第31話

「智星。ポテチはベッドで食べないで。あと、脱いだものはちゃんと洗濯カゴに入れて」

「だるっ。いいじゃーん。彩春ちゃんがやってくれるんだからさー」


 智星は下着姿のままベッドに寝っ転がっている。

 智星の家に来てから一ヶ月。それなりに彼女に苦言を呈することができるようになっている気がするが、これでいいんだろうか。


 これって、喧嘩とはちょっと違うような。

 いや、でも。こうやって言えること自体が、大事なのかもしれない。今まで数日間お世話になることはあったけれど、こうして一緒に暮らすなんて初めてだ。


 二人で暮らすのと、完成された家族の中で居候として暮らすのはまた違った感覚だ。稲月と二人の時よりも忙しくて、なんだかいつもバタバタしていて、息を吐く暇もないような。


「文華だってベッドでチョコ食ってるし。あたしだけ怒られんの不公平だと思いまーす」

「文華ちゃんにもちゃんと言ってる」

「あたしより言い方が優しいじゃん。えこひいきー。不平等条約ー」

「何言ってるのかわからないよ」


 居候させてもらっている身で偉そうに言っていいのかなぁ、と思う。でも、言わなかったら言わなかったで智星に怒られる。


 そのせいで、いつの間にか智星や文華ちゃんにあれこれ言うのが当たり前になってしまっている。


 二人はやっぱり姉妹だからか、だらしなさもよく似ている。彼女の両親も細かいことは気にしないらしく、結局私だけが口うるさく色々言っている気がする。


 こうして羽田家で過ごす中で、わかったことがある。

 好意だけで人と人は一緒に居られないのだということを。


 智星たち家族は互いの不満を言い合いながら、それでも仲良く過ごしている。言葉にするだけが、好意を伝える唯一の方法ではないのだ。


 日々の態度でもそれは伝わり得るから、嫌なところや直して欲しいところも言葉にして、異なる人間同士で生まれるズレを少しずつ修正していくべき、なんだろう。


 そうじゃないとどこかで歪みが出る。

 智星はそれを私に伝えたかったんだろう。

 大人だなぁ、と思う。私より、よっぽど。強引なのは確かだけど。


「……あれ。その本って」

「あ、これ? この前あんたが買ってた本」

「ポテチ食べた手で、読んでる?」

「まあ、そうなるか。ごめんごめん」

「……」


 ごめんごめん、じゃないですが。


「彩春お姉ちゃーん。文華のゲーム知らないー?」

「昨日の夜、自分で片付けたんじゃなかった?」

「あー。どこやったっけー」

「ちゃんと元ある場所に戻さないと駄目だよ。……私も探すから、次はちゃんと戻してね?」

「はーい」


 これで、本当にいいんだろうか。

 何かもう、色々変なことになっている気がする。


 そして。稲月は元気にしているだろうか。私がいないからって、また外食していたり、出来合いのものばかり買って食べていたりしたらどうしよう。とても不健康だ。


 意外と私のことなんて、もう忘れてたりして。

 最近はスマホを見るのを禁止されているからわからないが、一件も連絡が来ていなかったらそれはそれでちょっとへこむ、ような。


 いや。

 でもまずは、文華ちゃんのゲームを探さないと。

 泣かれたら、困る。




 そうこうしているうちに、あっという間に九月一日になる。

 本当に、稲月について考える暇がほとんどなかった。文華ちゃんの探し物を一緒に探したり、智星に連れ回されたりするうちに、いつの間にか時間が経っていた。


 両親は八月中に帰らないと言っていたため、多分大丈夫だろうけれど。

 稲月は、どうだろう。


 初日に連絡はしたものの、稲月の返信を見る前にスマホは取り上げられていた。


「ほい、スマホ」


 智星はスマホを投げて寄越してくる。

 私はそれを受け取って、電源をつけた。


 画面を見て、冷や汗が額に滲む。メッセージアプリの通知件数は、130もある。


 これ全部、稲月だったらどうしよう。冷や冷やしながら確認すると、やっぱり全部稲月からの連絡だった。


「どした?」


 智星は不思議そうに聞いてくる。

 同居人からの連絡の件数がやばいんです、なんて言えない。

 私は曖昧に笑った。


「久しぶりのスマホの感触に、びっくりしてる」

「スマホ中毒じゃん。やば」


 本当に、やばい。

 やばいとしか言えないと思う。私はとりあえず今日帰る旨を稲月にメッセージで伝えて、朝の支度を済ませた。


 一度家に予備の制服を取りに行ったから、それを着て家を出る。

 智星と一緒に登校するのは久しぶりだ。智星とは日常的に手を繋ぐことも、歩調が合うこともない。私より一歩先を歩く彼女は、今日も元気そうな顔をしている。


 この一ヶ月、ずっとこんな調子だったなぁ。

 智星についても今まで以上に詳しくなったような気がする。


 喧嘩というほどでもないけれど、色々言い合って、もっと仲良くなれたような。気のせいかな。


 いつもより遅い時間に学校に着くと、教室にはすでに何人かの生徒が来ていた。その中に、稲月の姿はない。


 始業式が始まっても、放課後になっても、稲月が登校してくることはなかった。


「今日帰んだよね?」

「うん」

「じゃ、同居人に色々話すといいよ。あんたのこと、待ってるだろうしね」


 智星は私の背中を叩いた。


「あんたも同居人も、時間経ったしさ。ちょっとは今までとは違う話、できんじゃね? 知らんけど」

「知らんて」

「あんたたちのことは詳しく知らんし。まーあれだ。破局したら慰めたげる」

「その時は泣き喚くからよろしく」

「それだけ言えりゃ十分だ。じゃね。行ってきな」


 そう言って、智星は先に帰っていった。

 私はやや重い足を引きずるようにして電車に乗った。席に座りながら稲月からのメッセージを確認する。


 初日は「どこに泊まるの」とか「なんで」とかそういうメッセージが来ていた。時が進むにつれメッセージ自体は減っていき、電話が何度かかかってきていた。


 私のメッセージには、すでに既読がついている。

 本当に、待っているのかな。


 彼女が待っているのは私ではなく、天川彩春という私の知らない存在なのではないだろうか。このメッセージは私に向けられたものなんかじゃなくて、前の時間軸の私に向けられたもので——。


 私は首を振った。

 一人で考えてたって何も始まらない。

 疑問は全部、稲月にぶつけてしまえばいい。


 そうじゃないともう、何も始まらない。ぬるい関係にずっと浸っていたって。私たちはどこにも行けないんだろう。


 最寄駅で降りて、見慣れた帰り道を歩く。

 駅から少し歩いて、マンションにたどり着く。私はエントランスの扉を開けて、エスカレーターに乗った。


 八階建てのマンションの、八階。それが稲月の部屋だった。

 私はあえてインターホンを鳴らそうかと思ったが、必要ないと思い直して鍵を扉に差し込む。

 鍵は、かかっていなかった。


「ただいま」


 扉を開けるが、返事はない。リビングの電気はついているから、稲月は部屋にいるはずだけど。


 そのまま歩いていくと、不意に前方から強い衝撃を受けた。

 どこから飛び出してきたのか、稲月が私に抱きついてきている。

 というより、飛び込んできていた。


 私はそのままの勢いで硬い床に押し倒された。冷たい感触が制服越しに背中に伝わってくる。


「稲月、痛い」

「おかえり、彩春」


 会話がワンテンポ遅い。

 痛いに対する返事もあるかなと思ってちょっと待ってみるが、そっちに対する返事はないようだった。


 私はそっと彼女の頭を撫でた。その表情は見えないが、私の体に伝わる重さが、彼女の感情を如実に表している。


「うん、ただいま」


 彼女の目が見えなくて、よかったと思う。もしまた私を通して別の私を見ていたら、多分、穏やかではいられなかったから。


「私がいない間、ちゃんとご飯作って食べてた?」

「作ってない」

「駄目だよ、不健康だから」

「彩春が帰ってこなかったら、料理なんて続けても意味なかったから」

「そんなこと、ないと思うよ。いつか役に立つ日が来ると思う。それは、明日じゃなくて昨日かもしれないけど」


 胸の中で、ぴくりと彼女の体が動く。

 私の胸に顔を埋めたまま、彼女は起き上がろうとしない。

 少し、恥ずかしいけれど。


「稲月。私、稲月と話がしたい。今まで話せなかったこと全部、話したい。聞きたい。いい?」

「……うん」


 稲月はしばらく私の上に乗っていたが、やがてのろのろと起き出して、私の手を握ったままリビングまで歩いて行く。

 彼女の体温は、今日も変わらず温かかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る