第24話
「いやー、大変参考になりました」
「嘘つき。ぐっすり寝てたくせに」
「睡眠学習してたから」
授業が終わった後、私たちは大学の学食を訪れていた。
土曜日は実施されている授業の数が少ないためか、学食にはあまり学生が多くいない。私たちはテーブル席に座って昼食をとっていた。
私の隣には稲月が座っていて、正面には智星が座っている。
「稲月さんはどうだった? 参考になった?」
「うん。大学ってこんな感じなんだね」
稲月はやっぱり、どこか寂しそうだった。
二十数年ずっと、稲月は高校生のままだった。その間一度も大学生になりたいと思わなかったのだろうか。
いや。そもそも、時間のループは稲月によって引き起こされているものなのかそうでないのか。
時間が繰り返していることはもう、確定情報として扱うべきだろう。私は自分の胸に生まれた感情を信じることにした。
この焦燥も、悲しみも、以前の私が持っていたものだ。
「稲月さんも推薦で進学する感じ?」
「今はまだ決めてないかな。彩春は?」
私は返答に窮した。
稲月は、私の進学先を知っているはずだ。
前の私はどこの大学に行くことを選んだのだろう。少し気になるけれど、ここで聞くことはできない。
「私もちょっと決めかねてるかも」
「将来のビジョンがあるのはあたしだけかー」
智星のそれをビジョンと呼んでいいのかな。
稲月はちょっと苦笑している。
それから私たちは、しばらくとりとめのない話をした。昼食を食べ終わる頃には稲月と智星が会話をして、私は聞き役に徹することになった。
友達同士が話しているのを聞くの、結構好きだ。私とはしないような話とか、私と話しているときは見せない一面とか、そういうのを聞いたり見たりするのが楽しい。
私は一つあくびをした。さっきまで寝ていた二人の眠気が、今更移ってきたみたい。でも、私はよほどのことがない限り昼寝はしないと決めている。
「これからどうする? せっかく天川に化粧したことだし、このままどっか遊びに行く?」
「そうしよっか。あ、十月に新しくできた店行ってみない? 雑貨屋なんだけど」
「おっけ」
そういえば。
九月に開店前に訪れて以来、あの店には行っていなかった。今行ったら、何か思い出せるかもしれないと思う。同時に、少しだけ、何も見たくないとも思った。
私は他の私にはなれない。
今の私は、やっぱり今のままでしかいられないのだ。変化は徐々に訪れるもので、一瞬で前の私みたいに変われたりはしない。
稲月が前の私のことを好きだと思っていたとしても、私は前の私にはなれない。
果たして今の私にできることがあるのだろうか。
私が私だから好きになったと、稲月は言っていたけれど。その私っていうものがひどく曖昧でわけがわからないから、信用ならない。
自分はこういう人間ですと、胸を張って言えたら。
稲月のことを自分の深いところまで受け入れて、彼女ともっと深い仲を築くことができていたのだろうか。
少しだけそんなことを思って、私は小さく息を吐いた。
パステルカラーの屋根はやっぱり変わっていない。
私たちは学校から電車を乗り継いで、ここまで来ていた。開業してからしばらく経っているが、かなり人気があるようで店内は多くの人で賑わっていた。
可愛いマグカップとか、バッグとか、アクセサリーの類が棚に所狭しと並べられている。私はその中の一つ、淡いピンクの猫が描かれたマグカップを手に取った。
お揃いで買おうよ、と言ったのは水空だ。
何度も来るうちにお揃いのアクセサリーをいくらか買うようになって、最終的に辿り着いたのがこのマグカップで……。
「彩春」
はっとした。
水空、じゃなくて、稲月は、私を心配そうに見つめている。
「ぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと、眠いだけ」
「そっか。なら、いいけど。……そのマグカップって」
他にも同じマグカップは置かれているのに、稲月はわざわざ私の手を握って、手の中にあるマグカップをまじまじと見てくる。
稲月の熱はいつもと変わらない。
前の稲月も、同じ温かさだったんだろうか。
「可愛いよね」
「買う?」
「ううん。買わない」
どうして、と稲月の目が言っている。
だって、前の私と同じことをしたって仕方がないから。
私は、今しかできないことをしたい。稲月と私がまだ行ったことのない場所に行って、したことがないことをして。それで……。
それで、どうするんだろう。
「智星は何か買いたいものある?」
私はマグカップを棚に戻して言った。
「んー。これとかいいんじゃね」
彼女が見せてきたのは木でできたクマの人形だった。
「確かに、可愛いかも。いくら?」
「3000円」
「結構するね」
「でもまあ、んー、あれだ。必要経費ってことで、買うわ。天川は?」
「どうせだから、私も買おうかな」
稲月は私を見つめていた。その瞳にどんな感情があるのか、今の私にはわからない。
稲月は、あのマグカップを買って欲しかったのかもしれない。前の私との思い出の品を、今の私との思い出の品にしたかったのかもしれない。
でも。
今の時間軸にしかない思い出の品の方が、私は欲しいと思う。
結局私は店内を見て回ったが、他に欲しいものもなかったため、木の人形だけ買うことにした。
その後しばらくは稲月たちと雑貨を見てああでもないこうでもないと言い合ってから店を出る。
三人でカフェに行った後、日が落ち始めたのを合図に私たちは解散することになった。私はいつものように稲月と手を繋いで家に帰り、早速木の人形をリビングにあるテーブルの上に飾った。
うん。可愛い、と思う。
「彩春。これ」
稲月は雑貨屋の紙袋をテーブルの上に置いた。
重い音が、する。
嫌な予感が膨らんで、私はその紙袋に触れることができなかった。
見たくない。知りたくない。
「お揃いで、買ったから。使おうよ」
彼女が紙袋から取り出したのはやはり、私が買わなかった猫のマグカップだった。
水空と私の思い出の品で、稲月と私だけの思い出にはなり得ないもの。
私はずん、と胸が重くなるのを感じた。
「いつの間に、買ってたんだ」
「彩春が色々見てる時に買った。ピンクのが彩春で、青のが私ね」
稲月は勝手に話を進めていく。
待ってと言うことができない。
何も思い出さなければ、私と稲月の思い出として受け入れることができていたのだろう。でも今の私は、それを受け入れることができそうになかった。
今までも、稲月は私を通して別の何かを見ていることがあった。それは、前の私のことだったのだろう。彼女は今も前も同じ私だと思っているのかもしれない。でも、私は前の私にはなれないから、別の人間としか思えない。
稲月は。水空と呼ぶ私のことが好きで、その思い出を今の時間軸でも再現しようとしているのだろうか。
でも。
でも、だったらなんで、前の時間軸で私の告白を受け入れなかったのだろう。そんなに好きなら、告白を受け入れればよかった。ずっと、前の私と一緒にいればよかったのに。
前の私の告白を断ったのに、今の時間軸で前の時間軸の出来事を再現しようとする。それは矛盾のようにも思える。
納得できない。全部知りたい。
今の私を、見てほしい。
「稲月」
もしかして。私は今、前の私に嫉妬しているのかもしれない。
自分でも、馬鹿だと思うけれど。心がざわざわして、ぎゅっと締め付けられるみたいに痛くて。頭は疑問が渦巻いてぐるぐるで、もうわけがわからない。
戸惑っている。最近の全部に。
「前に、言ってたよね」
「何を?」
稲月は椅子に座って私を見ている。
私は彼女の膝の上に座って、じっとその瞳を見つめた。
「好きって言って、キスしてって言ってくれたら。その時、キスするって」
「……そう、だっけ」
明らかに彼女は、自分の発言を覚えている。顔を逸らそうとしたから、私は彼女の両頬に手を添えて、こっちに顔を固定した。
「稲月のことが好き。キスしてよ」
稲月は、何も言わない。
その反応だけで、あの言葉も嘘だったのだとわかった。
稲月の言葉は、嘘が多い。恋人だったというのも嘘。キスするというのも嘘。じゃあ、何が本当なのだろう。
稲月が私にしてくれたことは本当だ。
向けてくれた笑顔も、嘘じゃないと思う。
だからこそわからない。稲月のことが、本当によくわからない。いっそ最初から、恋人の真似事をしてくれとでも言ってくれていたら。
「……嘘ぴょん」
私はおどけてみせた。
稲月は笑わない。だから仕方なく、稲月の上からどいた。
「嘘。稲月のことは好きだけど、友達としての好きだから。キスしたいなんて思わないよ」
自分でもそれが本当か嘘かわからない。
でも、キスしてもいいと思う。稲月になら、キスされてもそれ以上のことをされてもいいなんて思っている自分がいる。
私に感情を向けてくれるのなら、してもいい。
どの時間軸の私でもない、今の私を特別なものとして、してくれるなら。
なんて、馬鹿みたいだ。
「だから、そんな顔しないで」
稲月はこの世の終わりみたいな顔をしている。前の時間軸では恋人だったとか、あれだけ言って押してきていた稲月が嘘みたいだ。
新しい稲月の顔なのに、見ても全然嬉しくない。
「頭冷やしてくる」
なんでこんなに取り乱しているんだろう。
……考えるまでもないか。
稲月にとって、私は特別な存在だと思い上がっていたのだろう。稲月が好いているのは今の私ではなく、いつかの時間軸の私で、それを今の私に投影しているに過ぎない。
今ここにいる私が好きなんて、信じられない。
最初からわかっていたはずなのに。
前の時間軸が本当にあると確信したら、脆くなった心が途端に崩れていった。
私だけの特別。私だけの居場所。そんなものはやっぱり、どこにもないんだと実感する。
彩春は彩春。
彩春。彩春。彩春。
知らない私と、今ここにいる私。異なる経験を積んで成長した自分は、もう別人でしかない。
それなのに前の私の感情だけ渡されて、断片的な記憶を見せられて、私はどうすればいいのか。
私は稲月の家を飛び出して、暗くなりつつある街をふらふら歩いた。
「ああ、もう。面倒臭い」
面倒臭いが口癖。
それは、前の私のことだ。
そんなの知らない。本当に、面倒臭い。
「面倒臭い、面倒臭い。私は、面倒臭い人間だ」
特別なんて欲しがらなければ。
色んなことを全部割り切って生きられれば。
こんな泣きそうな気分には、なっていなかったはずなのに。
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