第5話

「ねえ」


 稲月の声が聞こえる。私は参考書のページを捲りながら、彼女に目を向けた。


 稲月は自分の部屋みたいにくつろいでいる。元々彼女の部屋なのだから当たり前だけれど、私のベッドの上でごろごろされると気が散る。


「ねえー。聞いてる?」


 右に左にぐるぐると。

 彼女は掛け布団を抱えたままベッドの上で暴れている。埃が部屋の光で輝いて、妙に目に眩しかった。


「稲月。私、見ての通り勉強してる」

「知ってる。だから邪魔してんじゃん」


 そろそろ中間テストが始まるため、私はいつもより少し勉強時間を増やしていた。予習復習は欠かしていないから躍起になって勉強する必要もないけれど、万が一成績が落ちたら困る。


 高得点を取るのが当たり前になっているから、点数が落ちたら両親に何を言われるかわからない。


 今更失望されようと叱責されようと、どうでもいいはずなのに。

 それでも勉強を続けるのは、やっぱり習慣のせいだろう。

 勉強以外に、特にすることもないし。


「いつも勉強してるんでしょ? もうしなくていいじゃん」

「それはそれ、これはこれかな」

「ノイローゼじゃん。そんな勉強ばっかしてるとストレスで禿げるぞー」


 稲月はのろのろ立ち上がって、私の向かい側に座る。

 彼女はテーブルに置かれたキャニスターから飴を取り出して、私に差し出してくる。


「はい、あーん」

「ん……」


 甘くて、ほんのり酸っぱい。

 苺の味が口の中に広がる。

 キャニスターは家具屋に売られていたものだ。議論の結果、中に入れるものは飴玉に決まり、稲月が選んだ宝石みたいな飴がこれでもかというほど詰まっている。


 容器が透明だから中に入った飴が映える。稲月も飴を入れた直後に何枚も写真を撮っていた。


 私の部屋にしては色彩が豊かすぎるように思うが、家具が届けばもっと色が溢れることになるから、慣れるしかない。


「飴、結構減ってきたなあ」


 稲月はキャニスターを指で突く。


「稲月が私に食べさせるからだよ。……ほとんど私が食べちゃってるけど、いいの?」

「そのために買ったからね。彩春の部屋を改造する目的もあるけど、食べてるとこ、見たいから」


 最近は、飴を稲月に食べさせられるのが日課になっている。彼女はいつも夜に私の部屋に来ては、ゴロゴロしたり私に飴を食べさせたりしてくるのだ。

 最初は戸惑っていたけれど、今はもう慣れた。

 稲月が変わったことをするのは今に始まったことじゃない。


「楽しいの?」

「うん。すごく」


 稲月は飴を一つ口に入れたが、長い間舐めていることができないらしく、すぐに噛み砕いてしまう。


 私は口の中で小さくなりつつある飴を転がしながら、それを眺めた。

 稲月はせっかちだ。歩くのも早いし、いつも忙しそう。そういうところが、飴の食べ方にも出ている。


 同じ時間を過ごすごとに、一つ一つ彼女の情報が増えていく。彼女との思い出には色が満ちていて、白黒だった私の記憶が彼女によって彩られていくのだ。それがこそばゆいようで、嬉しくも思える。


 稲月と過ごす時間は楽しくて、だからもっと、彼女のことを知りたい。


「彩春がもの食べてるとこ見るの、好きだったりする」


 彼女はそう言って、私の喉にそっと触れてくる。

 あたたかい指先が、少しくすぐったい。


 普通、人の喉なんて触らないと思う。でも、電波発言を何度も聞いて麻痺した脳は、それを不思議にすら思わなくなっている。


「綺麗な喉。動いてると、もっと綺麗に見える」


 喉を褒められるのは初めてだから、何も言えない。

 こういう時、稲月はこれまでの人生で一度も見たことのないような表情で私のことを見てくる。眩しいものを見るように目を細めて、少し口を開いて、じっと私を見るその表情に、どんな感情が含まれているのか。


 私はそれを知らない。

 でも、嫌いじゃない。もっと見たいとも思う。誰からも向けられたことのない、他の誰も浮かべないその表情を。


「その発言は、ちょっと怖いよ」

「あはは、でも本心だし」


 稲月が私に近づいてくる。さらさらした髪が腕に触れて、くすぐったい。彼女は私を見上げながら、喉を優しく撫でる。


 猫にでもなった気分。

 にゃん、とか言った方がいいのかな。


 迷っている間に彼女は喉から顎に手を移動させて、最後にそっと唇に触れてから、キャニスターに戻った。


 私の唇に触れていた指がオレンジ色の飴を摘んで、今度は彼女の唇に触れる。


「彩春。前の時間軸のこと、ちょっとは思い出した?」


 忘れた頃にやってくるのがこの電波発言である。

 これのせいで私は、普通はしないような接触に違和感を抱けなくなっているのだ。


 いや、でも、私が知らないだけで昨今の女子高生の間ではこうやって顎やら喉やらを触るのが流行っていたりするのだろうか。


 流石に、ないと思う。少なくとも仲がいい友達とだってこういうことをしないのは確かだった。


 今度やってみようか。

 ……駄目だろうな。


 稲月と私の関係と違って、友達と私の関係は電波に侵されていない。こういう触れ合いは、怪電波に侵されてブレまくっている私たちの関係の中でのみ許されるものな気がする。

 でも、触れ合いと言えるほど触れ合ってはいないような。


「全然。それ、もし思い出したらどうするの?」


 私は問いかけながら、そっと彼女の喉に触れた。微かに彼女の体が跳ねる。喉から伝わってくるのは心臓の鼓動と、彼女の体温だった。


 あったかい。

 指先だけじゃ足りなくなって、掌を押しつける。そうすると、首を絞めているような形になった。


 簡単に手折れる花みたいに弱々しい喉の感触が、手全体から伝わってくる。でも、そんな喉から発せられる言葉には、確かに強い力がある。


 喉はこんなにも頼りないのに、出てくる言葉は優しくて、透き通っていて、強い。

 稲月は、不思議だ。


「ん……恋人に、なってもらおうかな」


 いつもとは違う、どこか平坦な声だった。

 恥ずかしがっている、わけではないと思うけれど。

 私は首を傾げた。


「恋人かぁ」


 誰かと恋人になっている自分の姿なんて、想像できそうにない。

 まして稲月と恋人になる日なんて、永遠に来ないと思う。


「気になってたけど。私と稲月って、前の時間だとどっちが告白したの?」

「彩春の方だよ。それで私がオッケーして、付き合った」

「……私が? どんな言葉で?」


 思わず笑ってしまう。人に恋する心なんて、持っているとは思えなかった。


 私の言葉をちゃんと受け取ってくれて。私の目をまっすぐ見て、想いを言葉に乗せてくれる人がいたら。

 その人と一緒にいたいとは、思うだろうけれど。


「私のことが、好きだって」

「それだけ?」

「それだけ。彩春らしいよね」


 私の知らない私のことを、彼女は笑顔で語る。

 その表情を見ていると、本当にそんなことがあったのではないかと考えてしまう。前の時間軸なんてありえないし、もしあったとしても私にはその時のことを知る手段がないのだから、存在しないのと同じだ。


 でも、確かに、好きな人ができたとしたら、私はきっと「好き」とだけ言うだろう。無駄な装飾をせず、わかりやすい言葉にしたほうが想いは伝わりやすいと思う。


 私が勝手にそう思っているだけで、実際がどうかはわからないけれど。

 どうすれば言葉が正しく伝わるのかなんて、ずっとわからないままだ。


 本当に伝わってほしい言葉こそ、正しく伝わらないし、受け取ってもらえない。そういうものだと、諦めてはいる。


「なんで、私のことなんて好きになったの?」

「んー、わかんない。あえて言うなら、彩春が彩春だったからかな」


 電波が稲月の本当の姿を隠していくようだった。


「私の方からも、聞きたいかな。彩春がどうして、私を好きになったのか」

「……思い出したら、教えてあげるね」


 彼女の話に付き合っていると、現実が現実でなくなっていくような感じがする。

 稲月はどこか寂しげに私を見ていた。


 私を通して、別の何かを見ているかのように。けれど、その瞳には確かに私が映っている。それでも安心できなくて、私はその瞳の奥に触れたいと思った。


 両手を伸ばすと、指を絡められる。

 白い指が私の全部を攫うように、ぎゅっと指を握ってきた。


「彩春」


 私の名前を呼ぶ声は、脆い。

 いつもとは違うその声を、どう受け止めればいいのか。

 わからなくて、目を細めた。


「ちょっと、外出ない?」


 彼女はそう言って、繋いだ手に微かに力を入れた。


「いいよ。出よっか」


 自然と返事が出る。

 勉強は、とっくにする気がなくなっていた。

 稲月は私が返事をしてもなお、しばらく動こうとしなかった。彼女がようやく動き出したのは、三分ほど私の手を握ったり離したりした後のことだった。

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