第15話
「うわ、すご! お店じゃん! 写真撮っていい?」
稲月は私がうんと言う前に料理の写真を撮っていく。写真に撮るようなものではないと思うけれど、稲月は楽しそうだった。
「食べれるなら、食べてもいいよ。処理に困ってたから」
「……ん、そか。じゃ、食べる」
彼女はフィンガーフードをいくつか摘んでいく。
両親には食べさせられなかったが、稲月が食べてくれるならそれでいいと思う。誰かのために作った料理を自分だけで食べるのは少し、辛い。
「いつも通り美味しい。店出せるよ」
「大袈裟だと思う。でも、よかった」
「……よし! 今日はこれ、私たちで全部食べちゃおう!」
稲月は椅子に座って、手招きをする。
少なめに作ったとはいえ、三人前だ。稲月はそんなにたくさん食べられないのに、得意げな顔をしている。
彼女はカクテルサラダの入ったグラスを持って、私にピースサインを向けてくる。少し迷ってから、私は彼女の写真を撮った。
眩い笑顔だ。この家には似合わないほどに。
「彩春も笑って。ほら、チーズ」
私は笑ってみせた。
やっぱりうまく笑えていないのか、稲月は引き攣った笑みを浮かべる。
「相変わらず、笑うの下手だなぁ」
「稲月と一緒にいるときは結構楽しいよ。でも……表情筋の運動不足かな」
時間をゆっくり過ごしすぎたせいで、表情を瞬時に変えるのが苦手になってしまったのかもしれない。
でも、表情よりも簡単に感情を伝えられる言葉があるのだから、構わないと思う。
私の代わりに稲月がたくさん笑っているし。
私たちはそのまま食事を続けた。しばらくすると稲月は苦しそうな顔になったが、それでも食べるのをやめない。
「もう、ご馳走様しよう。お腹壊しちゃうよ」
「……でも」
「いいよ。わかってるから。稲月は優しいね」
稲月は私の寂しさを拭ってくれようとしているのだろう。しかし、もう十分だ。稲月が少しでもこの家で私の料理を食べてくれた時点で、私は救われている。する必要がない無理をして、稲月が苦しむ姿は見たくない。
「稲月のそういうところ、好きだよ」
私は微笑んだ。この笑みは、嘘じゃない。
「うん。……じゃあ、その。ご馳走様。美味しかった」
「お粗末さまでした。食べてくれて、ありがとう」
私は残った料理にラップをかけて、苦しそうにしている稲月のためにお茶を入れることにした。紅茶だと眠れなくなりそうだから、カモミールティを入れて彼女の前に置く。
彼女はしばらくお茶を飲んでいたが、やがて両頬を手で叩いて立ち上がった。
これから何かを始めようとしているのか、その瞳には真剣な色が見えた。
私とは違う、真剣で綺麗な顔。それが私は結構、好きだ。同じところと違うところを見つけて、それを一つ一つ好きになって、稲月という存在自体を好ましく思うようになっていく。
稲月は玄関の方に歩いて行ってキャリーケースと共に戻ってくる。
開かれたキャリーケースの中には、着替えとか歯ブラシ以外に、緑色のものがいくつも詰まっている。
私は首を傾げた。折った木みたいな、変なものだ。なんなんだろうと思っていると、その一部を差し出される。
「……? 何、これ。拾ったの?」
「拾った木ぃ持ってくるとか、そんな愉快なことしないよ。……クリスマスツリーだから」
「ツリーって、こういうものなんだ」
ツリーというと、もっと巨大なイメージがあった。でも、家庭に飾るならこれくらいがちょうどいいのかもしれない。
私は手渡されたツリーをそっと床に置いた。ぱたん、とツリーが倒れる。
「いやいや。……違うから。この土台に差すの。見てて」
彼女は手際よく土台にもじゃもじゃの棒のようなものを差し込んで、畳まれていた枝を広げていく。あっという間に、見覚えのあるツリーの形になる。
でも、装飾がひとつもついていないから、少し寂しいかもしれない。
「で、これ。一緒につけようよ」
彼女はキャリーケースから箱を取り出して、蓋を開ける。
中には金色やら銀色やらの鈴のようなものや、色とりどりのモールが入っている。私はその一つを手に取った。
「クリスマスツリーにオーナメントをつけんのが一つの醍醐味だから。私の家では一週間前くらいにこの作業をして、クリスマスを待ってた」
「そういうものなんだ」
稲月もオーナメントを手に取って、枝に取り付けていく。
稲月は大雑把だ。全体の調和を気にせず、つけたいところにばかりつけるから偏りが生まれる。一部の枝にはたくさんのオーナメントがついているのに、他の枝には何もついていなくて寂しげに見える。
私はそんな枝たちにオーナメントを取り付けて、全体を整えていく。
楽しいような、そうでもないような。リビングの真ん中に設置されたカラフルなツリーは私の家にはどうにも調和しなくて、浮いているような感じがする。
「彩春彩春。こっち向いてみ」
「なに?」
「はい、マフラー」
彼女はツリーを飾る用の金色のモールを私の首に巻いてみせた。
ちくちくする。
「稲月にも巻いてあげる」
私は長いモールの端を持って、稲月の首に巻いていく。
金のモールで繋がれた私たちは、そのまま自然に見つめ合うことになる。頼りない繋がりだ。でも、稲月と一緒にツリーを飾って、こうしてちょっとふざけたことをしていると、心が満ちていくような感じがする。
稲月は本当に、よくわからない。彼女がすることはいつも唐突だったり私では考えもしないことだったりして、ついていくのが大変だ。
稲月の瞳には私だけが映っている。私の瞳に映っているのも、多分稲月だけだろう。だからなんだって言われたら、困るけれど。
「稲月、金色似合うね」
「彩春は、微妙かも。もっと可愛い色がいいかな」
「……そっか」
髪を金色に染めた稲月の姿が、脳裏に浮かぶ。
そういえば。
前に教室で見た幻想の稲月は、髪が金色だった。ピアスは銀色で、ちょうど彼女が持ってきたモールと同じ色だ。
私は心に言いようのない感情が芽生えるのを感じた。苦しいような、懐かしいような、悲しいような。なんだろう、この感情は。
私の感情のようで、私の感情ではない。そんな感じがする。
「彩春」
彼女は優しげに目を細めて、私の体に手を伸ばしてくる。彼女の手がそっと肩に触れて、体が震える。
モールに繋がれた私たちの距離は、近い。
まさかと思っていると、肩から腕に彼女の手が移動して、脇の下に到達する。おや、と思った瞬間、思い切り脇をくすぐられた。
「……あれ?」
「ごめん。私、脇の下でくすぐったくならない体質なんだ」
私はそう言いながら、彼女の脇の下に手をやる。それだけで彼女は大きく体を跳ねさせて、唇を震わせた。
自分がされて嫌なことは人にしないようにしましょう。
そんな言葉を思い出す。稲月は脇をくすぐられるのが苦手だから、私にくすぐりを仕掛けてきたのだろうか。
ちょっとしたいたずら心で、私はこしょこしょと彼女の脇をくすぐってみせる。面白いくらいに反応があった。体が驚くほど跳ねて、顔が笑顔で固定されて、腰が逃げていく。
でも、金色で繋がれている私たちが離れることはできない。
私はそっと逃げる腰に腕を回した。
「あはは! ふひゅっ……くふふ。やっ、やめ……」
いつもとは違う、苦しげな笑み。
こういう顔も、いいかもしれない。
同じ笑みばかりだと飽きる、ということはない。でも、違う笑みを見るのも新鮮で楽しい。何より稲月の顔は可愛い。単に容姿が優れているのもあるが、それ以上に、動き方というか、形成される表情が可愛らしいのだ。
だから私は、彼女の笑顔が好きだ。
静かな家に、彼女の笑い声が響く。はっとして、手を止めた。稲月はぐったりした様子で、喘ぐように呼吸をしている。少し、笑わせすぎたかもしれない。
モールを首から外すと、彼女は床に倒れ込んだ。
「こ、殺されるかと思った」
「ごめん、つい」
「ついで殺されそうになったの、私」
「つい、稲月の笑顔がもっと見たくなって」
「……ずるいし。そんなこと言われたら、もう何も言えない」
私はモールをツリーにぐるりと巻いてから、稲月の背中をさすった。
「どうして急に私をくすぐろうとしたの?」
稲月に問う。
「私も彩春と同じ。彩春の笑顔が見たかった」
「そっか。ごめんね。うまく笑えなくて」
「いい。そのうち私の力で大爆笑させるから」
大爆笑までいくと、ちょっと違うような。
一発芸でも披露してくれるつもりなのだろうか。
「ちょっと手、貸して。腰抜けた」
「うん。どうぞ」
私が差し出した手を、彼女が握る。
私はぎゅっと彼女の手を握り、その体重を支えた。
さっきまでの冷たさが嘘だったみたいに、彼女の手は熱い。
いつも通りだ。何もかもが、いつも通りだった。
どこにいたって、稲月と一緒にいると、私という存在が一定の状態に保たれるような感じがする。
「……彩春がくすぐったくなる場所、ないの?」
「自分の力で笑わせるって言わなかったっけ」
「それはそれとして。知りたい。教えてよ」
「……んと」
ふざけて脇をくすぐられることはあっても、他の部位を触られたことはない。私はくすぐったくなりそうな場所を考えてみたが、わからなかった。
私はクッションをソファから持ってきて、それを枕代わりにして床に寝転がった。
「彩春?」
「探していいよ、稲月。くすぐりで笑えるなら、笑ってみたいし」
「え。……あ、う。うんと、じゃあ、うん。失礼します?」
せっかく立ち上がったのに、稲月は床に座って私に手を伸ばしてくる。
彼女の指は細くて、綺麗だった。
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