第19話
「はい、どーぞ」
稲月は食器を食卓に所狭しと並べた。
肉じゃがに、大根とイカの煮物、鮭の西京焼き、ほうれん草のおひたし。味噌汁もちゃんとついている。
……稲月が作ったとは思えないラインナップだ。
いつも他国の料理ばかりを作ってくれとねだる彼女にしては珍しい、純和風の夕食。
「えっと……いただきます」
「うん、召し上がれ。私もいただきまーす」
私は大皿から肉じゃがをよそって、恐る恐る食べてみる。
「ん……これは」
「どう?」
見た目は普通だけど、やっぱり料理は稲月が作ったとわかる代物だった。
甘い。とにかく甘い。砂糖と塩を間違えたとしか思えないほどに。
「とりあえず、稲月も食べてみてほしい」
「んー? ……あっま」
自分で作ったものなのに、稲月はそれを食べて筆舌に尽くし難いほどに嫌そうな顔をした。
「砂糖と塩、間違えたり?」
「してない。大体の料理って甘めのが美味しいじゃん。だからたくさん入れた」
「味見は」
「してない。感覚で作ったからね」
「……稲月」
挑戦はいいと思うけれど、味見だけはしてほしい。
これはもはや料理というよりお菓子だ。
「おかしいな。お袋の味を思い出して涙するみたいな、そういう展開を予想してたんだけど」
「もし稲月の料理が美味しくても、涙は流してないと思うよ」
お袋の味なんて、知らないし。
そこまでは、言わなかった。
「えー。見たかったなー、彩春が泣いてるとこ」
「玉ねぎ、切ってあげようか?」
「そんなの泣いたうちに入らないでしょ」
稲月は甘すぎる肉じゃがを食べてから、私をじっと見つめた。
「……そもそも。彩春は、家庭の味ってある?」
一世一代の告白をするかのような、真剣な顔だった。
答えなんてわかっているはずの問いをするということは、それだけ大事なことを何か言おうとしている、ということなのだろうか。
私は彼女の瞳をまっすぐ見ながら、少し笑った。
「ないよ。お母さんもお父さんも、料理作らなかったし。だから手料理って、ほとんど食べたことない」
「……じゃあ、さ」
彼女は小さく深呼吸してから、意を決したような表情を浮かべた。
「私と一緒に、家庭の味を作っていこうよ」
「……?」
「だから、つまり、その。彩春も私も美味しいって思う料理を、作っていきたいってこと」
「作るのは、私?」
「私も手伝う」
私は肉じゃがを一口食べる。
やっぱり美味しいとは感じられないほどに甘くて、アレンジしてもどうしようもなさそうだった。
「二人で作っていこうよ、そういう家庭の味」
「そのためには、もっと稲月も料理の腕を上げないとね」
「頑張る。……頑張るから」
甘い。
全部が甘い。
味噌汁を飲んでみても、甘い。甘めがいいといっても、味噌汁にまで砂糖を入れるのはやりすぎだと思う。
稲月の家庭の味を食べ続けていたら、いつか糖尿病になりそうだ。
「何かあったの? 急にそんなこと言うの、不思議」
「……それは」
稲月は目を細めた。
「彩春の、帰る場所になりたいから」
「……は」
「彩春の心が迷子になってるなら、ここにいていいって伝えたい。……言葉だけじゃ足りないなら、形に残るもので」
稲月は静かに言う。
それは、確かに私が求めているものだ。
帰る場所。居場所。そういうものがずっとほしいと思ってきた。それを欲していることを、見抜かれているとは思わなかった。
いや。
家出の理由を話した時点で、ある程度は察しがつくのが普通なのかもしれない。
……でも。
稲月が私の特別になる。そんな姿はやっぱり、想像することができない。それは稲月が悪いわけではなくて、きっと他の人でもそうなのだと思う。
信じるには、繋がりも確かなものも、何もかもが足りていない。
自分の言葉が届かないことを知っている私は、誰かを信じる能力を持ち合わせていない。人間は、血の繋がった子供にすら愛着や関心を持てないものだ。なら、どうして他人を特別視することができるのか。
確かに稲月は、他とは違う。
抱きしめるのも、触れ合うのも、稲月とがいい。
だけどこの気持ちが永続するなんて思えない。
いつかあの手紙のように気持ちも捨てられて、終わってしまうのではないかと思う。それが怖い。思いを深めれば深めるほど、それが砕けた時が怖い。
私が捨てる側にならないとも、言い切れないのに。
「私にできるのは多分、これくらいだから。……だから、お願い」
「……時間、かかりそうだね」
ぽつりと呟く。稲月は、私を見ている。
「稲月。まず、レシピはちゃんと守らないと駄目。調味料は過不足なく。味見もしっかりして、アレンジは基本を美味しく作れるまで禁止」
「は、はい」
「もしどうしてもアレンジがしたいときは、私を呼んで。一緒に作るから」
「うん」
「それと」
私は微笑んだ。
「ありがとう、稲月。稲月が私のことを考えてくれてるの、嬉しい。……稲月も、もし私にしてほしいことがあったら、遠慮なく言って。私にできることなら、なんだってするから」
「そういうの、軽々しく言わない方がいいと思うんだけど」
「ううん。軽くないよ。稲月にしか、言わないから」
私は稲月のことが好きだ。
彼女と恋人になれるかどうかはわからないけれど、今よりもっと仲良くなりたいと思う。
それに、知りたいこともある。
最近見える光景が本当に前の時間軸のものなのか、知りたい。そして、もし本当にそうなら、稲月と私が恋人になるまでの過程を知りたい。
今の私は他の誰かになることはできないけれど、前の時間のことを知れば、新しい道が開けるかもしれないと思う。
人を本当に好きになることができない私から、誰かに恋できる私になれたら。その私が想いを向ける相手は、多分、稲月以外にいない。
「だから、ずるいって。そういうの。それ、サッカーだったらレッドカードだから」
「よくわからないよ」
「反則ってこと。ほんと、何されたって文句は言えないレベルだから」
「何か、するの?」
じっと見つめる。稲月は微かに、目を逸らした。
「しない。できない。そんな顔で見られたら、できるわけないじゃん」
稲月は小さな声で言う。
稲月が望むことをしてあげたいという気持ちに嘘はない。でも、何もしないのなら、それでもいい。
稲月がいつか、寂しそうな顔をする理由を話してくれて、私に何かをしてほしいと願ったのなら。私は全力で、彼女のためになることをしたいと思う。
「そっか。でも、何かあったら言ってくれていいよ。力になる」
「……うん」
「……とりあえず、食べよっか」
「全部残しちゃってもいいよ?」
「ううん。食べるよ。稲月の気持ちがこもってるから」
誰かのためではなく、私のために作られた料理。その味は決して美味しいとは言えないけれど、何よりも嬉しい味だと思う。
誰かのために作られた料理は何度も食べたことがあるが、私だけのために作られた料理を食べるのは多分、初めてだ。
ものを食べている時に幸せな気分になるのも、初めてだった。
だから少したりとも残りたくなくて、私は料理に手を伸ばす。
やっぱりどの料理も恐ろしいほど甘かったけれど、食べている間は幸せだった。
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