第10話

 静かなところと騒がしいところ。どっちが好きかといえば、多分どっちも苦手だ。静かなところにいると寂しさが胸を埋めていって、でも、騒がしいところにいると自分が孤独だということを痛感する。


 面倒臭い、と思う。

 寂しいとか孤独とかそんなことをどうでもいいこととして捨てられたらきっと私はもっと身軽になれる。


 でも、小さい頃からずっと抱いてきた感情は捨てようにも捨てられない。もうそれは私の心の一部になっていて、切り離すことも忘れることもできなくなっていた。

 目を閉じると、水の音がする。


「見て彩春、金魚だよ金魚」


 稲月の声が聞こえる。目を開けると、彼女は目を輝かせて水槽を見ていた。


 水槽が幾つも飾られているこの空間は、水族館とはまた違う、アクアリウムと呼ばれるものらしい。


 様々な形の水槽の中に水草やら金魚やらが入っていて、カラフルな光で照らされている。


「綺麗だなー。でも、どうやって餌とかあげてるんだろうね、こういうの」

「そういうの、気になる?」

「擦れた大人はそういうのが気になってしまうのだよ」


 彼女は手を私の手を握りながら言う。

 流石に土曜日の午前中というだけあって、館内は混み合っている。手を繋いで歩いている人も珍しくはないのだが、こういうところで手を繋いでいるとどうにも落ち着かない。


 落ち着かないけど、落ち着く。

 矛盾した感情が胸の中で撹拌されて、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。結局私は彼女の手を握り返していた。


「そんなに擦れてはいないと思うよ。大人でもないと思う」

「これでも彩春よりずーっと長い時間生きてるし」

「うん。でも、稲月とはちゃんと話が合うから。やっぱり稲月は、私と同じ高校生だよ」


 大人と子供の間に横たわる隔たりは、今私たちの間に開いている心の距離よりもずっと大きくて、遠い。


 目を合わせて話ができるなら。私たちはきっと同じ立場にいる人間だと思う。


 大人には大人の考えがあって、子供には子供の考えがある。大人と子供の考えは多分あまりにも色々なものががズレすぎているから、どうにも噛み合わないのだ。


 大人の考えを理解するには、まだ私は子供すぎる。

 だから両親の気持ちは理解できない。

 ……でも。


「稲月のことはちゃんと理解できるし、もっと理解したい」

「彩春はいつも、飾らないね」

「飾ったら大事なものが見えなくなりそうだから」

「確かに」


 私たちは手を繋いだまま館内を歩いていく。色が変わる光に照らされた水槽で、金魚が悠々と泳いでいるのが見える。


 この中の世界しか知らなくても、金魚は快適そうに見えた。

 私も与えられた環境に満足できる生き物だったら、今よりもっと幸せだったのだろうか。


 考えてもやっぱりわからないから、何も言わずに水槽に目を向けた。

 綺麗だ。


 見ていると心が水に満たされて、そこに溜まっていた色んなものが溶けて消えていきそうに思う。溺れていくような感じ。


 喘ぐように呼吸する私の様は、水槽の金魚とは比べ物にならないほどに見苦しく見えるのかもしれない。


「たとえばさ。ここにいる金魚がいきなり広い湖に投げ出されたら、生きていけると思う?」


 周りの談笑の声に混ざって、稲月の声が響く。

 彼女は遠い目をして水槽を見ていた。

 その質問の意図は、私にはわからない。


「無理じゃないかな。金魚はここしか知らないから。死んじゃうよ」

「ま、そうだよね」


 彼女は手に力をぎゅっと込める。

 少し痛い。


「快適な環境で育てられた生き物が本来の生息地に戻されたって、生きていけるはずがない。……もし生きていけたとしても、今ある形とは違くなっちゃうものだよね」


 稲月は何を言わんとしているのだろう。

 ここにいる金魚の幸せを考えているのか。それとも、何かを金魚に重ねているのか。


「知ってる? 金魚って元々、自然界にはいなかったんだって」


 稲月はそう言って笑った。

 紫色の光に照らされた金魚は、私たちに構わず泳ぎ続けている。


 綺麗と言われても、写真を撮られても、金魚は何も気にすることなく生きている。超然としている、というより、色々考えるだけの能力がないだけなんだろう。

 そっちの方が、よっぽど幸せかもだけど。


「そうなんだ」

「うん。だから綺麗なのかもね」


 自然界にも、綺麗なものはいくつもある、と思う。

 でも、稲月はそれを知らないみたいな顔をしている。


「……稲月。いちたすいちは」

「え? あっと、二!」


 私はスマホを構えて、驚いた様子の稲月の写真を撮った。

 いつもとは比べ物にならないほど間の抜けた表情だ。綺麗な笑顔とも、時折浮かべる寂しそうな表情とも違う。

 私の知らない、新しい稲月だ。


「稲月もそんな顔するんだね。面白い」

「もっと可愛い顔するから、今撮ったの消して」

「消しても無駄だと思う。私の記憶には残っちゃってるから」

「じゃあ頭叩いて消す」

「野蛮人だ」


 私はくすくす笑った。

 稲月は不服そうに眉を顰めている。


「そういう顔、もっと見たい」

「私の変な顔見て喜ぶのは悪趣味だと思うんだけど」

「変な顔でも、そうじゃなくても。稲月の新しい顔を見たいだけだよ。……悪趣味かな?」

「……悪趣味じゃ、ない。ほんと、直球すぎだけど」


 稲月は微妙な表情を浮かべてから、私の肩を抱いた。バッグから取り出したのは自撮り棒で、すぐにわざとらしいほどの笑みを浮かべる。


 かしゃ、と音がしたと思えば、連続してシャッター音が響き始める。

 稲月から伝わってくる心臓の音と、どっちが速いだろうか。


 比べるのは難しいけれど、どちらも速いから、私の心臓まで釣られて速くなってしまうような気がする。


「うん、可愛く撮れた。……でも、彩春の笑顔が足りないかな」

「私も結構、笑ってると思う」

「足りないよ。全然足りない。もっとにこーって感じで笑ってみ?」


 にこー……とは。

 笑い方なんて意識したことがないから、難しい。

 試しに口角を上げてみると、稲月に笑われた。そんなに変かな、私の顔。


「あはは、何その顔。めっちゃ不自然なんだけど」

「……今の私にはこれが限界。写真はやめて、回ろう?」

「ま、そうだね。せっかくだし色々見ないと損だしね」


 どちらからともなく自然と指を絡めて歩き出す。

 稲月に出会うまで、私は人の体温をほとんど知らなかった。友達と手を繋ぐ機会くらいはあったが、こんなにも人に自分から触れたり、触れられたりすることはなかった。まして、抱きしめ合うことなんて、一度もなかったのだ。


 体温が絡み合うと色々なものが私の中に流れ込んできて、私が私でなくなっていくような感じがする。でもそれは怖い感覚じゃなくて、心地良く思えた。


 本来ありえない時間の流れで目まぐるしく一日が過ぎて、冷たいはずの手が温かくなって。


 ぽっかりと胸に空いた穴が知らないものでどんどん埋め立てられていって、心に稲月が増えていく。それがどうしようもなく嬉しくて、心が破裂するまで稲月を詰め込んでしまいたくなる。


 稲月が心にいるのが普通になってしまうと、稲月がいなくなった時にもはや私の心は心として機能しなくなってしまう。


 だから、心が埋まるよりも早く色んなものを捨てていかなきゃいけない、のだけど。


 難しい。

 でも、来年も稲月と一緒にいる自分の姿を想像することができない。私たちの間にそんな強固な繋がりはない。一歩脇道に逸れた瞬間に瓦解してしまうような、軽くて弱い繋がりしかないのだ。


 いつまでもこうしてぬるい関係に浸っていたい。

 稲月といる時だけは、私は乾いた私じゃなくて、色付いた人間になれるような気がする。


 なんで稲月なのだろう。

 稲月に手を引かれるとなんだか心が温かくなる。稲月に笑いかけられると少し心が安らぐ。稲月と他の友達にどんな違いがあるのかはわからない。ただ、稲月が傍にいることが自然で、彼女に隣にいてほしいと願う自分がいる。


「稲月」


 ぽつりと呟くと、笑いかけられる。

 私はそっと笑い返した。

 館内の薄い光に照らされた彼女の笑顔は、水槽で自由に泳ぐ金魚よりも綺麗に見えた。

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