スキーに行ったり。


 そうしていく中でわかったのは、時を巻き戻すには力を貯める必要があって、一度巻き戻したら三年の四月までは時間を巻き戻せないってことだ。


 三年の四月以降になれば好きな時に時間を巻き戻せると知った私は、それはもう好きに時間を戻しまくった。


 何度だって時間を繰り返して、楽しんで。

 一生このまま高校生でいいや、なんて思っていた。

 それが変わったのは、多分五回目の高校生活の時だったと思う。


 退屈になった。一緒にいる友達も家族もやっぱり同じ人間だから、何度繰り返してもやることはほとんど変わらない。


 お母さんは一月一日に毎回同じおせちを作って、一番仲がいい友達は祭りに行ったら必ずくじ引きでおもちゃの銃を当てる。


 わかってしまうのはつまらない。

 そう思って時間を戻すのをやめようとした私は、愕然とした。

 やめようと思っても、やめられなかった。


 能力の暴走とかじゃなくて、単に精神の問題だ。ずっと、長い間高校生活を繰り返してきた私は、それを終わらせて大学に進むのが怖くなった。


 繰り返す時間を退屈と思いつつ、それに縋るようになってしまったのだ。

 怖い。新しいステージに進むのは、とても怖い。全部知っている方が安心で、一応ちょっとは楽しいから、そっちの方がいい。


 もし大学に行って力を失ったら。

 今までの人生ではありえないくらい、嫌なことがあったら。


 楽しい高校生活を繰り返し続け、本来三年で次の段階に進むはずだったのに足踏みをしてきた結果、私は変化に怯えるようになった。


 楽しいから時を巻き戻していたのが、怖いから時を巻き戻すようになった。


 そうして私は、八回目の高校三年を迎えた。

 ある日、精神が参っていたせいもあって夜眠れなくなっていた私は、家にいるのも嫌になって早朝の学校に足を踏み入れた。


 まだ朝早くて、誰もいないはずの教室の鍵が空いていて、中に気配がしたのをよく覚えている。

 私立のくせに立て付けの悪い扉をガタガタ開けた瞬間、私は驚いた。

 ハンバーガー屋の匂いがした。


「ん……あ。確か、んと、稲月だったよね」


 変な女子が教室にいた。

 肩までかかった、癖のある栗色の髪。眠そうな茶色の瞳に、人形みたいに固まった表情。

 彼女の名前は、知っている。

 三年間同じクラスだった、唯一の女子。天川彩春だ。


「あ、うん。稲月だよ。そっちは天川、だよね?」

「そそ。天川だよー」


 彼女は眠そうな瞳で私を見ながら、小さく手を振った。

 その手には、ベーコンと卵の入ったマフィンが握られている。


 私の視線に気付いたのか、彼女はちょっと迷った様子を見せてから、ハンバーガー屋の袋をごそごそし始めた。


「これ半分……に、するのはめんどいな。んー……あげる」


 天川は私に何かを放ってくる。受け取ってみるとそれはハッシュポテトだった。

 いや、唐突すぎでしょ。

 なんなんだ、この子。


「なんで?」

「ん? いや。物欲しそうな顔してるように見えたから」


 私はそこまで卑しくない。たかだか数百円のものを羨んだりなんてしないのだが、天川にはどう見えているのか。


 彼女はうっすら笑っているが、目に感情がなさすぎるからちょっと怖い。

 色々な人たちと仲良くなってきたが、天川は何か話しかけづらい雰囲気があるから、今までほとんど話したことがなかった。


 実際こうして話してみると、掴みどころがなくてやりづらい。

 今まで会ったことのないタイプな気がする。


「私、そんな貧乏そうに見える?」

「全然。稲月って、お嬢って感じだし」


 彼女はマフィンを小さい口で食べつつ、私を見つめてくる。

 茶色の虹彩が、私を映している。吸い込まれそうな瞳だ。綺麗というより、深海みたいな感じだけど。


「でも、まあ。お腹空いてるんじゃない?」


 空いてるっちゃ、空いてるのかもしれない。最近食欲があまりないから、ほとんど食事をとっていない。


 もう三年の五月だから、いつでも時間は戻せる。栄養が偏っても、時間を戻せば全部無かったことになる。だから私は、食べられるものだけ食べるようにしていた。

 ……いや、しかし。

 朝からポテトは、ちょっと重い。


「食べなよ。美味しいよ。食べたことないけど」

「え。食べたことないの?」

「うん。ハンバーガー屋って朝もやってるんだね。驚き」


 くすくす笑いながら、彼女はマフィンを全部食べて、包み紙をくるくる丸めた。


「朝もちゃんと食べないと、頭働かないよ」


 天川はお母さんみたいなことを言う。

 そんなの、わかってるけど。


 でも、これからのこととか色々考えると、食欲が湧かないんだから仕方ない。どうせ、私には力があるんだから餓死はしないし。


「食べさせてあげよっか?」

「……は?」


 こやつは一体、何を言っているのか。


「昔の友達の妹がね、食欲ないって言ってた時でもあーんってしたら食べてくれた記憶あるんだよね。あんま覚えてないんだけど」


 んなこと言われても。

 私たちはクラスメイトで、ちょっとだけ話したことがあるってだけの関係だから、あーん、なんてされても困る。

 困る、けど。


 でもまあ、いいか。本当に嫌だったら時間を戻せばいいんだし。

 これも一つの経験かもしれない。

 臆病者のくせに、新しい経験を得ようとするなんて。

 私は少し、自嘲した。


「じゃ、すれば」

「うん。ほら、あーん」

「あー……」


 彼女は私からハッシュポテトを取り上げて、口に運んでくる。

 齧ってみる。油で、じゃがいもだ。なんでかはわからないけれど、すんなり口にすることができた。


「おいし?」

「ん、そこそこ」

「ならよかった。もっとお食べ」


 天川は微笑みながら私にハッシュポテトを食べさせてくる。

 妙にその顔が優しげなのが、気になる。


 なんなんだ、この感じ。どう考えてもおかしい。天川は変わり者だ。私も大概かもしれないけど。


「稲月って、もの食べてる時は子供みたいな顔で可愛いね」


 褒めてるのか、それは。

 私は眉を顰めた。


 彼女は間近で私を見ている。それで気付いたけど、地味に天川はピンクのインナーカラーを入れている。


 意外とおしゃれだったり、するのか。

 よく見ればちゃんとメイクもしているし、目鼻立ちはしっかりしていて、可愛らしい。これで表情が豊かならもっとよかっただろうけど、もったいないな。


 気づけば私は彼女から与えられたポテトを食べ終わっていた。

 天川は満足そうにうんうんと頷いている。

 いや、なんの達成感なのよ、それ。


 こいつ、絶対変わり者だ。不思議ちゃんと言ってもいい。どこの世界に朝からただの知り合いに「あーん」なんてする奴がいるのか。


「うん、いい顔。艶が出てきた気がする」

「……なんなの、さっきから」


 馴れ馴れしい。距離感狂ってるでしょ。マジで。


「……?」

「いや、何が? みたいな顔すんなし。ほんと、なんなの。普通いきなりあーんとかしないでしょ。馴れ馴れしいし」

「ああ、そういう。まあ、いいじゃん。どうせこうして稲月と面と向かって話すの、今だけなんだからさ」


 ぽやぽやと笑いながら、彼女は言った。

 確かに、そうかもしれない。今だけの関係なら、気を遣ったり距離感をちょっとずつ埋めていこうなんて考えたりする必要はない。

 いや、それにしたってだと思うんだけど。

 一応、クラスメイトなんだし。もっと気、遣えばいいのに。


「稲月。ご飯はちゃんと食べなよ。最近血色悪いから、心配」

「だから……はぁ。もういいや。で、何? ご飯? そもそもあんたなんで最近の私の顔色とか知ってんの」


 天川は眠そうに目を細めて、窓の外を眺めた。

 いや、どこ見てんの。話してんだからこっち見ろよ。ほんとに。


「クラスメイトだからね。稲月って割と目立つし、わかるよ。無理してるなーって感じする」


 天川は私の方を見て笑った。

 本当に笑っているかどうかはわからないけど、少なくとも表情は笑みの形になっている、と思う。


「辛い時は休んだり人に相談とかした方がいいよ。そうじゃないと心が壊れちゃうからね」

「そんなのあんたに言われんでもわかってるし」


 相談なんて、誰にすればいいのか。いや、そもそもこいつはなんでわかったような口を利いているのか。段々腹が立ってきた。


「あのさぁ……」


 文句を言ってやろうと思って天川を見ると、机に突っ伏していた。

 いやいやいや。

 まだ話、終わってないでしょ。どう考えても。


「何寝ようとしてんの。起きなって。起きろし」

「言いたいこと言ったから、もう稲月と話すことないよ」

「はぁ? 私はあるから。さっきからあんた勝手すぎ。なんなのほんと」

「おやすみ、稲月」

「このっ……」


 ムカつく。なんだこいつ。

 いっそ引っ叩いてやろうか。そう思って体を揺らしてみるけど、微動だにしない。それどころか本当に寝息を立て始めた。


「な、な……」


 めちゃくちゃすぎる。

 こんな奴が平和な私のクラスにいたなんて、驚きを隠せない。


 振り回されるのは趣味じゃない。このままじゃ終われない。一度でもいいから、この身勝手きわまりないクラスメイトを困らせてやりたい。


 いや、絶対困らせてやる。

 私はそう決意して、天川の頭を叩いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る