第21話

 水空と私の関係は、多分友達だ。

 それなりに一緒に遊んで、それなりに長い時間一緒にいて、なんとなく隣にいると落ち着いて。


 私のこの気持ちをなんと表現すればいいのかはわからないけれど、大学に行っても友達でいたいと思う。


 でもなぁ。

 友達という言葉に違和感を抱いている自分もいる。多分、好きなんだと思う。昔の友達が言っていた。相手に恋しているかどうかわからなかったら、とりあえず告白してみろと。


 最近の水空は変だ。

 まるで高校生活だけが全てみたいな感じで、未来を見ていない。今から死ぬんじゃないかと心配になる程だけれど、そうでもない様子だ。


 大学に行くつもりがないのか、卒業と同時に失踪でもするつもりなのか。よくわからないが、彼女を繋ぎ止めたいのなら、卒業までに何とかしなければならない。

 そう思って、今日。卒業式の日を迎えた。


『彩春、どうしたの? 急にこんなところに呼んで』


 卒業式が終わった後の校舎裏に、水空が姿を現す。

 校舎裏で告白なんてベタなことを考える輩は私以外にいないらしく、周りには誰もいない。


 別に、体育館で盛大に告白してもよかったけれど、こっちの方がいいシチュエーションなんじゃないか、と思う。

 全部、水空に貸してもらって読んだ漫画の受け売りだが。


『何だと思う? 正解したら豪華プレゼントが待ってるかも』

『こんな日に呼び出すって言ったら……告白とか?』

『正解。おめでとう』


 水空は金色の髪を指でくるくる巻いて、微妙に気まずそうにしている。

 まどろっこしいのは、嫌いだ。


 伝えたい気持ちは今伝えないと仕方ない。私は一歩彼女に近付いて、その瞳を覗き込んだ。


『水空のことが好き。キミが何を見てるか知らないけど、私と付き合ってほしいな』


 女同士なのに、とか、何でいきなり、とか、そういう面倒臭い言葉は聞きたくないと思う。

 でも、まあ。

 多分断られるだろうな。水空と私は、見ているものが違うし。


『……ごめん』


 水空は俯きながら言った。

 でしょうね、と思う。分かりきっていたことに傷ついたりなんてしない。しないけれど、ちょっと悲しいような、苦しいような、胸が痛いような。

 そんなの全部、幻だ。きっと。


『彩春のこと、好きだよ。好きだけど、でも……』

『いいよ。そういう弁明が聞きたくて言ったわけじゃないから。ダメ元ってやつだし』


 水空って、一体何を見てるんだろうなぁ。

 三年生になってからずっと、ここではないどこかを見ているみたいだったけれど、結局どこを見ているのかはわからなかった。


 だから、駄目だったのかもしれない。

 前もキスだけして、それでさよならだったし。

 ……ん?

 前。前ってなんだ。水空とキスしたことなんて、ない。


『水空。こっち見て』


 水空がこっちを見たのに合わせて、少し背伸びをする。

 唇同士を触れさせても、何の感慨もない。


 そりゃそうだ。私たちは別に愛し合っているわけでもないし、想いが繋がっているわけでもない。そんな状態でするキスは、単なる接触以外の意味なんてない。でも、それでいいと思う。


 私にとっては今ここで水空とキスしたってことが重要で。その事実だけで、二年に渡る私たちの関係に終止符を打つには十分だった。

 キスして、お別れ。なんだか漫画みたいで、綺麗じゃないか。

 ……なんて。


『ごめんね。キス、もらっちゃった』


 私はくすりと笑って彼女から離れた。彼女はひどく寂しげな顔をして、私に手を伸ばしてくる。


 それから逃げるようにステップを踏んで、今日でお別れになるだろうスクールバッグを肩にかけた。


『さよなら、水空。二年間楽しかった』


 水空は多分、私の前から姿を消す。

 キスした瞬間、私はそれを理解した。


 前にもこんなことあったよな、と思う。奇妙な既視感と、深い悲しみ。それを明日に持っていけるかどうかもわからないまま、私は彼女に目を向けた。


 水空は今日も綺麗だ。桜が咲いていたらもっと綺麗に見えただろう。

 そういう彼女を好きになれてよかった。本当は、よくないけど。


『彩春。ごめん。やっぱり私……』


 彼女はひどく寂しげだった。

 そんな顔、しないでよ。

 どうせまた、会えるんだから。




 冬の校舎裏はひどく寒々しい。ちょうど、今朝見た夢と同じだ。あの夢の中で感じた寒さや悲しさは、未だ私の体に残っている。


「水空、かぁ」


 夢の私は稲月のことをそう呼んでいた。一体どんな出来事があって、稲月のことを名前で呼ぶようになったのだろう。


 少なくとも今の私にとって、稲月は稲月だ。

 それに。前の私がもし稲月のことを水空と呼んでいたのなら、私は彼女のことを稲月と呼び続けたい。


 私は私だと彼女は言うけれど。でも、前の私と今の私を比べられるのは、ちょっと面白くない。私は前の時間軸の出来事なんてほとんど覚えていないのだから、稲月と気持ちを共有することはできなくて——。


「ううん、でも」


 そもそも、私は何で前の時間軸のことを信じきっているのか。

 今朝見た夢があまりにも衝撃的で、鮮烈だったせいかもしれない。あるいは稲月の電波に完全に頭をやられて、ありもしない出来事を本当にあったことのように感じてしまっている、とか。


 でも、この胸に宿る気持ちに嘘はない。

 ここに来ると、寂しくて、悲しくて、胸が痛くて苦しくなる。こんなにも胸が痛いのに、何もなかったなんて信じられない。


 私は負の感情には敏感だ。この苦しみは、普通じゃないと思う。

 しかし、ここにずっといても夢で見た以上のことは思い出せそうになかった。

 仕方なく校舎裏を後にすると、校舎一階の廊下で智星を見かけた。


「お、天川」


 智星は大量のパンを抱えながら私に駆け寄ってくる。


「智星。どうしたの、それ」

「コンビニで買った。パンの気分だったのよ。でも買いすぎたから一緒に食べてくんね?」

「いいよ。どこで食べよっか」

「教室でいいんじゃね。どっか行くのめんどいし」


 智星はそう言って、私の前を歩いて階段を上がっていく。

 教室に戻ると、あまり人がいなかった。今日は学食の気分の人が多いのかもしれない。高校の学食と大学の学食があるから、日によって色々選べるのが魅力らしいが、私は一度も学食に行ったことがない。


 基本、昼食は手作りの弁当だからだ。今日は寝坊してしまったから弁当を作れなくて、稲月にかなり文句を言われた。


 今も耳の中で「えー! 弁当なしとかありえないでしょ! 彩春の馬鹿! ねぼすけ!」という稲月の声が響いている。


 稲月の方がねぼすけなのに。でも今日寝坊したのは事実だから、何も言えなかった。

 悪いことしたなぁ、と思う。稲月はいつも私の弁当を楽しみしている。


「何変な顔してんの?」

「変な顔?」

「ん。心ここに在らずって感じの。とりま、好きなの選びな。あ、クリームパンはあたしんだから」

「じゃあ、あんぱんで」


 私はあんぱんの袋を開けて、齧る。

 あんこで、パンだ。何の感慨もない。ちょうど、夢の中で稲月とキスした時みたいに……。

 いや。何を考えているんだ、私。


「何。あんぱん腐ってた? 顔赤いけど」

「ううん。そんなことない」

「あんたの不思議ちゃん度合い、今日は過去一な気がするわ」

「いや、不思議ちゃんて」


 智星はクリームパンをもそもそ食べながら、目を細めた。


「自覚ないのが不思議ちゃんの証拠だから」


 それ、言ったもの勝ちじゃない?

 私は舌の奥の奥まで貫くような甘さのパンを咀嚼しながら、ちょっと納得できない思いで智星を見つめた。


「睨むな睨むな。何? なんかあった? 教えてみ?」

「別に何も。私は不思議ちゃんだから、不思議ちゃんオーラ出してただけ」

「開き直ったし。……あ、そーいやさ」


 智星はいつの間にかクリームパンを食べ終わっている。

 クリーム、好きすぎない?

 呆れるような、感心するような。甘いものが燃料なんてことを前に言っていたけれど、智星にとっては本当にそうなのかもしれない。


 自分の燃料が何かもわかっていない私はゆっくりとあんぱんを食べていく。

 飲み物が欲しい。牛乳とか、買っとけばよかったかも。


「来週の土曜暇?」

「特に用事はないよ」

「おー、そうかそうか。じゃちょっと私に付き合ってくんない?」

「いいけど、何するの?」

「大学の授業受け行こうと思って」


 私は首を傾げた。確かに大学なら土曜も授業をしているだろうけれど、何で急に。


「大学の授業体験みたいなの、今月なかったっけ」

「それはそれ、これはこれ。聞ける話は同じかもしんないけどさ、実際大学の教室行って大学生と一緒に授業受けた方が雰囲気がよくわかるじゃん」

「確かに、そうかも」


 大学かぁ。

 うちの大学はそれなりに偏差値が高い大学だけれど、両親が進学を許してくれるレベルかどうかはわからない。少なくとも高校の偏差値は上位に位置していて、当時の私が目指せる最高の高校だったのは確かだ。


 二ヶ月後にはもう二年生になっているから、そろそろ考えないといけないかもしれない。


 そう思いつつ、私は未だに両親の期待に応え続けようとしている自分に少し呆れた。

 両親の期待とか、それを裏切るとか。どうでもいい、はずなのに。


 色々どうでもいいと思っているくせに、あんまり割り切れていない。それが私の弱さなのだろう。


「どうせあたし推薦で進学するし、今のうちに大学の雰囲気知っとこうと思って」

「そっか。……確かに大学の雰囲気って、私も気になるかも」

「だしょー? てわけで、来週土曜十時ここ集合ね」

「ん——」

「何の話?」


 私と智星の間に流れていた特殊な空気が霧散するような感じがした。

 鈴を転がすような声。それは、朝から晩まで毎日聞いている声だった。見れば、大量のパンが置かれた机の横に、稲月が立っていた。


「稲月?」


 稲月が朝以外に学校で話しかけてくるのは、初めてだ。

 昼の私たちは他人のような距離感で、お互いの友達と会話をするだけだった。稲月との関係を隠すつもりはなかったが、それでもいきなりのことだったから、少し驚く。


 智星は焼きそばパンの袋を開けたまま、目を丸くして稲月を見ている。

 さしもの智星も、唐突な稲月の来襲には当惑する他ないらしい。

 教室の空気が少し、変わったような。


 私は何を言っていいのかわからず、稲月の顔を見た。薄く化粧が乗った顔には爽やかな笑みが浮かんでいる。


 稲月って、こんな笑い方するっけ。

 玩具箱みたいに記憶をひっくり返してみても、同じ稲月は見つからない。

 正真正銘、新しい稲月だ。

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