第23話
「負けてる」
約束通り土曜の十時に集合した私に、智星はいきなりそう言った。
「何が?」
「服に、顔が」
随分な物言いだ。
確かに今日の服は稲月が気合を入れて選んだものだけれど、そんなに負けているだろうか。
特別人より顔が優れているわけではないと言うのはわかっているが。
私はぺたぺた顔を触った。いつもの感触だ。何もつけていない、普通の私。稲月に何度か化粧を勧められたことはあるけれど、なんとなくする気になれずに今に至る。
いつかはしないといけないんだろうな、と思う。
でも、そんな日が来るだろうか。高校生活が永遠に続くなら、私は一生化粧をしない私のままだ。
「まあ、んなこったろうと思ってたけど。よし。ラウンジ行こ。この時間は誰もいないだろうし、あんたにメイク、教えたげるわ」
「えー……」
「素材はいいんだし、勿体無いでしょうがよ。そのままの顔じゃ高校生感丸出しだし。稲月さんもそう思うでしょ?」
いつものように薄く化粧をしてある顔に、稲月は笑みを浮かべた。
化粧って言い方が、そもそも駄目なのかな。
ナチュラルメイク、とか言うのが正解?
ううん、わからない。
「そうだね。彩春はもうちょっと垢抜けた感じにした方がいいかも」
「稲月まで。……うーん」
私は智星に引っ張られるまま、ラウンジの椅子に座らされる。
智星はバッグの中に入った小さなポーチから色々な化粧品を取り出して、私の前にあるテーブルに置いた。
ベースメイクがどうのとか、ファンデーションはこれがいいとか、なんだとか。
もはや化粧品の名前は宇宙人語に近く、私には何を言っているのかよくわからない。シャンプーとかヘアオイルのことはまだわかるけれど、化粧品のことはさっぱりだった。
結局私は正月同様智星にメイクをされることになった。
彼女に顔を触られるのにはすっかり慣れていて、すんなり体を預けることができる。顔に触れられて、クリームやら粉やらをつけられて。下味をつけて、衣をつけて、今から揚げます、みたいな感じだ。
下地と下味は似ているかもしれない。
料理も化粧も似たようなもの、だったり……しないよね。
そんなことを言ったら智星に怒られそうだ。
「よし、これで完成」
あれこれ考えているうちに終わったらしく、智星は私の肩を叩いてくる。手鏡を見ると、普段よりちょっと垢抜けた感じの自分の顔があった。
いつもと違う自分。
これが、未来の普通になったりするのだろうか。
高校三年生の私は、どんな顔をしていたのかな。自分の記憶で自分の顔を見ることはできないから、少し気になる。
「これで一応大学生っぽく見えるんじゃね。知らんけど」
「智星がやったのに知らんって言われても……」
「まー細かいことは置いときな。そろそろ授業始まるし、さっさと教室に行こう」
「何の授業受けるの?」
「経済学。緩い教授みたいだから出欠もとんないし、当ててきたりもしないらしいよ。ほれ」
智星はスマホの画面を見せてくる。そこには授業についての口コミが書かれたサイトが表示されていた。
「……便利だね」
「ほんと。こういうの見ときゃ忍び込めそうな授業もわかるからいいわ」
智星はそう言って、くるくるとスマホを回した。
そのまま教室の方に歩いて行こうとするから、私はその背中を慌てて追おうとした。
その時、後ろに体がぐっと引っ張られる。見れば、稲月が私の手を握っていた。首を傾げていると、そのまま手をもっと引っ張られて、体が彼女の方に傾く。
「彩春。それ、似合ってる。……可愛いと、思う」
「化粧のこと? そう言ってもらえると、智星が喜ぶよ」
「私は彩春に喜んでほしい」
「化粧の腕がいいのは智星だから。でも、うん。ありがとう」
会話が止まる。
歩き出そうとするが、稲月が動こうとしないから動けない。まるで、お菓子コーナーで駄々をこねる子供だ。おや、と思いながら私は足から力を抜いた。
どうしたんだろう。ここにきて、行きたくなくなってきたのかな。
「何か、あった?」
稲月は心配そうな顔で聞いてくる。
あったといえばあったが、なかったといえばなかった。
ただ前の時間軸のものと思しき夢を見ただけだ。本来なら夢なんて起きれば忘れる程度のものでしかないのに、あの夢は私の胸に強い感情を残しているから、くだらないものとして一蹴することができない。
あの日から、私はずっと深い悲しみと焦燥に胸を支配されている。
何とかしなくちゃ。何かしなくちゃという気分になって、いてもたってもいられなくなりそうになる。
まだ具体的にできることが何も思いつかないから、足を動かしても行く先がない。
それなのに足が前へ前へと進もうとするから、私は空回りしそうになっている。
「この前から様子が変だから。悩みがあるなら、相談してほしい」
聞きたいことは色々あるけれど、聞いたら稲月がいなくなってしまうような気がする。全部知らないと駄目だと思うのに、知ろうとしたら全部が崩れるような感じがした。
じゃあ、私はどうすればいいのか。
わからないから、私はいつもみたいに笑った。
「稲月とキスする夢見た」
「え?」
「深いキスしてた。恋人って感じの。もしかしてあれが前の時間軸の記憶ってやつなのかな。すごかったよ」
「……そ、そんなキスしたことないから!」
稲月が叫ぶと、智星が振り返った。智星は私たちを怪訝そうに見ている。
「昼間っから何の話してんの」
「智星が考えてるような話じゃないから、大丈夫」
「稲月さんの様子を見ると大丈夫じゃなさそうだけど」
「それより、早く行こうよ。授業始まるんでしょ?」
私は稲月の手を引いて歩き出した。今度はすんなり動いてくれる。
稲月は顔を真っ赤にしていた。恋人同士なら深いキスをしていてもおかしくはないはずだと思う。でも、話程度でこれだけ顔を赤くすることは、そういうキスをしたことがないのは本当らしい。
だとすれば、やっぱり私たちは恋人ではなかったんじゃないだろうか。
考えてみると、稲月は私との距離感が確かに近かったが、恋人だった相手に対するそれではなかったように思う。
恋人の距離感についてよく知っているわけではないけれど。
でも、今はわかる。多分稲月は、恋人相手だったらもっと押しが強いだろうし、もっと楽しそうにしていると思う。
恋人だったって嘘をつく理由は、やっぱりわからないけれど。
私たちは三人で大教室の一番後ろの席に座り、教授が来るのを待った。
経済学はいわゆる楽単と呼ばれる授業らしく、あまり学生が来ていない。来ていてもほとんどの人が後ろの席に座ってスマホやらパソコンやらをいじっていた。
授業が始まってもそれは変わらない。
不真面目だなぁ、と思いながら、教授の話をノートに書き写していく。
ふと、稲月の横顔を見る。彼女は体のどこかが痛いみたいな顔をして、室内を眺めている。
なんでこんな顔、するんだろう。本当に、わからない。
私はノートの切れ端をちぎって、ウサギの絵を描いた。
『元気出して』
と吹き出しに書いて、稲月の前に差し出す。
彼女は少し、笑った。
それからデフォルメされたウサギの下に『下手くそ』と書いてくる。
ちょっとへこむ。可愛いのに。
『じゃあ稲月が書いてみて』
紙を渡すと、稲月はさらさらと絵を描いていく。
なんだかこういうのは新鮮だ。うちの高校はそれなりに真面目な生徒が多いから、授業中に手紙を回したりする生徒はいない。私と稲月は席が遠いから手紙を回すどころか目が合うこともない。
隣に座っているとちょっと変な感じがする。
いつもとは違う位置に稲月がいて、授業中なのに手紙を回したりなんてしている。
不真面目な学生さんたちの空気に当てられて、私も少し不真面目になっているのかもしれない。
ノートの上にさっと置かれた紙には、ウサギじゃなくて毛の塊みたいなモンスターが描かれている。
吹き出しそうになった。
慌てて口を押さえると、智星に紙を奪われる。
「……何やってんの、あんたら」
呆れたように言われて、私は苦笑した。
私も稲月もちょっと馬鹿になっているのかもしれない。私は紙を折りたたんで、ノートの初めの方に挟み込んだ。
授業中に手紙を回し合うという貴重な経験をした私は、少し高揚した気持ちのまま授業に耳を傾けた。
大学の授業は100分もあるから、集中力を持続させるのが困難らしい。
気づけば学生たちは船を漕いだり、授業に飽きてゲームをしたりしていた。高校の授業の二倍の長さだけれど、集中力を切らさないのは得意だから、私は授業を真面目に聞き続けていた。
見れば、左に座る稲月も、右に座る智星も目を瞑っている。
あまり乗り気でなかった稲月はまだしも、なんで誘ってきた智星が寝ているのか。
この調子だと、進学しても授業なんてほとんど聞かずにテスト期間だけ頑張るタイプになりそうだ。
いや。智星は今もそうだけれど。
大学生なんてそんなものかなぁ。
そう思っていると、膝が重くなる。稲月が私の膝を枕にしていた。一番後ろの席だから誰かに見られる心配はないけれど、教室でこんなことしていていいのか、と少し思う。
私は彼女の頭を撫でた。
手を流れる髪の感触が心地いい。
稲月はどんな大学生になるんだろうか。もし彼女と一緒の大学に通うようになったら、その時もこうして手紙を回しあったり、膝枕したりなんて、するんだろうか。
「稲月」
囁いても、返事はない。
彼女は安らかな表情を浮かべたまま、むにゅむにゅと口を動かしているだけだった。
完全に爆睡してる。
不真面目二人に挟まれて、真面目に戻っていた私がオセロみたいにひっくり返ってくような感じがした。
私は彼女の髪を一房手にとって、キスをしてみた。
キスという行為はあの日と結びついているのか、それだけで胸が苦しくなる。唇にキスなんてしたら、心臓が弾けて消えてしまうんじゃないか。
……そういえば。
前稲月は私がキスしてって言ったらするなんて言っていたけれど。
本当にしてくれるんだろうか。
そんな疑問を頭に浮かべたまま、彼女の髪を優しく撫でた。
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