第33話
「彩春ー」
包丁を使っているのに、稲月は私に抱きついてくる。
「稲月。危ないからやめて」
「えー。じゃあ料理中断して抱きしめ返してよ」
「お昼ご飯食べられなくなるけどいい?」
「彩春が抱きしめてくれるなら、いいよ」
「私はよくない」
昼間から天ぷらが食べたいとか言い出したのは稲月なのに、勝手だ。もう鍋に油も入れてしまったのだから、今更止めるなんてありえない。
稲月は本当に、適当なところがある。
嫌いじゃないけど。
「冷たい。彩春が冷たいよー」
「……しょうがない。稲月、ちょっと離れて」
私は包丁を置いて、彼女と距離を置いた。
これ以上稲月に駄々をこねられると出かける時間が来てしまいそうなので、私は背伸びをして彼女の唇に自分の唇を合わせた。
軽く唇を啄んで、離れる。
この前想いを全部ぶつけてから、私たちは日常的にこうしてキスをするようになった。付き合おうとか恋人になろうとかそういう話をしたことはないが、私たちは今、恋人のような触れ合いをしている。
あれから変わったものといえば、私たちの距離感くらいだ。
私は今までよりも稲月に気安く接することができるようになった。稲月は私に甘えてくるようになり、スキンシップを要求してくることが増えた。
その変化を愛おしく思う。
「これで満足して、大人しくしててね」
「あ、う。うん」
稲月は萎れたレタスみたいにしなしなになってダイニングテーブルの方に歩いていった。
気軽に唇を合わせているけれど、本当にいいのかな、と少し思ったりする。
あんまり日常的にキスをしているとその意味が薄れてしまうというか、いざという時に困る気がする。
いや。いざという時って、なんだ。
どうかしてる。
私は首を振って、料理に集中した。
お昼を食べた後、私たちはのんびりと支度をして、学校に向かった。
大学の学園祭を見たいと言ったのは稲月で、私はちょっと心配になりながらもそれを了承した。
日曜日のキャンパスは人で溢れかえっており、油断すれば稲月とはぐれてしまいそうだった。
私たちは指と指を絡ませるようにして手を握り合い、キャンパスを回った。
やっぱり、高校の学園祭とは規模が違う。出店一つとっても種類が多いし、似顔絵を描いてくれるサークルとか、映画の上映をしているサークルなんてものもある。私たちはホールで行われているライブイベントに参加したり、ダンスサークルのパフォーマンスを見たりした。
二年後には私も見る側ではなく見せる側になっているのだろうか。
稲月はそんな未来を、信じられているだろうか。
ちらとの彼女の様子を窺うと、やはり、彼女は少し寂しそうな顔をしていた。そう簡単には彼女の恐怖を拭ってはあげられないのだろう。
それでも、もしまた繰り返すとしても。卒業する日が来るまで、私は彼女と一緒にいて、この想いを伝え続けたい。
「稲月。次、行きたいところある?」
「ん……どう、しよっか」
「ゆっくり考えていいよ。稲月が行きたいところを見つけられるまで、ずっと待ってる」
私たちはベンチに座って、緩やかに時間を過ごした。
別に、行きたいところがなくてもいいと思う。私はこうして稲月と一緒にいられるだけで十分だ。静かなところにいても、騒がしいところにいても、稲月が傍にいてくれるのなら、私はそれだけで楽しい。
周りを歩く人たちはどこか忙しい。一日を全力で楽しもうとしているのが、見てわかった。
私は稲月の膝に頭を乗せた。
柔らかくて、あったかい。
いつも私がする側だから、こういうのは新鮮な気がする。
「彩春?」
「……ちょっと、眠くなっちゃった。大学って、楽しいけど疲れるとこなのかも」
「あー、ちょっとわかるかも」
結局私が稲月にあげられるものは、素直な言葉とか、ゆっくり流れる時間とか、そういうものなのだろう。
今日は稲月の手を引いて色々な場所に連れて行ったりしたが、やっぱりこれは私の仕事じゃない。引っ張るのは稲月で、その速度を少しだけ遅くするのが私だ。
自然のままが一番、なんだろうなぁ。
大学の学園祭でまだ行きたいところがないというのが、今の稲月の答えのようにも思えた。
また、繰り返すのかも。
でも。
焦ったって仕方ない。稲月と歩調を合わせて進むことが、今の私がすべきことで、したいことだ。
だからこれでいいと思う。
今だけは、私が稲月を独り占めしている。少なくとも今は幸せだ。
私は稲月に頭を撫でられながら、目を瞑った。
ただでさえ夜眠るのが難しいのに、昼寝なんてしたらひどいことになりそう。そう思ってきたから、今まではほとんど昼寝をしてこなかった。
だけど、稲月と一緒なら、眠れない夜を過ごすのもいいかもしれないと思う。また前みたいに夜の街を歩いて、くだらない話をしたりとか。それだけで、きっと楽しい。
稲月の温かさに身を委ねていると、すぐに眠気が兆してくる。
気付けば私は、意識が飛んでいた。
目を覚ました時には、もう日が沈んでいた。茜色の光が遠ざかり、辺りは深い黒に覆われ始めている。
キャンパスを埋めていた人々もすでにほとんどいなくなっており、辺りには奇妙な寂寥感が満ちていた。
頭を上げると、撤収作業をしている大学生が目に入った。
祭りの終わりを感じる。
明日もやるのかもしれないけれど、今日は終わりだ。
私は大きく伸びをして、稲月の方を見た。彼女はぐっすり眠っている。相変わらずその寝顔はあどけなくて、私はちょっとした悪戯心で彼女にそっとキスをした。
この程度じゃ起きないと思っていたけれど、予想に反して稲月は目を開け始めた。
驚いているのが、唇から伝わる。
私は微笑んで、彼女から唇を離そうとした。その瞬間、腰に手を回されて、抱き寄せられる。
秋の始まりを感じさせる涼しい風の中、私たちは抱き合いながら、ごく短い時間キスをした。
辺りが暗くて助かったと思う。
私たちに注目している人は誰もいなかった。でも、流石に外で長々キスをするのもどうかと思ったため、私たちはどちらともなく離れた。
「おはよ、稲月」
「う、ん。おはよう、彩春」
私は立ち上がって、彼女に手を差し出した。
「帰ろっか。学祭、終わったみたいだし」
「そうだね。……ごめん」
「何が?」
「行きたいとこ、思いつかなかった。私が誘ったのに」
「謝ることないよ。私は楽しかったから、気にしないで」
手を握って、彼女も立ち上がる。
私たちの心の距離は、ちゃんと近づいているんだろうか。
わからないけれど、彼女から伝わってくる温かさは本物だ。
「私も、楽しかった。彩春と一緒にいるときは、いつも楽しい」
「同じだね、私と」
薄い灯りに照らされたキャンパスをのんびりと歩く。地面に映し出された私たちの影はひどく薄くて、今にも消えてしまいそうだった。
私はスマホで時間を確認した。
五時半。
まだ、チャペルは開いている時間だ。
「最後に一箇所寄ってもいい?」
私は稲月に笑いかけた。彼女はうっすらと微笑んだ。
「うん。いいよ。どこに行くの?」
「チャペル」
「え?」
私は稲月の手を引いてチャペルに向かった。
何があるってわけじゃ、ないけれど。
前についた一つの嘘を、訂正したいと思っただけだ。
結婚式に使われるような場所にはステンドグラスがあるようなイメージだったけれど、チャペルはそうでないらしい。
どちらかといえば素朴というか、普通だ。いくらかガラス窓があって、いくつも席があって、暖色の光で照らされている。
結婚式を挙げた卒業生たちは、どんな思いでここに来ていたのだろう。これまでの思い出を懐かしんでいたのか、これからの生活への希望を抱いていたのか、それとも。
私は前の方の席に座って、パイプオルガンを眺めた。
祈りを捧げる方法も、祈る神も知らない。
こういう場所には神聖で、侵しがたい空気がある気がする。私はその空気に紛れるように稲月の瞳を覗いた。
ちゃんと私の姿が映っている。
私は微笑んで、彼女の手に自分の手を重ねた。
「前に、将来なりたいもの話したことあったよね」
「あったね。彩春がお嫁さんとか冗談言ったんだっけ」
「あはは。実はあれ、冗談じゃないんだ」
私は笑いながら、天井を見上げた。
ここで結婚式を挙げることはないだろうけれど、空気を味わうくらいは許されるだろう。
「誰かを愛して、誰かに愛されるって、とっても幸せなことだと思う。どんなことよりも。……多分、私がまだ子供だからそう思うんだろうけど」
世の中には愛よりも重要なものがたくさんあるんだと思う。
お金がないと生きていけないし、ある程度社会的な地位がないと窮屈だ。
それでも。今の私には、愛よりも重要なものなんて何もないように思えた。
「好きって言ったら好きって返ってきて。そういう些細なことが、何よりも幸せ。お嫁さんになった後は、色々大変なんだろうけどね」
「彩春……」
稲月が手を握ってくる。その握り方は今までで一番優しいように感じた。
「私、稲月が思ってるよりずっとずっと子供だよ。多分ね。大好きって言われたい。撫でられたい。抱きしめられたい。それ以外に欲しいものなんてない」
それは、私がずっと両親にしてほしいと思ってきたものだ。
でも、今は。今は稲月にしてもらいたい。稲月だけに。
今の時間軸の私は、稲月以外をもう好きになることができない。
「だから、稲月が私のこと好きなら、覚えといてね。私、わがままだし嫉妬深いよ」
「私も、似たようなもんだよ。誰よりも長く高校生活続けてきたけど、誰よりも臆病で、子供。……でも。彩春のこと、幸せにしたい」
稲月は真剣な目で私を見ながら言う。
やっぱり、こういう時の稲月はいつだってまっすぐだ。
それが心地良くて、私は微笑んだ。
「うん。幸せにし合えると、いいね」
私たちはしばらくそのまま、無言で見つめ合った。
稲月がこの時間で、ずっと私と過ごしてくれるといいと思う。
稲月にはこの時間軸で幸せになってほしい。簡単にそれが叶うわけがないって、わかってはいるけれど。
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