第6話

 夜八時以降に外出したことがないと言えば、すごく真面目な優等生のように思われるかもしれない。


 実際はただ勉強以外にしたいことが見つからなかったから家にいただけで、私はそんなに真面目でも優等生でもない、と思う。


 したいことがあるなら、昼だろうと夜中だろうと外くらい出る。今のように。

 二人分の足音が静かな街に響く。


 稲月の家は都内にあるから、辺りは決して人が少ないわけではない。しかし、騒がしい表通りを少し逸れれば、驚くほど静かな空間が広がっている。


 賑々しい街も、表面的にはそう見えるだけで、実際は寂しいのかもしれない。

 稲月は、どうなのだろう。


「寒っ。もうほぼ冬じゃん、凍死しちゃう」

「そうかな。一旦帰って、コート着てくる?」

「……違うでしょ」


 何がでしょうか。

 疑問を口にする前に、手を差し出される。

 さっきまで繋いでいた手は、鍵の開閉によって離されていた。


「寒いって言ったら、手くらい貸してよ。それが恋人ってもんでしょ」

「……稲月。私と稲月は、友達だよ」

「でも、彩春が全部思い出したら自動的に恋人だし。前借りしてもいいじゃん」

「私の手はお小遣いか何かなの?」


 寒いせいかな。

 稲月が、どこか寂しげに見えるのは。


「手くらいなら、何も言わなくたって繋いでいいよ」

「彩春から繋いでほしいんだよ。わかんないかな」

「どうして?」

「そっちの方が、ドキドキする」

「そういうものなんだ」


 私はそっと稲月の手を握った。

 手の温もりはさっきと全く変わっていない。多分、私も同じだ。


 どうして稲月は私に好意を寄せてきているのだろう。からかっているという感じはしないものの、不思議だった。


 前の時間軸という非現実的なものを抜きにすると、彼女が私を好きになる理由がよくわからなくなる。


 でも、前の時間軸のことを考えると余計にわけがわからなくなるから、結局どっちにしても稲月の心を理解することができない。

 やっぱり、今はごっこ遊びだと思って付き合った方がいいかな。

 わからないなら、仕方がない。


 稲月のことは確かに好きだけれど、今の彼女が欲している好きとは違うってことくらいわかっている。


「彩春」


 彼女はいつも、私の名前をまっすぐ呼んでくる。私の名前なんて呼ぶのは親くらいだから、私は彼女に彩春と呼ばれるようになるまで、名前を忘れそうになっていた。


 感情の込め方も、音の強弱も、親のそれとは全く違う。

 違うのに、いや、違うからこそ、心地良く聞こえる。


 彩春。いつも紙に書くだけだったその名前を、自分の名前だと信じることができるようになる。


「彩春は、将来なりたいものとかある?」


 いきなりの質問だ。

 私は首を傾げた。


「総理大臣」

「え」

「冗談。本当は、そうだね。うーん。……お嫁さん?」

「それも冗談でしょ?」


 冗談、ではない。

 誰かと結婚できたら、幸せだと思う。


 だって、自分は誰かを愛することができて、誰かが自分を愛してくれているってことだから。


 愛が互いに向くというのは、何よりも幸せなことだと思う。

 一生遊んで暮らせるお金よりも、社会的な地位よりも。私はそういうものが欲しいと思う。好きな人に好きって言って、あっちからも好きって返ってくる。それができたらきっと、私はこの上ない幸せを感じることができるだろう。


 こういう考えは、子供っぽいかも。

 でも、私はきっと人よりも子供で、寂しいという気持ちを抱きやすいから、仕方ない。子供っぽくても、馬鹿にされても。願いを変えることなんてできないし。


「……冗談」


 冗談にしておいた方がいいんだろうな、きっと。

 稲月のことだから、お嫁さんにしてあげるなんて笑いながら言ってきそうだ。


 自分で子供っぽいとかは思っても、他人に馬鹿にされるのはちょっと嫌だ。そう思いながらも夢を語ってしまうのは、相手が稲月だからなのかもしれない。


「そっか」


 稲月はそれ以上何も言わず、私の手を軽く引きながら歩いていく。

 今日は珍しく、歩くのが遅い。合わせようとしなくても、自然と歩調が合う。私の時間の流れが、彼女にも移っているのかもしれない。


 稲月はいつもより少し遅くて、私は多分、いつもより少し早い。

 そうして自然と合った歩調に何の意味があるのかはわからないけれど。


「稲月は?」

「ん」

「稲月は将来、なりたいものあるの?」


 歩道橋の階段を登りながら、私は問うた。

 稲月は階段ではなく坂を登っている。

 だから何かあるってわけじゃないけれど、何となく、稲月らしいと思う。

 決められたことから外れていて、ちょっと普通じゃない、みたいな。


「私? 私はねー……」


 上まで登ると、稲月は道路を見下ろした。

 車が光の線になって街を走っている。

 私はぼんやりとそれを見ながら、稲月の言葉を待った。


「今しか考えらんないかな」


 彼女はそう言って、微かに笑った。

 その笑みは、やっぱり寂しそうだった。


 なんでそんな顔するの、と聞けるほど、私は稲月の中に深く入り込んではいないと思う。


「今が楽しければいい。一年後も、二年後も、変わらず楽しく過ごせたらって思う。それ以外いらないし、考えられない」


 稲月は私の手を両手で包み込んでくる。いつもと変わらない、柔らかくて温かい彼女の手。それがひどく弱々しく、今にも崩れて消えてしまいそうに思えるのは、なんでだろう。


 私には何もできないから、そっと手を握り返して微笑んでみる。

 稲月は少しだけ、目を細めた。


「彩春も変わらず傍にいなよ。一緒に楽しく過ごせたら、きっと幸せだよ」


 彼女の言葉は、電波発言と同じように私の脳を揺らしてくるような力があった。


 でも、どうしてだろう。

 私をまっすぐ見ているはずの彼女の瞳が、全く別のものを見ているように思えてしまう。


「楽しく過ごせたら、いいね」


 今の私には、それしか言えなかった。

 稲月は、私の中に何を見ているの?


 聞いたら何かが変わってしまうような気がして、言葉が喉に詰まって消えていく。それに、聞いたって無駄だと思う。今の彼女に、私の言葉は届かない気がする。


「……彩春!」


 息がかかるほど近くに彼女の顔が迫る。

 距離、近いなぁ。

 普通こんなに近づかないと思う。いや、でも、昨今の高校生の間ではこれが常識……なわけ、ないよね。


「今しかできないこと、してみない?」


 今しかできないことって、なんだろう。

 私は首を傾げた。


「具体的には」

「次にこの歩道橋を登ってくる人が男か女か当てるの。当てた方が勝ちね」


 唐突だった。

 楽しいのだろうか、それは。

 私にはわからず、曖昧な笑みを浮かべることしかできない。


「当てたらどうなるの?」

「私からの熱い抱擁がもらえる」

「……いいかも」


 考えてみれば私は、誰かに抱きしめられたことがない。赤ちゃんの頃はきっと両親も私を抱っこしてくれていたはずだ。


 でも、記憶にはない。

 だから幼稚園や小学校で友達と手を繋ぐときには、ついつい嬉しくなって強く握りすぎて怒られた記憶がある。


 私も、あの頃は今よりもっと子供だった。

 年齢的にも、精神的にも。

 成長しているのか、していないのか。自分じゃわからないけど。


「私は男ね」


 稲月が言う。


「じゃあ、私が女の人か」


 私たちは静かに人が来るのを待った。下では車が音を立てて走っている。

 補導されそうな時間に、二人歩道橋の上で両手を握り合っている。


 傍から見たらわけのわからない状況だ。こんな時間にいい歳した高校生が互いに見つめあって手を握っているって状況は、変な勘ぐりをされそう。


 でも。

 私は稲月から目を離せなかった。稲月もずっと私を見ているから、視線を外す機会をすっかり失っていた。


 黒い瞳は私を鮮明に映している。今の彼女の瞳に浮かんでいるのは、確かに今ここにいる私のようだった。それに少しだけ安堵して、でも、心のどこかがざわざわしていて。私は彼女の手を、少しだけ強く握った。


 少しすると、足音が聞こえてくる。重くて力強い音だ。

 振り向くと、スーツを着た男性が歩いてきているのが見えた。

 どうやらこの微妙な勝負は、稲月の勝ちらしい。


「負けた」

「私の勝ちだね」

「……稲月が勝った場合、どうなるの? 抱きしめたりすればいい?」

「んー……そうだね。彩春から熱い抱擁をプレゼントしてもらおうかな」


 彼女はそっと私から手を離して、大きく腕を広げた。私は足音が遠ざかるのを待ってから、彼女に手を伸ばす。


 考えてみれば、ハグってどうやるんだろう。

 正面から体をどーん?

 それとも、腕を回してからそっと体を密着させる?

 脚を差し入れてから体を入れて、とか。

 ……混乱してきた。


「彩春ー。まだかなー。どうぞー」


 稲月が腕をバタバタさせる。

 そのまま飛んでいってしまいそうだ。


 私は小さく息を吐いて、正面から彼女に飛び込んだ。肩に額をくっつけて、背中に手を回して、お腹とお腹をくっつけるみたいに抱きしめる。


 稲月の匂いがした。甘くて優しい、飴玉みたいな匂い。

 それに包まれていると、穏やかな心地になる。手を繋いでいる時とは比べ物にならないほどの熱と匂いが、私の体に流れ込んできた。


 これは、ハマってしまうかもしれない。

 人肌が恋しくなるという言葉の意味が今までわからなかったが、今なら理解できそうな気がする。あったかくて、柔らかくて、優しくて。


 こんな心地を小さい頃から味わうなんて、世の中の子供は大丈夫なのだろうか。


 私だったら、変になっていると思う。

 今だって、きっと、変になっている。


「彩春、柔らかいね」

「稲月の方が、あったかいし柔らかい。いい匂いもするし」

「それは彩春もだよ。……こうしてると、落ち着く」


 友達と手を繋ぐことはあっても、抱きしめ合うことって、普通あるんだろうか。


 稲月は私をきつく抱きしめてきている。少し痛いが、その痛みすら心地良く感じてしまう私は、どうしようもなく人肌が恋しかったのかもしれない。


 でも、本当に、不思議だ。

 気づけば稲月独特の世界に巻き込まれて、自然と抱擁を交わしている。今までこんなこと、誰ともしてこなかったのに。


 稲月とするのには、違和感がない。

 他の人とハグしてみても、案外違和感なんてないのかもしれない。でも、初めて私がハグしたのは稲月で。


 初めてが稲月でよかったなんて、ちょっと、ほんのちょっとだけ思ってしまう。


「もし、思い出さなくてもさ」


 稲月の髪が、私の髪と混ざる。明るい茶色と暗い茶色のコントラストが、妙に眩しいように思えた。


「いつか私の恋人になってくれたり、する?」

「……わからない。でも、今はこうしてたい」


 私を好きだと言っているのは、ごっこ遊びの延長ではないのだろうか。

 特筆すべき点がない私に向けられた好意を信じるのは難しい。まして、稲月と私には元々接点がほとんどなかったのだ。好きになる機会なんて、なかったはず。


 でも。彼女の好きという言葉は本当な気もするのだ。

 理由を聞いても、きっかけを聞いても、やっぱりよくわからない。

 好きだとか、恋だとか。

 理解できればもっと、幸せなんだろうか。


「そっか。……今はそれでいいや。またこうやって、二人で抱きしめあったりしようよ。そうすれば、きっと楽しいよ」

「うん。……ありがとう、稲月」

「どういたしまし、て? いや、何でいきなりお礼言ったの」

「稲月が、初めてだから」

「んえ。お、おう」

「私を抱きしめてくれたの、稲月が初めて。これ、結構幸せになれるから。だから、ありがとう」


 私はそう言って、彼女に深く体を埋めるようにして、鎖骨の辺りに頭を押し付ける。


「そか。それは、うん。よかった」


 稲月はそのまま、私を受け入れてくれる。

 言葉も、体も。誰かに受け入れられるというのは、幸せだ。

 私たちはそのまま、しばらく抱き合っていた。

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