第16話
「じゃあ、触るよ」
稲月の手が、私の喉に触れる。自分の急所を人に差し出すという行為は、危険で倒錯的なように思えた。でも相手が稲月だと防衛本能が眠りについて、触られても危ないとか、離れなくちゃとか、そういうのを感じない。
指をバラバラに動かして、喉を撫でてくる。少しくすぐったいが、笑みが溢れるほどではない。
そうだ、と思う。
以前は迷っているうちに終わってしまったが、今なら言えるかもしれない。いや、言っても仕方がないことではあるのだけど。
「にゃん」
「え?」
「なんでもない」
言わなかった方がよかったかな。
考えてみれば、にゃーにゃー言ったって何も楽しくない。
猫になった気分をさらに味わえるかも、なんて思ったけれど、鳴いても私は私だ。
……鳴いても私。
ちょっと、自由律俳句っぽいかもしれない。だから、なんなのか。
「可愛いけどさ。いきなりだったから。……もっかい言ってみて」
「にゃあ」
「……うん。いいね」
趣旨が変わってきているような。
私はくすぐったさを感じながら、彼女に喉を撫でられる。上がってきた指に顎を撫でられて、頬に触れられて、耳の後ろを撫でられる。
耳たぶのあたりを爪で甘く引っ掻くように撫でられると、少しだけ体が跳ねる。くすぐったいというか、恥ずかしい。耳までまじまじと見られることも、触られることも今までなかったから、やや緊張するかもしれない。
「くすぐったい?」
「たい」
「いや、省略しすぎでしょ」
稲月はくすりと笑いながら、私の髪を梳くようにして撫で始める。
「これは?」
「撫でたかったから」
「欲望に忠実だ」
「私だもん」
「確かに、稲月っぽい」
稲月はしばらく私の頭を撫でていたが、やがて満足したのか、今度はお腹に指を持ってくる。ブレザーのボタンが外されて、ブラウスのボタンも外される。
前に眠る前に服の上から撫でられたことはあったが、こうして直接肌に触れられるのは初めてだ。
温かい指が、冷たい私のお腹を滑っていく。見えない線が残っているかのように、触れられた感覚がいつまでも消えない。撫でられる場所が増えるにつれて、お腹全体が彼女の手の感触に支配されていく。
触られていなかった時のことを思い出せなくなるくらい、お腹が彼女でいっぱいだった。じわりと滲むように彼女の体温が浸透して、冷たいはずの私の肌が温もりで満たされる。
火傷しそうだった。
くすぐったさよりも、熱さでどうにかなってしまうのではないかと思う。
「ここは、どう?」
「そこまでくすぐったくは、ない」
「そっか。……彩春のお腹、引き締まってるよね。おへその形もいいし」
「稲月って。時々変なこと言うよね。喉が綺麗とか、むちむちになるとか」
稲月の手がスカートの下に移動する。膝の少し上を指でなぞる。
漢字ドリルのお手本を鉛筆でなぞっている時に似ている、と思う。おっかなびっくり、正解を探しているみたいな。
彼女の顔は真剣そのものだ。
くすぐるという行為を、人はこんなにも真剣にできるものらしい。意外と人って、色んな可能性があるのかも。
……なんて。
「むちむちは言うでしょ、普通に」
「私は言わない」
「じゃあ彩春が普通じゃないんだよ」
「それはそうかも。普通か異常かで言ったら、異常だよね」
でも。クリスマスに人の家でくすぐったい場所探しなんてしている稲月も、大概に異常者だ。
電波発言をする時点で、普通ではないのだけれど。
「でも……異常だからこそ、言えることもあるよ」
稲月の顔に手を伸ばす。頬に触れると、やっぱりあったかい。
稲月は、稲月だ。
どこにいても、何をしていても。
どんな時間軸でも、きっと変わらない。
「稲月に会えて、よかった」
いつか、稲月とは別れることになる。特定の人を繋ぎ止める力が弱い私は、人との関係を維持することができない。
人を本当の意味で好きになるのは難しくて、信じられなくて、だから私は薄い繋がりをいつかさらに薄くしてしまって、最後には自分の手で消滅させてしまう。
けれど、今の私は確かに、稲月と一緒にいて楽しいと思っている。
心から、かどうかはわからないけれど、稲月のことが好きで。
それで、出会えてよかったと思っている。この気持ちは嘘ではないと思う。今しかない感情かもしれないから、今稲月に伝えたい。
「彩春が普通じゃなくてよかった」
彼女はそう言いながら、膝の下まで指を動かす。少しくすぐったいが、やはり私は笑えない。
「私も、彩春に会えてよかったと思ってる」
「足の裏に触りながら、言うんだ」
「冷たくて気持ちいいよ」
「また、変なこと言った」
彼女は縁を描くように私の土踏まずに触れてから、また上へ上へと指を戻していく。ふわりとスカートが持ち上がって、さらにその先に指が進んでいこうとする。
「そこは、多分くすぐったくないと思うよ」
「……そうだよね」
彼女は微妙な笑みを浮かべて言った。何かを誤魔化すような笑み。
私はスカートを払って、立ち上がった。
「見つかんなかったね」
「待って。最後に、一箇所だけ。腕出して」
「んと……はい」
立ち上がった稲月に、腕を差し出す。
彼女は指を掌に押し付けた。それから、筆のようにゆっくりと指を動かして、腕へと進んでいく。
足と同じ触り方だ。
なんて思っていると、腕を掴まれる。
ええと、これは。
「彩春」
腕を引っ張られて、抱きしめられた。
かと思ったら、耳元で囁かれる。
「私やっぱり、彩春のことが好き。私の知ってる彩春とは、違うけど。やっぱり彩春は彩春だから。一緒にいたい。今日も、明日も。その先も、ずっと」
彩春がゲシュタルト崩壊しそうだった。
なんで今そんなことを言うのだろう。
私たちの繋がりは、モールよりも弱くて頼りない。前の時間軸の話から始まって伝えられた好きという感情は、信じるには非現実的で。ずっと一緒にと願うには、確かなものがなくて。
稲月のことは好きだ。
好きだけど、人を信じる能力が私にはない。もし稲月とずっと一緒にいたいと願って、彼女と時を過ごしたとする。でも、時を過ごす中で私と彼女どっちかの気持ちが薄れていって、もういいや、なんてことになったら。
その後で私はまた、他の誰かとずっと一緒にいたいと思えるようになるだろうか。
無理だ。
私はそんなに器用じゃない。色々な人を何度も信じられるほど強くないのだ。だって、一人を信じるのにすら、こんなにも時間がかかっているのだから。
私がずっと一緒にいたいと願う相手は、多分人生で一人だけだ。
両親にも抱けなかったその思いを、稲月に向けられるのか。
向けられる日が来たとして、稲月はそれを受け取って、本当にずっと一緒にいてくれるのか。
自分も稲月も、信じるには材料が足りない。
人と人との関係なんて、いつかは消えてなくなってしまう。そう思うようになったのは、いつからなのか。
「人と人って、ずっと一緒にいられるものなの?」
「いられるよ。彩春となら、一緒にいられるって信じてる」
「なんで、信じられるの」
「彩春が彩春だから」
私って、なんなんだろう。
稲月は私の何を見ているのか。
「彩春がそれを信じられないなら、信じられるまで一緒にいる。私と一緒にいるのが嫌になるまでは、一緒にいて」
「……う、ん」
稲月に抱きしめられていると体だけじゃなくて心まで温かくなって、全部預けてしまいたくなる。でも、心の冷静な部分がそれは駄目だと囁いてくるから、私はそっと稲月の胸を押した。
「一緒に、いる。ずっとかは、わかんないけど」
「うん。それでいいよ。……ツリー、最後まで飾っちゃおっか」
稲月は銀色のモールを手に取って、ツリーにかける。
私が飾った金色のモールと重なった銀色のモールは、飾られる前より少し輝いて見えた。稲月は最後に電飾をツリーに飾って、コンセントを挿した。
「さて、では点灯式といきますか。へい、いろちゃん。リビングの電気消して」
どういうテンションなんだろう。
えっと、何を言えば?
「へ、へい。わかりましたいなちゃん」
私はリビングの電気を消した。同時に、ツリーに付けられた電飾が輝き出す。カラフルな光が暗闇の中で瞬いて、オーナメントを照らす。
学校のツリーの方が大きくて、飾りの数も多いのに。
なのに、今ここで見るツリーの方が綺麗に思えるのは、なんでだろう。カラフルに染まった稲月の顔は、楽しげな笑みを浮かべていた。
「どう? 初めてツリーを飾った感想は」
「……ちょっと、ツリーを飾る人たちの気持ちがわかった気がする」
「ならよかった」
私はぼんやりとツリーを眺めた。こういうことをするのは、本来もっと幼い子供なのかもしれない。
でも、高校一年生の私がしても、楽しい、と思う。多分。
稲月がいなかったら、こんな感覚はきっと死ぬまで知らなかっただろう。
夜出歩いたり、朝ごはんを中断して遊びに行ったり、ツリーを飾ったり。稲月としたことは全部心に刻み込まれていて、私の中で確かな経験として息づいている。積み重ねられた思い出が多ければ多いほど後で苦しむとわかってはいる。
手紙と同じだ。思いを込めれば込めるほど、捨てられた時の傷は深くなる。どんな思い出も、捨てられたら意味を無くしてしまう。
稲月は私との思い出を捨てないのか。私は稲月との思い出を捨てないのか。
わからない。
私はどんな思い出も大事にしたいと思っているけれど、それでも、人なのだ。人は簡単に色んなものを捨ててしまう生き物だから、私は私を信用できない。
「綺麗」
私は小さく呟いた。
「え、なに? 私が?」
「全部。稲月も、稲月の周りにあるものも、稲月がくれたものも。全部綺麗」
「……彩春は私を照れさすのが仕事だったりする?」
自分からは色々言ってきたりする割に、稲月は照れ屋だ。
もっと彼女の色んな表情を見たい。色んなことを知りたい。そう思うのは、やっぱり、少なからず彼女と一緒にいたいと願っているためなのだろう。
今は一緒にいたい。
明日もできれば一緒にいたい。
ずっとかどうかは、わからない。
一度抱いた気持ちがずっと変わらなければいいのに、と思う。それが難しいから、人は人なのだけれど。
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