第4話

 家具を買ってから近くの店で食事をとり、私たちは帰路に着いていた。まだ日が落ちるには早く、微かに橙色に染まり始めた空が目に眩しい。


 私たちはお互いに一つずつ買ったものが入った袋を持ち、肩を並べて歩いた。母親との買い物帰りって、こんな感じなのかもしれない。私は、したことがないからわからないけれど。


「楽しみだね」


 稲月が言う。彼女の持った袋の中で、小物がぶつかり合って音を立てた。


「何が?」

「何がって……家具が届くのがに決まってるじゃん。届いたらお泊まり会しようね」


 街路樹から落ちた葉っぱを踏みしめながら、稲月は笑った。彼女の笑みからは、秋のように爽やかな気配を感じる。


 綺麗で絵になるのは、私じゃなくて稲月だ。

 私は目を細めながら、楽しげに歩く稲月をじっと見つめた。いつでも楽しそうにしている稲月は、夜になっても明かりが消えることのないこの街に似ている。


 ちょっと落ち着かないような、嬉しいような。

 稲月と一緒にいると、深く物事を考えている暇もなくて、目まぐるしい。それが心地良く思えるのが、少し不思議だ。


「お泊まり会なら、今もしてると思う」

「そうだけどそうじゃないの。新しくなった彩春の部屋で一緒に寝てさ。これからのこととか色々話したりするの。楽しそうでしょ?」


 考えてみれば、彼女と同じ部屋で寝たことはない。拾ってもらった初日から部屋を与えられたため、機会がなかったのだ。

 少し、緊張するような。


 友達と一緒の部屋で寝るのなんて慣れている。それでも変な感じがするのは、稲月の電波発言が未だ私の心を揺らしているからだろう。


「うん、そうだね。私、もっと稲月のこと知りたいかも」

「私もだよ」

「恋人だったなら、色々知ってるんじゃないの?」

「……うーん。色々ってほどじゃないかも。一緒に暮らすのは今回が初めてだしさ。今日家具見に行ったのだって、彩春の好みが知りたかったから」


 彼女は澄んだ声でそう言った。

 一陣の風が吹いて、彼女の明るい髪を揺らす。彼女の髪からは甘い匂いがする。私も同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女みたいにいい匂いはしないと思う。


 使っているものは同じだけど、モノが違う。そんな感じだ。

 でも、同じシャンプーやボディソープを使っていると、稲月の家族の一員になったみたいで少し嬉しい。


 稲月の家に染まっている今の私は、私じゃないみたいな気もして。

 それに違和感を抱かない程度には、私は稲月に寄っている。


「私のことなんて、知りたいの?」

「当たり前じゃん。好きな人のことはなんでも知りたくなるものなんだよ」


 彼女は春風みたいな笑みを見せた。

 一瞬、瞬きを忘れる。

 目を離すことができなかった。慌てて瞬きすると、目がひどく乾いていることに気づく。


「好きな人……」

「そう。私は彩春のことが好き」


 明るい声色。これから遊びに行こうとか、そういう話をするのと同じトーンだった。だから私は、その言葉を本気だと認識することができない。


「どの辺が?」

「全体的に? んー、あんま考えたことなかったかも」


 何それ。

 稲月はやっぱり変わっている。

 冗談を言うなら、こういう質問は想定しておけばいいのに。


「でも、うーん。あえて言うなら、全部」

「中々大胆な発言だね」

「そう? とにかく、顔も声も、性格も。全部好き」


 ここまでまっすぐに目を見られて好きだと言われたことは一度もなかったので、少したじろいでしまう。


 稲月は大胆だ。色々と。

 前の時間軸がどうとか、恋人とか、好きだとか。全部が大胆でまっすぐだから、私も釣られてまっすぐになってしまう。背筋が伸びて、ちゃんと彼女の言葉にこたえなきゃ、という気持ちになる。


「んと、ありがとう。……私も稲月のこと、割と好き」

「割となんだ」

「まだ、あんまよく知らないから。でも、感謝してるよ。稲月のおかげで毎日楽しくて、寂しくない。だから、私から稲月にあげられるものが何かあったら、教えて」


 稲月と私の距離は肩が触れそうなほどに近い。

 でも、お互いまだ知らないことだらけで、心の距離はここまで近くはなれない。触れることなんて、できるはずもない。


 だからほんの少し心許なくなって、彼女の目を見てしまう。私を曇りなく映す、その瞳を。


「……彩春のそういうとこ、好きだよ。感情をそのまま伝えてくれる感じ」

「うん」

「いつか彩春が前の時間軸のこと思い出したらさ。大好きだって言ってくれたら嬉しいな」


 好きだと言われて悪い気はしない。でも、その理由がいまいちよくわからないから、どういう顔をすればいいのかわからなくはなる。


 そして、忘れた頃にやってくる電波ちゃんな発言に、私は何度も惑わされている。


 どうにもこうにも、唐突でよくわからない。手を繋いでも、好きだって言われても、前の時間軸のことなんて思い出せるはずもない。


 電波が強すぎて、稲月の本当の姿が見えなくなっていくような感じがする。


 もっと知りたい、と思う。でも、知ろうとすればするほど電波が強くなって、結局見失ってしまうような。


 稲月は、変な子だ。

 私もそうかもだけれど。


「そうだね。いつか。……いつか、言えるといいね」


 大通りを歩いて、駅に向かう。私の家がある辺りと違って、この辺りは都会だ。


 一歩歩くだけで多くの人とすれ違うし、息を吐く暇もないほどの騒音がいつだって鼓膜を震わせてくる。


 喧騒の中を歩いていると稲月の姿を見失ってしまいそうで、私は思わず彼女の手に自分の手を伸ばした。


 でも、彼女の手は掴めなかった。

 ほんの少し速度を上げた彼女が、私の方を振り返る。いたずらっ子のような顔で、私に目を向けてきた。


「そうだ。彩春、ちょっとここで待ってて」

「え」


 稲月は跳ねるように歩く。私との距離がどんどん開いて、背中が小さくなっていく。手を伸ばしても届かないことはわかっているから、私は伸ばしかけた手をそっと自分の体の方に戻して、道の端っこに立った。


 端っこに寄りすぎて、ちくちく植え込みの木がお尻に刺さってくるような感じがした。


「ほんと、遠いなぁ。色々、全部」


 空を見上げる。秋の空は高くて遠く、見ていると吸い込まれそうだった。

 人も同じかもしれない。


 あまりにも遠くて、何を言っても届かなくて、近づけなくて。でも人との繋がりは吸い込まれそうなほどに魅力的で、結局届かないとわかっていても、求めてしまったりする。


 弱いなぁ、と思う。

 私は友達に電話をかけようかと迷った。

 知っている人の声が聞きたいなんて思うのは、どうしようもなく私が弱いからだ。


「彩春」


 誰かの声が聞こえて、花の匂いがした。


「じゃーん!」


 彼女は花束を私に差し出してくる。

 白とかピンクとか赤とか、色とりどりの花が私の方に向いている。私は目を瞬かせた。

 これは一体。


「えっと……」

「プレゼント。部屋に飾ってもらおうと思って」


 彼女はにこやかに告げてくる。


「一緒に住んでるんだからさ。彩春の部屋も全部彩春色だとやじゃん。ちょっとは私の色も取り入れてほしいってこと」


 私の部屋に、稲月の色が?

 想像すると、なんだか奇妙な感じがする。私の部屋には今まで私の色すらなかった。私の色が出て、そこに稲月の色も混ざったら、私の部屋は一体どうなるのだろう。

 でも、とにかく、気持ちは受け取らないと。


「……そっか。ありがとう。綺麗だね、お花。嬉しい」


 稲月は少しびっくりしたような表情を浮かべている。

 何か変なこと、言っただろうか。


「どうかした?」

「いや。彩春って花のことお花って言うんだなーって。可愛いよ」

「……花、確かに貰ったから」

「お花って言ってよー」

「はな」


 稲月はにやにや笑いながら私の顔を覗き込んでくる。私は少し恥ずかしくなった。別に、いいじゃないか。花でもお花でも。


 そんなことで可愛いと言われても、困る。

 名称にはこれから気をつけないといけないかもしれない。ことあるごとに稲月にからかわれていたら、羞恥で熱暴走を起こしそうだ。


「あんまり言うと、嫌いになるよ」

「それはやだけど。あーあ。可愛かったのに」


 完全に、からかわれている。

 好きだというならこの恥ずかしさをわかってはくれないだろうか。

 稲月は、本当に、全く。


「稲月」

「なーに」

「今日は、ありがとう。色々初めてだったから、楽しかった」


 気持ちは伝えられる時に伝えるべきだと思い、私は彼女に笑いかけた。

 私たちの同居生活は、いつ終わってもおかしくない。明日にはこの関係が解消されて、朝の教室で話すだけの関係に戻るかもしれないのだ。

 だから、今の気持ちは今伝える。明日後悔しないように。


「ううん。今日だけじゃない。いつもありがとう。稲月が色んなとこに連れ出してくれるの、結構好き」

「え、うん。いや、いきなり改まって言われるとちょっとビビるね。どういたしまして」


 稲月は微かに頬を紅潮させている。日が急速に傾き始め、茜色に染まった街の中では、彼女の顔が赤い理由も判然としない。


 でも、伝えるべきことは伝えたから、それでいいと思う。

 自分の感情を伝えるまでが私の役目で、どう受け取るかは相手に任せていればいい。


「その、なんだ。彩春が望むなら、ずっといてくれても、いいからね」


 彼女はそう言って、照れたように笑う。

 それを見ていると、少し心が浮くような感じがする。


「ありがとう」


 ずっと稲月の家にいるわけにはいかない。それはわかっている。だけど、彼女の言葉は純粋に嬉しく思った。


 私は彼女と並んで歩きながら、荷物を持った手の甲を彼女の手の甲にそっと触れさせた。


 左手には花束を持っていて、右手には荷物を持っているから、手を繋ぐことはできない。でも、こうして触れさせるだけで、十分温かくて満足できる。


 稲月もまた、私に寄り添うように手を触れさせてきた。

 かさ、と袋の揺れる音が重なり合う。私は何も言わず、ふっと笑った。

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