第22話
「稲月さんじゃん。え、何? 天川、知り合いだったん?」
「うん、友達。でも、珍しいね。稲月が話しかけてくるなんて」
「まあね。ここ、座っていい?」
稲月は私の隣の席を指差す。
「いいよいいよ。座ってあげて」
「智星の席じゃないのに」
「持ち主の代弁してあげたわけよ」
「そうですか」
智星は私の前の席に座っている。背もたれを私の方に向けて、大股を開いて座っている智星の姿は、少し不良っぽい。髪も金色だし。
そんな智星のいる場所に突撃してくるのは、さすが稲月と言うべきだろう。私だったら話しかけるのは無理だと思う。
実際の智星はちょっと軽いだけで不良ではないから、話しやすいのだけれど。
「はい、牛乳」
稲月は私に紙パックの牛乳を渡してくる。飲み物を欲していることに気づいて、買ってきてくれたんだろうか。
「ありがとう。さすがだね、稲月。色々と」
「それ、褒めてる?」
「すごく褒めてる」
私はストローをパックに刺して、牛乳を飲んだ。久しぶりに飲んだ気がするけれど、牛乳の味は特に変わらない。
そういえば、冬なのにクリームシチューを作っていない気がする。最近は特に寒いし、作ってもいいかもしれない。
でも、稲月はどうだろう。割と稲月はパンチの効いたものが好きだから、お気に召さないかも。
「稲月さんもパン食べる? 好きなのとっていいよ」
「ありがとう。今日はお弁当なしだから、お腹減ってた」
ちら、と稲月が私を見てきた。
ごめんなさいという気持ちになる。
でも、私が寝坊した原因は稲月にある。稲月が前の時間軸のことなんて言わなければ、あんな夢は見ていなかった。
前の時間軸の話がなければ、今の私たちの関係もないかもしれないけれど。
前の私は電波発言がなくても稲月のことが好きになったのだとしたら、やっぱり今の私と前の私は違うと思う。
今の私たちの関係は、前の時間軸という電波によって繋がれた。電波によってぐにゃぐにゃになった私は稲月のことを受け入れるようになっていって、抱きしめられたり触られたり、触ったり抱きしめたり。そんなことをするようになっている。
「稲月さんっていつも弁当なんだ」
「最近はね。作ってくれるから」
「ふーん。お母さんが?」
「ふふ、そうね」
私は稲月のお母さんではないのだが。
稲月は楽しそうに笑っている。考えてみれば稲月が私以外に向ける顔をあんまり見たことがなかったけれど、こうしてみると電波発言が嘘みたいに普通だ。
稲月はクラスメイトーって感じの顔をしている。
いや、どんな顔なんだろう、それ。自分で考えてもよくわからないけれど、そんな感じだ。
景色に溶け込んでいて、違和感がない。
私の視界の中でいつも眩いばかりの存在感を放っている稲月とは違う、クラスメイトAとしての稲月。新鮮で、見ていてちょっと面白いと思う。もう少し、智星との化学反応を見てみたい。
そう、思ったのだけど。
「それで、何話してたの?」
稲月が私を見て言う。
クラスメイトAが稲月に変わった。
「智星と一緒に大学の授業を受けに行こうって話」
智星とはタイプが違うと言っていたけれど、こうして見ると普通に仲良くできそうだった。ならいいか、と思う。
「稲月も、来る? 来週の土曜だけど」
「行く」
一も二もない即答だった。
智星は特に何の反応も見せない。彼女はいつだってあるがままを受け入れるタイプの人間だから、稲月が来ようか来まいがどちらでもいいと思っているのだろう。
「へー。稲月さんと天川って、結構仲良いんだ」
「ん?」
私は首を傾げた。
「いや、だって。天川が自分から人誘うの珍しいしさ。感動したわ。あたし以外に友達いたんだ」
「いるよ。智星には言ったでしょ。夏休み、友達んち転々としてたって」
「確かに。稲月さん家にもお邪魔してたり?」
「うん」
まさか今もお世話になってます、なんて言えない。いや、言えなくないのかな。智星の家から出て行った後からずっと稲月の家に泊めてもらっていると言っても、智星なら「そうなんだ」で済ませそうな気もする。
でも、ただのクラスメイトの家に半年も住み続けているというのは、やっぱり客観的に考えるとおかしい。
私は元から不思議ちゃんだの何だのと呼ばれているからいいが、稲月が奇異の目で見られるのはやっぱり良くない。
結局、私たちはただの友達ってことにしておいた方がいいんだろう。多分。
「へー。意外。いつから仲良いの?」
「んーと……」
仲良くなったのは九月辺りからだ。でも、泊めてもらい始めたのは八月だから、それより前に仲良くなっていたことにしておくのがいいだろう。
「春辺り? ね、稲月」
「そうかもね」
稲月はメロンパンを齧りながら気のない返事をする。
……あれ。
意外と、稲月との関係を人に話すのって難しいかもしれない。私たちの関係はある種の異常性を秘めていて、それを周りに話すと変な感じになってしまう気がする。
朝話すだけという関係のままだったら、あれこれ考える必要はなかったのだが。
今更あの関係に戻りたいというわけでは、ないけれど。
「ふーん。あたし、稲月さんと話したことなかったから気になるわ。え、趣味は? 休みの日何してるかとか聞いていい?」
ぐいぐいいくなぁ、と思う。
智星マジックに稲月も少し当惑している様子だった。
でも、さすが稲月は稲月だ。智星のテンションにもすぐに順応して、和気藹々と話し始める。
私は二人がお喋りに興じる様子を眺めながらパンを齧った。
稲月のことが好きなら、嫉妬とかするべきなんだろうか。
私だけを見て、みたいな。
うーん。しっくりこない。
好きになるのと、翼をもいで自分の見える場所に繋ぎ止めておきたいと思うのは、やっぱり別だ。
そもそも今の私は稲月のことが好きだけれど、恋人になりたいわけではない。
稲月には稲月の生活を大事にしてほしいと思う。稲月に恋人ができたら大人しく家を出ていくつもりだし、私が邪魔になる日が来たら、それでもいいと思う。
ただ、今の私は稲月と一緒にいたくて、触れるのも抱きしめるのも稲月がいいというだけだ。
人は慣れる生き物だから、稲月と離れ離れになったらきっと、そんな生活にも慣れる日が来ると思う。
でも。
稲月とずっと一緒にいたいだとか、他の誰でもなくて稲月と恋人になりたいだなんて思ってしまったら、私は多分他の人間を想うことができなくなると思う。
自分でも重いなぁ、とは思うのだけれど。
ただでさえ人を想う心が薄いのだから、人生で心から好きになれる相手は、多分一人だけだ。
しかし、とにかく今の私は、今の稲月が好きだ。明るくて誰とでも仲良くできて、クラスメイトと談笑できるような、ありのままの稲月が。
その顔を傍で見られたら、幸せだと思う。
「羽田って、すごいぐいぐい来るね」
帰り道。稲月は手を繋いで歩きながら、私にそう言ってくる。
「そうだね。でも、それが何となく嫌じゃないんだよね。私は智星マジックって呼んでる」
「何それ。……まあ、確かにわかるけど。不思議な雰囲気だよね。彩春に似てる」
「そうかな。じゃあ、智星とも私と同じくらい仲良い友達になれそうだね」
「それは、わかんないけど」
不思議だと思う。
クラスでは色んな人と仲良くしていて、遠い人だと思っていた稲月とこうして手を繋いで歩いているなんて。半年前はこんな日が来るなんて想像すらしていなかった。
稲月と私はかなり仲が良くなったと思う。
色々知っていることも増えて、稲月の好みも段々わかってきた。
はずだったのだけれど。
今朝夢を見てから、またわからなくなった。あれを前の時間軸の記憶と仮定すると、稲月の言っていたことは嘘だったということになる。
私と稲月は、前の時間軸では恋人ではなかった。また別の時間軸では恋人だったのかもしれないが、それはないという確信があった。
稲月は今の私が告白しても断るだろう。その理由はわからない。でも、稲月が私の恋人になってくれる未来は見えない。多分、稲月が時折浮かべる寂しそうな表情に秘密が隠されているのだと思う。
「そういえば。稲月って、大学の授業受けに行ったことあるの?」
「ないよ、一回も」
「そうなんだ。じゃあ、私も稲月も、智星も。皆初めてでいいね。お揃い」
「……うん」
稲月はあんまり嬉しそうじゃない。乗り気ではないのだろうか。
「大学の授業受けるの、嫌?」
「嫌じゃ、ないけど。……どうせならさ」
稲月は私の手を強く握って、その場に止まる。
寒いけれど、熱い。肌を撫でていく風は身が縮こまりそうなほど冷たいのに、彼女の手は溶けるように熱い。
その温度の差で、手が粉々になりそうだった。
「どうせなら、二人で行きたかった」
稲月は、消え入りそうなほど小さい声で言う。
ほんと、なんでだろうと思う。
好きな理由を聞いても、きっかけを聞いても、やっぱり彼女が私のことをなんで好きなのかわからない。
私の全部が好きと言うけれど、全部ってなんなんだろう。
今の私の全部?
それとも、前の時間軸で見てきた私の全部?
信じられるものが薄くて、よくわからない。よくわからないけれど、彼女が私にしてくれたことは全部本当で、だから私は彼女のことが好きになっている。昨日よりも今日の方が。今日よりも明日の方が、もっと彼女を好きになる。
そういう確信はあるのに。
本当に私のことが好きなの、なんて。面倒臭いことを考えてしまう。
そんなに好きなら、どうして私の告白を断ったのか。前の時間軸では恋人だなんて嘘をついたのはどうしてなのか。
「二人で授業を受けるのは、大学に入ってからでもできるよ」
同じ大学に通うかは、わからないけれど。
「そうかもね。うん、そうかも」
まるで、その言葉は自分に言い聞かせているみたいだった。どうしてと聞くことはできず、私は微笑んでみせた。
「今は、高校でしかできないことをしようよ」
「それが、羽田と三人で授業を受けること?」
「そうだよ。三人で何かするの、これが最初で最後かもだし」
「ま、そうかもね」
今日の稲月はかもが多い、かも。
「今日の晩御飯は、鴨南蛮にしようか」
「え。どうしたの急に」
「そんな気分になったから」
「彩春って、ほんと」
「不思議ちゃん?」
「自分で言うかね」
私は稲月の手を引っ張って歩く。人の手を引いて歩くのは案外疲れるから、私には向いていないような気がする。
前にいるより後ろにいる方が色々な景色が見られる、ような気がするし。
「稲月と、私。どっちも不思議ちゃんだから。不思議ちゃん同士仲良くしよう」
「いや、私は違うし」
「自覚ないのが不思議ちゃんの証拠だから」
私はにこりと笑った。稲月はちょっと迷惑そうに目を細める。
「ドヤ顔やめて。それ、暴論だから」
「でも、仲良くしたいのはほんと」
「それは、知ってるし」
稲月の心は本当に、読めない。もし夢に見た前の時間軸の私たちが恋人同士だったなら。こんなにもあれこれ考えずに済んだのかもしれない。
私はいつも稲月に惑わされている。
電波に脳を支配されて、言葉と食い違う前の時間軸の記憶に翻弄されて。その先に、私は何を見るのだろう。どこにたどり着くのだろう。わからない。稲月とのゴールは、どこにあるのか。
「稲月。私、稲月のこと、多分今一番好き」
「っうぇ。なんなの、急に」
「これも今しかできないことかなって。……うん。稲月は、大好きな友達」
稲月が嘘をついた理由。寂しそうな表情を浮かべる理由。本当の稲月。前の時間軸でのこと。気になることはたくさんある。
それを全部知る日が、いつかくるのだろうか。
その時私は、どんな明日にいるのか。
わからないまま、稲月に笑いかけた。
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